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きらきらした夢はあっという間に終わり、ここからは苦難の連続だった。
「どういうことなの、ルディ、婚約者って! あのパトリシアというお姫さまと、結婚する約束だったの!?」
国王との謁見を終えたあと。控え室に戻るのももどかしく、ルディは相手の身分も、これまでに習った貴族の言葉遣いも忘れて、王太子のルディに――――ルドルフ殿下に問いただした。
「貴族のお姫さまの婚約者がいる、って最初に言ってくれていれば――――どうして、先に言ってくれなかったの!?」
平民の田舎娘に責められ、王太子は申し訳なさそうに細い眉をよせる。
「そのことは本当にすまなかった、ルディ。言えば、君が離れていく気がして――――」
ルドルフは弁解するが、ルディの脳裏にはロアーの町に残した母の言葉が、いまさらのようによみがえる。
『王太子殿下との結婚なんて、絶対無理。きっと王宮の人たちに邪魔者扱いされて、いじめられる。そうなっても、母さんはあんたを守ってやれない』
母が言ったのは、こういう意味だったのだ。
世間知らずだった田舎娘の胸に、後悔が嵐のように押しよせる。
母の忠告は正しかった。この話は、なんとしても受けてはならない話だったのに。
「――――わたし、帰るわ。ルディ」
「ルディ!?」
「あんなにきれいで立派なお姫さまがいるのに、ただの田舎娘が王太子殿下の婚約者だなんて。どう見ても勝負にならないわ」
この一ヶ月間、子爵夫人の館で勉強し、ルディも自分ではかなり令嬢らしく変身できたつもりでいた。
実際、ロアーの町の人たちなら、彼女の変貌ぶりに度肝を抜かれたに違いない。
けれどパトリシアというお姫様は、ルディをはるかに上回った。
清涼な声が紡ぐ、なまりのまったく無い流暢な発音。優雅なたたずまいに、淑やかな立ち居振る舞い。肌は牛乳のように白く、唇は赤いバラの花びらのようで、なによりあの神秘的な髪と瞳の美しさときたら!
(お月さまみたいな銀色の髪もすみれ色の瞳も、はじめて見たわ。あんなきれいな人が、この世にいるなんて――――)
まさに、少女なら誰もが一度は思い描く『お姫さま』。童話や神話に語られる『美しき姫』の体現だ。一介の田舎娘など比較にもならない。
「わたし、ロアーに帰るわ、ルディ。今日までいろいろ、ありがとう。あのお姫さまと結婚して、いい王さまになって。わたしはロアーの町から、あなたを見守るから――――」
「駄目だ、ルディ!!」
すんなり心を決めた田舎娘のきゃしゃな肩を、王太子の大きな手がつかんで止める。
「帰るなど、私から離れるなどと言わないでくれ! 君はこのままここに、私と共にいるんだ、私をひとりにしないでくれ!!」
語尾に本物の痛切を聞きとり、ルディは戸惑う。
「でも、あの人たちは貴族でしょう? 平民のわたしが急に出てきて、きっと気を悪くしているわ。このままだと――――」
婚約を邪魔されて怒らない女はいない。
まして相手は王太子。次の王妃になるはずだったところを阻まれたのだ。あの姫君と父親はきっと、ルディになにかしらの報復を企てるだろう。
特にフェザーストン公爵家はロディア貴族でも一、二を争う有力者だ。
子爵夫人の館で暮らしたこの一ヶ月間で、無知な田舎娘も貴族の偉大さ、傲慢さを片鱗程度は理解できるようになっていた。
今ふりかえれば、子爵夫人が妙に念入りにフェザーストン公爵家について教えてきたのも、このためだったのだろう。もうじき敵対するのがわかっていたから、少しでも相手について知っておくよう、配慮してくれていたのだ。
「フェザーストン公爵には、手出しさせない」
王太子は断言した。
「公爵にもパトリシア嬢にも、誰にも君を傷つけさせない。君は必ず、私が守る。だから私のそばにいてくれ、ルディ。あの田舎町で同じ名で呼ばれる君と出会ってから、君の明朗無垢な笑顔に、私がどれほど癒されてきたことか――――」
「ルディ…………」
ルドルフ王太子の瞳も表情も真剣だ。嘘や冗談とは思えない。
けれど。
「約束を破るのはいけないわ、ルディ。あの令嬢と、結婚の約束をしていたのでしょう? きちんと守らないと――――」
「約束した覚えはない。いや、婚約してはいるが、それは陛下や大臣たちの決めたことであって、私自身が決めた婚約ではないんだ。私たちの関係は、純粋に政略だった」
ルドルフはさらに言い募る。
「正直にいえば彼女を、パトリシアを愛していると思っていた。良い夫婦となり、共に王国を支えていけるだろう、と。だが違った。私の彼女への想いは、友愛とか家族愛と呼ばれるもので、気心の知れた友人のような姉妹のような存在だったんだ。それを教えてくれたのは君だ、ルディ。君に出会って、私は本当の恋を知ったんだ」
「ルディ…………」
「離れないでくれ、ルディ。必ず君を守る。だから…………」
ルドルフはすがるように田舎娘のルディを抱きしめる。
ルディの中でも相反する二つの気持ちが生まれ、せめぎあう。
ここにいては危険だ、逃げなければ、という気持ちと。
こんなに頼りないこの人を、放り出すことはできない、という思いと。
けっきょくルディは残った。残らざるをえなかった。
周囲は警備の兵や世話係の侍女たちでかためられ、ルディ自身も路銀もなにも持っていない。
逃げ出すことなど、できるはずもなかった。
翌日からさっそく本格的な説得――――ルドルフにとっては『説得』、ルディにとっては『尋問』がはじまった。
前日同様、国王の会議室に同じ面子が集まり、ふたたび話し合いがはじまる。
「ジェラルディンを妃に迎える!」
そう宣言した王太子に、国王も大臣たちもはじめは半信半疑だった。
何故ならルドルフとパトリシアは幼い頃から一貫して良好な関係を築いてきており、こんな一方的に婚約破棄を望むような関係性ではなかった。
それでなくとも、幼少時から未来の王妃として厳格に育てられた深窓の姫と、教養や後ろ盾どころか姓すら持たぬ田舎娘では、比較にもならない。
大臣たちはそろって王太子に再考をうながし、提案する。
「なにも王太子妃などと、大仰なことを仰せられずとも。殿下がその娘をお気に召したなら、寵姫に迎えればよいだけのこと。殿下はまだお若く、お健やか。寵姫の一人や二人、お召しになったところで反対する者はおりませぬ」
大臣の一人が柔和な口調で勧めると、周囲もうなずく。
今の時代、愛人を抱えるのは富裕や精力家の証だ。
現ロディア国王オーガスティン二世も、体調を崩す数年前までは何人か寵姫を抱えていた。
大臣も国王も公爵も、男たちは心得たように一様にうなずくが、ルドルフは納得しない。
彼の耳に年長の男たちの言い分は、自分たちの純粋な想いを世俗の泥で汚そうとする、薄汚れた大人の悪知恵にしか聞こえなかったのだ。
ルドルフはきっぱりと断言する。
「寵姫では、ジェラルディンは誰か貴族の男の妻にならねばならない。私はそれが嫌だ。私以外の男がジェラルディンの夫を名乗って彼女に触れるなど、とうてい我慢できない」
それが彼の言い分だった。
ロディアに限らず、大陸の大半の国が一夫一妻制を布いている。が、それはそれとして、愛人を抱える者は多い。むしろ本人の意思とは無関係な政略で結ばれる貴族ほど、不倫を優雅な趣味、本物の純愛として楽しみ、尊んでいる。
寵姫は公的に認められた国王の愛人で、歴代のロディア国王も数に差はあれ、ほとんどの王が抱えてきた重要な人材だが、この地位に就く絶対条件の一つに既婚であることが挙げられる。
これは寵姫が子を産んだ場合、どれほど明白に国王の子であったとしても形式上、法律上は『正式に結婚した夫の子』として扱って、王族としての身分や権利はいっさい認めない、という鉄則のためだ。
したがって今回のルドルフのような場合、まずは見初めた相手を信頼できる家臣と結婚させ、形だけの新婚生活をしばらく過ごさせたのち、王宮に迎える、という手順が一般的だが、法律上の『夫』に「けして手を出すな」と釘をさしていても、万一ということはある。
ルドルフはそれを嫌がったのだ。
ずっと黙っていた王妃が、真摯に息子を説得する。
「わがままはおよしなさい、ルドルフ。あなたも王太子として育った身なら、王太子妃という地位の重みを、無教養な平民の娘をそこに据えることの危険性を、理解できるはずです。陛下もフェザーストン公爵令嬢も、そなたが寵姫を迎えること、許すとおっしゃってくださっているのです。素直に大臣たちの進言を受け容れなさい」
「お言葉ですが、母上。父上は幾度か寵姫を迎えられ、そのたびに胸を痛められてきたのは、母上ではありませんか。私は自分の妃を、そのように悲しませたくはない。それはパトリシア嬢でもジェラルディンでも同じです。私は寵姫は迎えません。ゆえに、ジェラルディンは妃に娶る他ないのです」
「――――っ」
息子の反論に、母親は説得の術を失う。




