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「申し訳ありません、駆けつけるのが遅れて」
ユージーンはジェラルディンを立ちあがらせた。
「怪我は? 痛むところや、めまいや吐き気はありませんか?」
「大丈夫です。背中を少し打っただけです」
ユージーンの質問に、ジェラルディンはしっかりした口調で答える。
実際、ブラントには力いっぱい引きずり倒されたものの、王太子妃の私室の床はやわらかい絨毯でおおわれているため、さほど痛みはない。
「先生こそ、どうしてここに…………」
「ジェラルディン嬢からいだいた、例の黒い石の粒のおかげです。炎が、あなたのもとまで導いてくれました」
ジェラルディンは首をかしげる。
「でも、あの加護は昨夜、宴で使ってしまったのでは?」
てっきり、加護は一度使用したらそれきり、と思っていたのに。
ユージーンは笑った。
「昨夜の炎は、私が母から授かった魔術です。特別な道を通る移動の魔術で、追手に捕まることはありません」
なるほどそれで、とジェラルディンは納得する。
ユージーンは付け足した。
「あの加護は、ジェラルディン嬢からいただいた大事な品です。あんな男のために使ったりはしません、もったいない」
茶目っ気を含んだ水色の瞳に、ジェラルディンの頬も、ぽっ、と染まる。
(でも、ルーク先生がお母さまから授かった魔術、って…………?)
ジェラルディンが訊ねる前に、ユージーンがブラントを見ながら説明する。
「少し目を離した隙に、私が持っていた母の魔術を盗んで、潜んでいた宿から抜け出したのです。帰国の前にどうしてもジェラルディン嬢に会う、仲間にすると、しつこかったので、もしや、と」
ブラントを包んでいた炎も消え、落ち着きをとり戻したブラントが右腕を押さえながら怒鳴る。
「くそっ!! ユージーン、よくも貴様っ!!」
炎に包まれたはずの彼だが、火傷などは微塵も負っていない。髪の毛一本、燃えていない。
「あくまで『案内』の術で、攻撃や燃焼を目的とした炎ではない、ということなのでしょう」
ジェラルディンの疑問に、ユージーンはそう推測した。
つまり幻の類だったということか。だとしても効果はあったが。
ブラントはユージーンを指さし、責める。
「何故邪魔をした!? ユージーン! 中流貴族の次男坊風情が、貴族籍を剥奪されたいか!?」
「もう、あなたにそのような権限はありませんよ、ブラント」
「この! 『皇子殿下』をつけろ、無礼者!!」
「ヴラスタリに帰国しても、あなたはもう皇子ではない、ということです」
「なに?」
ユージーンはジェラルディンを背に庇いながら、ブラントに淡々と説明する。
「ここに来る前に間諜と連絡をとり、ヴラスタリ皇帝陛下の命令が届きました。ブラント、あなたは『第二皇子』の身分と、それによって保証されていたすべての権利と権限を剥奪されて財産も没収、北の修道院に送られることが決定しました」
「はあ!? なんだそれは!? どんな権限で、なにを理由に…………!」
「皇太子殿下に対する暗殺容疑です」
ぎくり、とブラントの体がこわばる。
「今回のロディア滞在も含め、第二皇子のあなたを長期間にわたってロディアに遊学させていたのは、そのためです。皇宮では、以前から皇太子殿下の病状について、いくつか不審な点が指摘されていました。そこであなたを国外に出し、あなたの周辺を徹底的に調査した結果、あなたが皇太子殿下に毒を盛っていた事実が明らかになった、というわけです」
「っ!!」
ブラントの額から血の気が引く。
「先ほど、ヴラスタリ大使にも伝えておきました。ヴラスタリに帰国すれば、あなたは逮捕されて修道院に送られます、ブラント」
「ふざけるなよ、クソがっ!!」
ブラントは吠えた。
「俺はヒーローだぞ!? 馬鹿なヒロインと無能な王子から、悪役令嬢を助けて溺愛するかわりに、悪役令嬢の力も名声も、すべて俺のものになる! 主人公と言っても、しょせんは男の添え物! 実質的には俺が世界の中心だ!! そういう筋書きなんだよ、この世界は!!」
「…………どういう意味でしょう?」
本気で首をかしげるユージーンに、ジェラルディンもいそいで説明する。
「あの人、さっきからあんな感じです。自分のことをヒーローと言ったり、フェザーストン嬢を主人公だの、わたしをヒロインだのと…………演劇の見すぎかもしれません」
「観劇や読書が趣味、とは聞いていないのですが…………」
ジェラルディンの説明にユージーンはますます首をかしげ、ブラントもさらに激怒する。
「人を頭のおかしいヤツ扱いしやがって! とにかく、その女は俺のモノだ! パトリシアが加護をもらっていない無能な以上、そいつを使うしかないんだよ!!」
ブラントはジェラルディンを指さす。
「おっしゃっている意味は、よくわかりませんが。とりあえず、わたしはあなたのモノなんて絶対にごめんです!!」
ジェラルディンはユージーンの背後から叫ぶ。
「この…………!」
一歩踏み出したブラントを、ユージーンがけん制する。
「とりあえず、皇帝陛下からのお言葉は伝えしました。釈明するつもりがあるなら、早急に行うことをお勧めします」
ぎり、とブラントが歯ぎしりする。
「お前はいったい何者だ!? 俺の味方じゃないのか!?」
「昨夜の件でしたら、あそこであなたを助ければ、あなたは私を信用する、と予測して、そうしただけです。ロディア王宮からの迅速な脱出を勧めたのも、そうすればあなたは、絶対に手放せない貴重品を抱えて逃げる、と計算してのこと。読みどおり、あなたは携帯できる量の金品と、皇太子殿下に盛っていた毒物を持って王宮を出た。あなたがジェラルディン嬢のもとへ向かったあと、宿に置いて行った毒物は回収して、皇帝陛下直属の間諜に渡しておきました」
「貴様…………っ!!」
ブラントが目をむく。
「よくも、よくも貴様っ! 俺はこの漫画の中心だぞ!? こんなことをして、ただで済むと思うな! 見る目のない中流貴族が、そんなに皇帝に媚びを売りたいか!!」
「媚びではなく、復讐ですね」
「なに?」
すう、とユージーンの声の温度が低くなる。
「レイラーニ・メリガン。覚えていますか? 三年前にヴラスタリ皇宮で侍女として仕えていた、メリガン男爵の娘です。あなたが結婚の約束までしていながら、身籠った途端、傅育官に後処理を丸投げして捨てた、灰色の髪に青い瞳の十七歳の娘ですよ」
「レイラーニ…………そうか、お前、誰かに似ていると思ったら…………!」
「ええ。双子の姉です。そっくり、というほどではありませんが」
ブラントはユージーンの言葉とまなざしに、やや怯む。
「あの女なら、片はついた! ちゃんと充分な金を持たせて、実家に戻したんだ! そう聞いている!!」
「ええ。傅育官は、そう報告したでしょう。ですがレイラは、実際には金をにぎらされたあと、お腹の子もろとも自ら命を絶ったのです」
「…………っ」
話の悲惨さに、ジェラルディンは息を呑む。
「世間では、双子は縁起が悪いと忌避されています。特に男女の双子は、その傾向が強い。それゆえ父は、姉を遠縁の男爵に養子に出し、弟の私だけ手元に残したのです。けれど、その父も数年前に流行り病で亡くなり…………一人になった私はルーク伯爵に引きとられ、養子となりました。あの方は、才能があっても身分が低くて機会を得られない若者の育成に熱心で、私の成績の良さをかってくれたのです。そして伯爵の次男という身分を得たことで、私は男爵家の養女となっていた姉と再会し、定期的に会えるようになりました」
「…………っ」
「その後、レイラーニは下位の侍女として皇宮にあがり、あなたと出会いました。そしてあなたを愛して、あなたからの求婚の言葉を真に受けて身籠り、捨てられ、命を絶ったんです」
「それが…………その復讐だと!?」
「そうです」
「ふざけるな!」
ブラントは怒鳴った。
「あれは、もう三年も前の出来事だ! 金だって渡しているんだ、今さら蒸し返すな!! だいいち、たかが男爵令嬢が、皇子の俺の妃になれるはずないだろう! ちょっと考えれば、わかる現実だ、貴族のくせにそんなこともわからないほうが、馬鹿なんだ!!」
ジェラルディンは、ユージーンの背から冷たい怒りの火花が散るのが見えた気がした。
けれどブラントは腕をふって罵倒を重ねる。
「あの女の頭が悪かっただけだ、それを被害者ぶりやがって、自業自得だろうが!!」
「ちょっと…………!」
さすがに反論しかけたジェラルディンを、ユージーンの手が制する。
「なるほど」と、ブラントにむかってユージーンは一歩踏み出す。
「つまり、レイラーニが迂闊だった、というのですね。そんな言葉を信じるほうが軽率だ、当然の帰結だ、と」
「そ、そうだ」
ブラントは気圧されたように一歩、さがる。
「皇子と男爵令嬢が、結婚できるはずがない。まして俺は、ヴラスタリ皇帝になる男だ。その俺の妃は、将来のヴラスタリ皇后だ。あんな、頭のかるい女に務まるはずがない。そんな基本的なこともわからないで、なにが被害者だ。恨むなら、自分の頭の悪さを恨めばいいんだ」
「ほお」
冷たい響きに、ジェラルディンは思わず背筋に悪寒が走る。
目の前の背中は、本当にあの優しいルーク先生のものだろうか。
「たしかに、男爵令嬢と、二番目とはいえ皇子では、結婚に至るには障害が多いでしょう。ですが、それなら何故、そもそも結婚の約束などしたのです?」
動揺するブラントの胸を突き刺す氷柱のように、ユージーンの声は固く冷たい。
「あなたとレイラーニが結婚できるはずがないこと、レイラーニを愚かと断ずるほど聡明なあなたは、理解していたのでしょう? 何故、はじめからできないとわかっていたことを、できると約束したのですか? それは、賢い人間の賢い行為ですか?」
「そ、それは…………」
「おかしくありませんか? あなたは徹頭徹尾、レイラーニとの結婚の意思はなかったのでしょう? それなら何故、結婚する、と約束したのです?」
ユージーンの声音が変化する。
「…………久しぶりに会ったレイラは、本当に嬉しそうだった。愛する男性と結婚できると、心から信じていた。――――実を言えば、察していたんです。彼女の話を聞くに、相手はかなり身分の高い男。もしかしたら弄ばれているだけかもしれない、と。ですが、あまりにレイラが幸せそうだったから…………なにも言えなかった…………」
語尾に混じる、悲しみと後悔の響き。
「今でも悔やみます。レイラーニの相手が、女好きで、身分の低い娘を弄んでは捨てていると噂の第二皇子だと、あの時、聞き出しておれば。両親を亡くした私にとって、レイラはただ一人残った家族で、同じ日に生まれた半身だった。彼女だけは幸せに長生きしてほしいと、どれほど祈ったことか。あの時、違う対応をしていれば、違う未来もあったかもしれないのに。私の選択ミスが、私の半身を永遠に失わせてしまった――――」
「先生…………」
「だから、あなたが許せない」
普段、優しく澄んだ水色の瞳が、暗い光と共にブラントを見つめる。
「レイラを、いえ、レイラや何人もの少女たちを弄び、傷つけておきながら、何食わぬ顔で皇子として優雅な生活をつづけ、平然とフェザーストン嬢と結婚しようとしていた、あなたが。だから私は、自らあなたの監視役を買って出たんです。すべては、あなたにレイラーニの無念を伝えるため。レイラの絶望の、半分でも味わわせるためです、ブラント」
「う、うるさい!!」
蒼白で聞いていたブラントは床を蹴って叫んだ。
「それは私のせいじゃない! あの女が馬鹿で身の程知らずだっただけだ! 己の身分をわきまえず、一人で勝手に被害者を気どって死んだ、それだけだ!!」
「詭弁ですね」
ブラントの語尾を叩いてさえぎるように、ユージーンはきっぱりと断言した。
「約束は破ってはいけません。でないことを、できると言ってはいけません。そう、傅育官や家庭教師たちから教わりませんでしたか? 特にあなたは、第二皇子だ。皇太子殿下になにかあれば、次のヴラスタリ皇帝となる立場です。言動には細心の注意を払う必要がある。政治家としても、けして言質をとられるような真似をしてはならない、と皇帝陛下から教わりませんでしたか? 約束することは、言質をとられる最たる行為ではありませんか」
「な…………」
「政治の世界では、都合の悪い約束をして言質をとられることは、最大級の失態です。あなたがそれほどレイラーニと結婚する気がなかったなら、はじめから約束などすべきではなかった。期待を持たせるのではなかった。できないとわかっている時点で、できると言ってはならなかったのです。あなたはレイラーニを愚かと見下しますが、こんな初歩的なことに気づいていない、あなたのほうがよほど愚かです。そんなこともわからないのですか、頭が悪いですね」
「な…………!」
「あなたは単に、レイラーニや他の娘たちに、できないことを『できる』と嘘をついただけです。そして後始末は他人に丸投げし、『むこうが立場をわきまえていなかった』と責任転嫁して、自分の責任から目をそらしている。それだけです。だからあなたは今、あなたを育ててきた傅育官や家庭教師たち、弄んできた少女たちの家族や、ひいてはヴラスタリ皇帝陛下の信頼を失い、ここにいるのです」
「っ、この…………!」
「皇太子殿下はお体こそ強くないが、誠実で真面目な人柄です。嘘は言わないし、できないことは約束しない。自分より身分が低くとも、相手を軽んじない。そういう言動が周囲の信頼を集めて、今、あの方を救うために大勢が奔走しています。対して、皇帝陛下があなたの皇位継承権剝奪を決定した時、重臣たちは誰も反対しなかったそうです。その違いを、一度正面から真剣に考えてみてはいかがですか?」
「…………っ、この野郎…………っ!」
ブラントはなにか罵ろうとしたのだろう。
けれどユージーンの眼光に気押され「くそっ」と吐き捨てると、
「覚えていろ! 俺が皇帝になったら、お前を真っ先に処刑してやる!!」
そう言い捨て、背中を見せて走り去ってしまった。
闇の中に、ユージーンとジェラルディンの二人だけが残される。
「ルーク先生…………」
助かった、のだろうか。
おそるおそる声をかけたジェラルディンに、ユージーンはふりむいて手短に告げる。
「ジェラルディン嬢。私はここを離れます。じきに闇が晴れます。私がここにいては、ロディア王太子妃の私室に、他国の男が侵入したことになってしまいます」
「あ」
一大事である。
「ブラントは、もう来ないでしょう。彼の処置は皇国に任せてください。あなたはこのまま、あなたの望む道を」
「先生!」
言い残すと、ユージーンはジェラルディンの手の甲に触れるか触れないかの口づけを残してから、闇の中を去って行った。
同時に室内に明るさが戻ってくる。
もといた自室だった。
ジェラルディンのそばには長椅子があり、読んでいた本が床に落ちている。
窓を見ると、太陽の高さは先ほどと変わったようには見えなかった。
「レイラ妃殿下? お呼びになりましたか?」
扉の外から侍女が確認の声をかけてくる。
「ええと。大丈夫、なんでもありません」
ジェラルディンはかろうじてそれだけ返事すると、へたり、と床に座り込んでしまった。
「なんだったの…………今のは…………」
夢――――だったのだろうか?
(いきなりブラント皇子が現れて、指輪の加護は槍を残していて、ルーク先生が助けてくれて。先生のお姉さんは、ブラント皇子に弄ばれて捨てられて、それで自ら命を絶って。ブラント皇子も、皇太子暗殺がばれて、皇位継承権を剥奪されて修道院行きだって…………)
記憶をなぞったが、あまりに目まぐるしくて、現実感がわかなかった。
「だますほうが悪いに決まっている」byク○ピカ




