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ジェラルディンの黄泉帰りでさわがしかったロディア王宮は、別件で忙しくなった。
朝から晩まで下男下女が掃除に追い立てられ、侍女や侍従も主人たちの衣装の点検に走りまわり、料理人は何度も献立を組み直しては、出入りの商人と食材の手配について確認し合う。
王太子妃の衣装係も、どの日にどのドレスを着てどの宝石を飾るか、マレット男爵夫人や役人たちと話し合いをくりかえし、ずっと勉強を休んでいたジェラルディンも、この時ばかりはさすがに真面目に作法やダンスをおさらいした。
そうして問題の日。
ヴラスタリ皇国第二皇子ブラントとその婚約者パトリシア・フェザーストン公爵令嬢が、ロディア王宮に到着する。
ロディア側は王家と重臣一同が礼服に身を包み、正面玄関に勢ぞろいして賓客を迎えた。
盛大な音楽が鳴り響いて、ヴラスタリ皇家の紋章を掲げた大型の馬車から、毛皮を山ほど縫いつけた外套をはおった銀髪の青年が現れ、中にいた旅装姿の令嬢に手を貸す。
下車した皇子と公爵令嬢は、国王の前に並んで歩み寄った。
「久しぶりだ、ロディア国王陛下、王妃殿下」
『美しき氷の貴公子』は相変わらず傲慢なほど堂々として、冷ややかなほど凛々しい。
「国王陛下と王妃殿下には、ご機嫌麗しゅう…………」
久々に見るパトリシアはいっそう麗しく、大輪のバラが咲き誇るかのようだった。
ジェラルディンはさり気なく、彼女の背後に視線を送る。
パトリシアのななめ後ろには相変わらず、例の侍女ニナ・ノールズ子爵令嬢が付いていた。
ロディア国王オーガスティン二世とブリアンナ王妃は、内心はどうあれ、にこやかに異国の皇子とその婚約者を迎えて、挨拶をかわす。
「ルドルフ王太子と、王太子妃も――――」
ブラント皇子がルドルフへ顔をむけ、その隣のジェラルディンを見て、明らかにかたまった。
淡紅色だった髪は闇のように黒く、琥珀色だった瞳も炎のような赤へ。肌は水仙の花びらのように瑞々しく白く、小さな唇は新鮮な柘榴の実のよう。
いかにも初々しかった雰囲気は一変して、しなやかな蛇にも似た妖しい美を放っている。
「いや、これは…………」
ブラント皇子は絶句し、視線がジェラルディンから離れない。
「ブラント様?」
隣のパトリシアに声をかけられ、やっと我に返った。
「失礼した。黄泉帰りと同時に容姿に変化があったと聞いてはいたが、ここまでとは…………」
言うなり、ジェラルディンの手をとって挨拶する。
「久々にお目にかかる、レイラ妃。見違えるように妖艶だ」
暗い青の瞳が、ジェラルディンの赤い瞳をのぞき込むようにまっすぐ見つめる。
「…………お久しぶりです、ブラント殿下」
ジェラルディンは型通りに、最低限の挨拶だけを口に出した。
「長旅でお疲れだろう。まずは宮内へ」
オーガスティン二世がブラントをうながし、先導する。
「行こう、ルディ」
ルドルフはジェラルディンの肩を抱き寄せ、ジェラルディンもこの場では抵抗せず、うながされるまま宮内に向かおうとして、気がついた。
すみれ色の瞳が、ジェラルディンを見つめている。
パトリシアが嫉妬のまなざしでジェラルディンをにらんでいた。
それから数日間。王宮はにぎやかだった。
大学の提携の件でロディアに来たはずのブラント皇子は、一回だけ大学に赴くと、あとは毎日、王宮で催される夜会だの歌劇だの、大貴族の夫人が開くお茶会だのに出席して、ジェラルディンから見ると遊んでばかりにしか見えない。
まあ、貴族にとって社交は重要だし、外交も兼ねて異国に来ていると思えば、あちこちに顔を出すのも仕事の一環ではあろうが「それにしたって」というのが、正直な感想だ。
ジェラルディンが特に呆れたのは、皇子のジェラルディンに対する態度の変わりようだった。
前回の滞在では、人をさんざん田舎娘呼ばわりしたくせに、今は隙あらば口説こうと、なにかにつけて寄ってくる。
(そもそも大勢の前で求婚した、フェザーストン嬢がいるのに…………)
ジェラルディンは呆れを通りこして怒りを覚える。
恥知らずにもほどがあるだろう。それにしても。
(今のわたし、そんなにきれいなの?)
自分ではわからないが、ルドルフをはじめ、国王にせよ貴族たちにせよ、黄泉帰ったジェラルディンを一目見るなり瞠目して言葉を失う者が多すぎる。
世話をする召使いの女たちですら、たまに、うっとり見惚れているほどなのだ。
ジェラルディンは唸った。
あまりに変貌がすぎるなら、あの女性がわけてくれたという『美』を、返すことも考えたほうがいいかもしれない。ルドルフの変心といい、姿が変わってこのかた、良いことよりも困ったことのほうが多い気がしてならない。
そんなことを考えながら、晩餐前にぽかりと空いた一時を、庭園の片隅で木立の影に隠れるように座ってすごしていると、思考は、例の探し物とフェザーストン嬢の件に行きつく。
ジェラルディンは、まだ矢の件をルドルフにも国王にも明かしていない。
フェザーストン嬢の行為を白日のもとにさらしたいとは思うが、どうやって話をそこまでもっていくか、きっかけがつかめずにいる。
(フェザーストン嬢と二人きりで…………は、危険そう。ルドルフ殿下と…………最低でも、国王陛下には知っておいていただかないと、離婚も進められないし…………ブラント皇子にも…………)
あれこれ思案をめぐらせていると、きゃあきゃあと楽しそうな声が聞こえてきた。
木立の隙間からのぞくと、帽子をかぶって外出用の手袋とドレスを身に着けた令嬢が五、六人、笑い合いながらこちらへ歩いてくる。
木立があるのでジェラルディンの姿は見えないだろうが、見つかると面倒くさそうだ。
ジェラルディンがひたすら体を小さくしていると、少女たちの高い声が枝葉の隙間をすり抜け、耳に届く。
「それでね、ブラント殿下の凛々しさったら! 今からでも、愛人に立候補したいくらい!」
「まあ! フェザーストン嬢にいじめられますわよ。今だって、ブラント殿下がなにかにつけてレイラ妃殿下を口説かれるせいで、ご機嫌が悪い日がつづいているのに!」
どっ、と令嬢たちが笑う。
ジェラルディンも、やっぱり気のせいではなかった、と納得すると。
「それにしても、情けないのはルドルフ殿下だわ」
娘たちの声音が低くなる。
「平民の田舎娘にのぼせあがって、公爵令嬢との正式な婚約を破棄した時点で、すでに恥さらしなのに。その令嬢が皇国の皇子に見初められたおかげで、ルドルフ殿下のほうが捨てられたような形になってしまったし。そうまでして結婚したレイラ妃殿下も、式を挙げた途端、放り出されて。いい加減にもほどがあるわ」
「以前は、もっと聡明で思慮深い方だったのに…………何故ああなってしまわれたのかしら」
「レイラ妃殿下が黄泉帰られてからは、また妃殿下にお熱だけれど。妃殿下には、まったく相手にされていないのですって?」
「それはそうよ、あれだけ放置されて、今さら信じられるものですか」
「私の父も心配しているわ。あまりに夫妻の不仲がつづくようでは、後継が不安だ、って」
「それでなくとも、あれほど感情的な性格とわかってしまっては…………」
娘たちは好き勝手に言い合いながら、木立にはさまれた小道を去っていく。
言葉遣いこそ上品だが、女が噂話を好むのに、身分の貴賤は関係ないものだ。
そう思いながらジェラルディンが立ち上がり、娘たちとは反対の方向に歩き出しかけた時。
「…………ルドルフ殿下?」
ジェラルディンが隠れていた木陰の、茂みをはさんだ反対側に青年が一人、窮屈そうに座っていた。
彼の眩しい金髪が夕日をはじいて、その存在に気づいたのだ。
「どうして、こんなところに…………」
はた、と思い至る。
「ひょっとして…………先ほどの令嬢たちの話を…………」
「仕方ない」
ルドルフは苦く笑って立ちあがる。
「噂されても仕方ないことを、私はしてしまった。当然の帰結だ」
裾をはたく。夕暮れの中で見る彼に昼間の凛々しい面影はなく、なんだか疲れているようだ。
実際、疲れているのだろう。肉体的な疲労のことではなくて。
「…………彼女らに、罰は大袈裟でも、注意くらい与えては? 外国からのお客さまもいらしているのに、彼女たちの言動は軽率でした。その権限が、あなたにはあるはずです」
ルドルフはあきらめたように首をふる。
「私の招いた結果だ。誰を責めようもない」
沈みゆく赤い太陽を見ながら、ルドルフはぽつぽつと、こぼすように呟く。
「この一年、まるで嵐に包まれたような心地だった。通り抜けるのに必死で…………抜けたあとは、風雨に荒らされた大地が残っている。そういう気分だ」
遠くを見る、寂しげな横顔。
ジェラルディンは何ヶ月ぶりかで、彼と顔を合わせた気分になる。
思えば、彼も哀れな身の上だった。
ジェラルディンの苦しみのきっかけ、人生が歪んだ原因には違いないが、一方でルドルフ自身もまた、他者の思惑により心や人生を曲げられた存在でもあるのだ。
「――――行きましょう、殿下」
ジェラルディンは手を差し出した。
「ルディ?」
「わたしたちはたしかに、他愛ない存在かもしれません。わたしは殿下の持つ権力に生活や人生を壊され、殿下も神の力によって、心や人生を壊されている。平民も王族も、わたしたちはいつだって、自分以外の強者にいいように弄ばれる立場や運命なのかもしれません。でも」
ジェラルディンの内側に一つの思いが屹立する。
「だからといって心を、人生をゆがめられていいはずがない。たとえ神が相手でも、わたしたちの心は自由でなければならない。誰にも支配されていいはずがないんです。だから」
ジェラルディンは、ルディは再度、ルドルフを誘う。
「戦いましょう、殿下。わたしたちは、まだとりかえせるはず。少なくとも、その可能性は残っているはずなんです。わたしたちの心や人生を、とり戻しに行くんです――――ルディ」
もう長い間、口にしなかった彼の愛称を、ジェラルディンは久しぶりに口に出した。
ルドルフは目をみはり、やがて導かれるように、己が妃の手に自分の手を重ねる。
新緑の瞳と炎の瞳が見つめ合った。




