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(あの無くなった黒バラの造花が供えられた神殿に、確認に行きたいけれど。問題は、男爵夫人たちや警備の兵士たちだわ)
深夜。灯りを消した寝台の上で、ジェラルディンはもんもんと悩む。
あの黒バラを供えた人物を知りたい。
けれど、それには王宮を出る必要がある。
仮にも王太子妃だ。本来なら侍女に命じるか、いっそルドルフに頼めば、即座に調査してくれるだろう。
けれどマレット男爵夫人の息のかかった侍女たちに頼めば、男爵夫人に筒抜けなのは明らかだし、下手にルドルフに頼んで、借りを作りたくもない。
ジェラルディンが直接赴くのが確実だが、今のジェラルディンは安易に王宮を出ることは叶わぬ立場だ。
身分上の理由だけではない。
ロディア王宮にとって、今のジェラルディンは聖女になる可能性のある人材。
うかつに外出を許して何事か起きては、悔やんでも悔やみきれなかった。
(神殿に行きたいと言っても、素直に出してもらえるかどうか…………警備の兵をつけても難しいかも…………)
いったいどうすれば、とジェラルディンはため息をついた。
すると。
(え?)
一瞬のことだった。
全身がゆらぐような違和感を覚えたかと思うと、空中に浮く。
それから、ぽてっ、と白いなめらかなシーツの上に落ちた。体がかるい。
(え? え? え? )
ジェラルディンは驚いて左右を見渡す。灯りをつけた覚えがないのに、視界が明瞭だ。
自分を見下ろすと、長い毛に包まれた丸みを帯びた胴体があった。
左右の腕は黒い皮膜の羽。
(え…………これって…………蝙蝠!?)
ジェラルディンは思い至って仰天する。
寝台を飛び降り、壁にかかっている大きな鏡で確認する。
やはり蝙蝠だ。
(どうして…………)
そこで気づいた。
(指輪…………!)
姿は蝙蝠なのに、何故か指にはしっかり例の黒い石の指輪がはまっている。寸法がまったく違うはずなのに、抜ける気配もない。
(ひょっとして…………この指輪のせい?)
あの不思議な女性の言っていた『加護』とは、このことだろうか。
(ちゃんともとに戻れるの? でも)
好機だ、と思った。
(行ってしまおう!)
ジェラルディンは羽ばたいた。
壁に空いた採光用の小さな窓にむかって飛びあがり、ガラスのはまっていないそこを小さな体ですり抜けると、思いきって夜の空へ飛び出す。
(気持ちいい…………!!)
都の灯りが足の下にある。
鳥たちは毎日、こんな光景を見ているのか。
このままロアーの町まで飛んでいけそうな気がする。けれど。
あの貴婦人の語っていた「神への感謝の供物を忘れたために、獅子に変えられた夫婦」の話が脳裏によぎり、興奮に冷水を浴びせられる。
神話においては、かわした誓いを破った者は、人も神も例外なくひどい目に遭うのが定番だ。
正確には、約束をした覚えはなかったジェラルディンだが、
(無用に神の怒りを買うことはないわ)
と判断して、探し物を優先することにした。
神殿の場所はすぐにわかった。
一般に、その町や都を守護する神の神殿は、町の中央にある広場に面して建てられている。
が、黄泉の神を祀る神殿はその性質上、都の外、死者の国があるという西側に建てられるのが習わしだ。
蝙蝠が西をめざして飛んでいくと、王都を囲む城壁を出たすぐそばに、石造りの古めかしい建物が見つかった。
建物の窓や扉からは灯りがもれている。一般の人々は眠っている時間だが、神官たちは真夜中にも祈祷があるのだ。
(さあ、どうしよう)
こんな真夜中に真正面から訪ねても、怪しまれて入れてもらえないかもしれない。
そもそも蝙蝠の姿で、どうやって質問すればいいのか。
うーん、と神殿の中庭までぱたぱた飛んで侵入すると、黒衣をまとった老いた神官が一人、ぼんやりと中庭の隅に座っていた。
ジェラルディンがなんとなく近づくと老神官は、
「おや、参拝者かな。若いのに感心なことだ」
と、鷹揚に話しかけてくる。
「参拝者というか、質問があって…………」
回廊の縁にぶらさがった(当たり前だが、頭に血がのぼらない)ジェラルディンは、思考がそのまま言葉となって口からすべり出る。
人の言葉で話せている! と驚いたが、それ以上にびっくりしたのは。
「おやおや、なんの質問ですかな。今宵のあなたに黄泉の主の祝福があるように。若者の向学心は大事だ」
老神官はいかにも好々爺然とした口調で蝙蝠に応対する。
驚かないのか、と意外に感じたが、かなりの老齢だし、もしかしたら、ちょっと心がこの世を離れはじめている方なのかもしれない。
ジェラルディンは用件を済ませることにした。
「お訊ねしたいことがあるのです。少し前にこの神殿に、黒魔術の対価というか、黄泉の女神への感謝の供物として、黒いバラの造花を捧げた人物が来ませんでしたか?」
ほっほっ、と老神官は笑った。
「はてさて、年をとると、物覚えも悪くなってのう。半年前も十年前も、今となっては大きな違いはないものじゃ」
「そうではなく…………」
ジェラルディンは質問を何度も変え、どうにかこうにか、黒い供物は魔術の礼として捧げられた可能性を考慮し、他の一般客が持参した供物とは区別して、捧げられた品と捧げ主の名を記録している、という事実を聞き出す。
「その名簿を見せていただけませんか?」
「名簿係かの? それは儂も勤めたものじゃ。あれは字を書ける神官の中でも、長く仕えた者にしか許されん、名誉な役目でのう」
話が右にそれ左にそれ、やっとこさジェラルディンこと蝙蝠は、名簿のある部屋まで老神官をせっついて行くことに成功する。
「これがその名簿じゃ」
老神官が書棚からとり出したそれを、ジェラルディンは慣れない蝙蝠の爪と指に苦心しながら、どうにかこうにか目的の頁までめくっていく。
(あった!!)
ブラント皇子やルーク先生がヴラスタリ皇国に戻ったあとの日付の下。
捧げられた供物として『黒バラの造花』の一文がある。
捧げたのは――――
(やっぱり!)
ジェラルディンは蝙蝠の手で拳をにぎった。
「ありがとうございます、神官さま。おかげで助かりました」
「なんの、なんの」
蝙蝠が名簿を閉じて返せば、老いた黒衣の神官は鷹揚にうけとる。
「気をつけてお帰りなされ。黄泉の女主人に、よろしく」
そう挨拶して見送ってくれた。
「はあ。けっこう疲れた…………」
飛行に疲れたというよりは、調べ物と聞きとりに気力を消費したというほうが正確だろう。
王宮の、王太子妃専用の寝室に戻って来たジェラルディンは、採光用の小窓を出た時とは逆の方向にすり抜けて室内に入ると、さてどうしよう、と悩んだ。
「確認は終わったから、もとに戻れるといいんだけれど…………」
さすがに朝までこの姿では、大騒ぎになるのが目に見えている。
(あ、でも。いっそ蝙蝠のままのほうが、ルドルフ殿下と離婚しやすいかも――――)
そう思った時には、先ほどのゆらぐような違和感に全身を包み込まれて、気づくと寝台の上に寝間着姿で座っている。サイドテーブルには寝る前に読んでいた神話集。
「え…………戻った、の?」
視界は暗く、ぺたぺたと自分を触ってみれば、手のひらに伝わってくるのは素肌の感触。
長い髪をかるく引っぱり、両手をにぎって、異変に気づいた。
(指輪が…………石の数が減っている?)
窓に歩み寄り、月明りに照らして確認してみたが、間違いない。
一ヶ所だけ、一粒分の空きがある。
花びらのように五つ並んでいた黒い粒は、四つに減っていた。
「加護って、こういうこと…………」
ジェラルディンは俄然、心強くなった。
(こういう力が使えるなら、約束もさっさと果たせそうだわ)
自分一人で何ができるだろう、と悩んでいたジェラルディンは、目の前の可能性が大きくひろがったのを感じる。
(それに、さっきの名簿の名前も)
ジェラルディンの立てた仮説は正しそうだった。
先ほど、黄泉の神を祀る神殿で確認した名簿、その中で見つけた名前。
神殿に、魔術の礼として黒バラの造花を捧げた人物。その名は――――
ニナ・ノールズ。
パトリシア・フェザーストン公爵令嬢に常に付き添っていた、若い侍女の名だった。




