13
それから数日間、ルディは眠りつづけた。
最初、マレット男爵夫人は彼女を叩き起こして、日課である授業を受けさせようとした。
けれど王太子殿下直々に、
「衝撃をうけて当然だ。落ち着くまで、ゆっくり休ませよう。宮廷は気にしなくていい」
と許可を出されては、反論するわけにもいかない。
仮に男爵夫人が叩き起こしたところで、目覚めることができたかどうか。
ルディはこんこんと、まさに死んだように眠りつづけた。
ようやく目を覚ましても、本調子には戻らなかった。
目覚めてもルディの反応は鈍く、マレット男爵夫人の際限ない金切り声のお説教にもぼうっとして、起きているのか、いや、生きているのか判然としない。
報告をうけて見舞いにきた王太子は、新妻を王宮の外に出すことを決めた。
王都からやや離れた森に、王家が所有する古城がある。そこに移すことにしたのだ。
古城といっても、王族が定期的に休養に訪れる、いわば別荘で、都の喧騒からも離れられるため、療養にはうってつけだろうと、ルドルフが新妻を気遣ったのだ。
ルディはルドルフに付き添われて王宮を出発し、翌日の昼前に古城に到着する。
数百年前に建造されたという石の城は美しい湖の畔に建ち、見るからに古めかしいが、内部は一転、今時の家具が並んでいる。一方で壁には壁紙ではなく、色とりどりの巨大な壁飾りが飾られて、新旧入り混じるような独特の趣を醸し出していた。
ルディはこの古城の城主夫人の部屋を与えられ、ルドルフも城主の部屋に荷物を運ばせるが、 彼は三日ほどこの城に滞在したあと、ルディを置いて王宮に戻る予定だという。
「陛下の体調が、また思わしくない。私は帰還するが、君はゆっくり休んで療養に専念するといい、ルディ。王宮のほうは心配しなくていい」
一見、新妻を気遣う優しい台詞だが、ルディはもう、言葉通りにはうけとらなかった。
口さがない召使いたちが話していたのである。
「王宮を出て療養だなんて。名目上はレイラ妃殿下のお体のためだけれど、これって…………そういうことよね?」
「でしょう? ルドルフ殿下のレイラ妃殿下への冷めっぷりは、誰の目にも明らかだもの。療養という口実で妃殿下を遠ざけ、いずれ離縁なさるおつもりなんだわ! お二人は、まだ本当には夫婦になられていない、白い結婚だもの。神殿だって認めざるをえないわ」
能力よりも、マレット男爵夫人への忠誠を基準に採用された召使いたちは、王太子妃が休む寝室の扉のすぐ外で噂話に興じることに抵抗がない。
気遣いの足りぬ娘たちの話を聞いても、ルディの胸には、もはや怒りも絶望も生じなかった。
もともと来たくて来た場所ではない。
噂話を信じるなら、王宮では早くも寵姫志望の女や、再婚を期待する令嬢たちがルドルフをとり囲んでいるという。
結婚の理由だった母親が亡くなり、肝心の夫からの愛情も失せた今、王宮から出してもらえるなら、明日にでも離婚してほしいというのが偽らざる本音だった。
翌々日の夕方。
ルディは久々にルドルフと晩餐をとった。
上流階級の正餐は昼だから、晩餐はかるめにすませるのが普通だ。
とはいえ王族ともなれば、軽食でも白いパンに野菜とハーブのスープ、複数のチーズや豚の塩漬け肉に小さなデザートはついてくるものだ。
塩漬け肉を切るのは、ルドルフがもっとも信頼する王太子付き侍従テオドール。王侯貴族の前で刃物を扱えるのは、ごく限られた人間に許された特権であり、信頼の証なのである。
テオドールは大きな塊肉を慣れた手つきで切りわけると皿に盛り、給仕係がその皿を王太子に、それから王太子妃へと運ぶ。
会話はなかった。
食堂は重い空気に満ち、カトラリーが触れるかすかな音だけが響く。
気まずさをごまかすためか、夫はいつも以上に葡萄酒の杯を重ねた。
「明朝、かるく食事をとったら出る」
ルドルフが切り出す。
ルディもすでに教えられていたので驚きはなく、ただうなずいて食事に戻る。
その淡々と表情の消えたルディの顔を見て。
普段より葡萄酒の酔いがまわったのか、白皙の美貌をほんのり紅潮させた夫が、ぽつりとこぼした。
「君は、本当に笑わなくなった。笑っても愛想笑いばかりで、そこらの令嬢や貴婦人と大差ない。おそらく、私が惹かれたあの明るい純真無垢な笑顔は、ただの田舎娘だったからこそ、見られた笑顔だったのだな」
しみじみとした響き。
赤い頬のルドルフは自嘲するように言葉を重ねる。
「野の花は野にあってこそ、その美しさや可憐さが際立つ。君を王都に連れてきたのは、間違いだったんだ、ルディ――――」
そう言って疲れたように葡萄酒の杯をあおったルドルフは、生来の美貌もあって、人生の汚らわしさに倦んだ繊細な詩人のように儚く艶っぽい。
けれどルディは、頭の中を満たしていた霧が晴れていくような衝撃をうけた。
冷めきっていた怒りにふたたび火がつく。
わたしだって、来たくて来たわけじゃない。
でも、お母さんの治療を申し出られ、叔父さんたちも近所の人たちも大乗り気で、ただの田舎娘のわたしには、王太子殿下のお言葉に従う以外の道はなかった。
王宮では誰からも嫌われて、一人ぼっちで。
仲良くなれた子たちは、みんな追い払われて。
文法も朗読も演奏も、ちょっと間違えただけで鞭が飛んできて、いつもお腹をすかせて、なのに食事は故郷の田舎以下。
婚約者のいる王太子殿下を誘惑したふしだらな女だの、完璧な淑女たる公爵令嬢にはりあう身の程知らずだの、礼儀作法もろくに知らない田舎者だと、けなされ、嘲笑われ、軽蔑されて。
それでもお母さんが満足な治療をうけられるなら、元気になるなら、と。
それだけを頼りに耐えてきたのに。
なのに、お母さんは。
いったい、わたしはなんのために王宮に来たの?
ここに来さえしなければ、わたしは今も無知で無能な田舎の小娘で。
でもかわりに、生まれ育ったあの町の、あの小さな家で最後までお母さんの世話をして、お母さんを看取ってあげることができたはずなのに。
助からないと決まっていたなら、せめて最後までお母さんと一緒にいたかった。
それができなかったのは、なぜ?
立派な治療をうけさせてあげられなかったなら、わたしはなぜ、ここにいるの?
――――全部、この人のせいだ。
王太子が望みさえしなければ、わたしがここにいることはなかった。
わたしは寵姫でいいと言ったし、周囲の人たちもそれを勧めた。
なのに「妃に」とかたくなに譲らなかったのは、この人ではないか。
王太子殿下がわたしをここへ連れてきたから、わたしはこんな苦しみを味わう羽目になった。
すべて、この人のせいなのに――――
それが今さら「わたしを王都に連れてきたのは間違いだった」――――!?
「いいかげんにして!!」
ルディはテーブルを叩くように立ちあがる。
突然の大声と食器の音に、ルドルフも、はっ、と酔いが覚めたように顔をあげる。
「わたしをここに連れてきたのは、あなたじゃない! あなたがわたしの人生を壊したのに、なんで気づくのが今頃なの!? どうして、もっと早く理解してくれなかったのよ!? すべて終わったあとにそんなことを言われても、もうなにもかも戻らないのに!!」
ルディはとっさに、テオドールがにぎっていた肉切り包丁を奪っていた。
身の内が怒りと憎しみで燃えあがるように熱い。
「ルディ!?」
ルドルフが驚きの声をあげて立ちあがるが、ルディは止まらない。
「わたしの母と人生を返して――――!!」
叫びながら、ルドルフにぶつかっていた。
肉切り包丁の先が、彼の上質な厚地の上着を裂いてその下の皮膚を切り、かたい筋肉に届く。
ルディが身を引くと刃も抜かれて、食堂の磨かれた床に赤い滴がいく粒も飛び散った。
「うぐ…………っ」
ルドルフは呻きながら腹を押さえて膝をつく。
「なんと…………妃殿下がご乱心だ!! であえ、であえ!! 侍医を呼べ!!」
テオドールが慌ててルドルフに駆け寄り、警備の兵を呼ぶ。
ルディは上等の食事用ドレスに返り血が散っているのにもかまわず、血に濡れた凶器をその場に投げ捨てた。刃は甲高い金属音を響かせて、石の床に転がる。
入り口に兵士が駆けつけ、広間の惨状に絶句した。
「妃殿下を捕らえよ! 侍医を呼べ!!」
テオドールがルドルフの傷口を押さえながら、兵たちに命令する。
ルディはドレスの裾をひるがえすと、反対側にある王族専用の通路へ飛び出した。
「妃殿下! お待ちを!!」
あまり広くない廊下を駆け抜けると、窓の大きな居間のような一室に突き当たる。
「レイラ妃殿下! 抵抗はおやめください!!」
さほど広くない部屋に、武器を持った屈強な兵士がなだれ込んでくる。ざっと五人。
出入り口は、彼らが飛び込んできた扉のみ。
「レイラ妃殿下、どうかおとなしく…………」
ルディは落ち着いた足どりで窓の外に出た。
外にはバルコニーがあり、バルコニーの下には夕陽に輝く湖面がひろがっている。
「王太子妃殿下!? なにを…………!」
兵士が制する間もなかった。
ルディは男たちの視線にかまわず、湖から吹く風に裾をあおられながら、歩きにくい小さな靴を脱いで、裸足をバルコニーの手すりに乗せる。
そのまま手すりの上に立つと、淡紅色の髪をなびかせた。
ドレスの胸元から黒い小さな石をとり出し、数秒間それをにぎりしめる。
「先生――――ごめんなさい」
ぽつりと呟くと、ふたたびその石を胸元にしまい、夕暮れの空にすべてをゆだねるように腕をひろげて胸をはった。
「母さん――――あたしもいくわ――――」
一滴の涙と共にこぼれた言葉。
「レイラ妃殿下!!」
兵たちの前で少女は手すりを蹴り、その身を虚空へ投げた。
細い体が吸い込まれるように湖面に落ちて、水飛沫があがる。
******
遠い異国の地で。
灰色の髪をなびかせた青年の耳に、声が届く。
人には聞こえぬ、消えゆく小さな声。
事態を察した青年は途方もない後悔に襲われて、見えぬどこかへ痛烈に叫んだ。
ああ、ジェラルディン嬢
どうして私は、もっと早く戻れなかったのか
どうか母よ、高貴なる地下の女王よ
あの哀れな少女に慈悲を、救いを
どうか死なないでほしい、ジェラルディン嬢
必ずあなたを助けに行くから――――
******
細い体が夕陽に輝く湖面に激突する。その寸前。
少女の胸元から黒い優しい光が放たれ、全身をおおう。
ルディは黒い繭のような光に包まれ、湖の底へと沈んでいく。




