12
「お母さんが!?」
「はい。もう、かなり病状が悪化して。来月までもたないだろう、と…………」
深夜。
気晴らしに友人を訪ねている夫の帰りを待たずに、一人で広い寝台に横になっていたルディは、こっそり入ってきた召使いの娘にひそめた声で起こされ、とんでもない報告をうけた。
故郷のロアーの町に置いてきた母が危篤だというのだ。
ルディは眠気が吹き飛ぶ。
「で、でも。お母さんは、治療をうけていたはずよ。殿下が、王宮から医師を派遣して、良い薬も用意してくださる、って…………!」
「それが…………言いにくいのですが」
治療費を横領されていた。
そう、召使いは説明した。
「王太子殿下の命令をうけた地元の役人が、妃殿下のお母上の治療を一任されていたそうなのですが。役人はそれをいいことに、王太子殿下から送られてきた治療費を自分の懐に入れ、母上の治療はおざなりに済ませていたそうです」
王宮から派遣されてルディの母を診察した医師は、治療を地元の医師に引き継がせて、王宮に戻っていた。いつまでも王宮を留守にするわけにはいかないからだ。
役人は引き継ぎの医師に「患者は治った」と嘘をついて解雇し、王宮には医師を雇いつづけているかのように見せて、届いた治療費を横領しつづけていたのである。
ルディは目眩がした。
「昼間、マレット男爵夫人が報告をうけているのを偶然、聞いてしまったんです。でも夫人は『その女は妃殿下とは無関係な平民だから、知らせる必要はない』って…………あたし、気になって。あたしだったら、絶対に知りたいと思うから…………」
ルディは若い召使いの判断に心から感謝した。
「もう一度ちゃんと医師に診てもらって、きちんとしたお薬をいただければ、お母さんは助かるかしら? でも、どうしたら…………」
「あの。よければ、あたしが」
召使いの娘が立候補してきた。
「あたしも、パパルナ地方の出身なんです。実家がロアーの町の近くです。だから妃殿下がお望みなら、あたしが夜明けと同時にロアーにむかって、お医者さんを手配します。ただ、急すぎてロアーまでの旅費と薬代が…………」
ルディは迷わなかった。
ガウンもはおらずに化粧室に走り、大きな鏡をとり囲むように並んだ引き出しを次々と開けては、収まっていた大小さまざまな箱を片っ端からひっくりかえすように開いていく。
金剛石の首飾り、紅玉の耳飾り、青玉の指輪、紫水晶の腕輪…………色とりどりの宝石が化粧台の上にずらりと並んで、召使いの娘が息を呑む。
ルディは豪奢なデザインの大ぶりな品ではなく、換金しやすそうな小さめの指輪やブローチを主に選んで、娘に渡した。
「ひとまずこれで。あとで、わたしから王太子殿下に事情を話して買い戻していただくから、どこの質屋で売ったかだけ、しっかり覚えておいて」
「かしこまりました」
娘も神妙な面持ちでうなずく。
これらの宝石はすべて、一介の田舎娘のルディが購入した品ではなく、ルドルフ殿下から贈られたり、国庫から予算が出されたものばかりだ。
けれど今は緊急事態だし、ルドルフは母の治療について責任を持つ、と約束してくれた。
(明日、殿下がお戻りになられたら、事情を説明して謝ればいいわ。殿下のお心はわたしから離れているけれど、だとしても約束を破るのは別問題だもの)
ルディは召使いを送り出すと寝台に座り、不安な夜をすごす。
とても眠る気になれない。
寝返りと浅い睡眠をくりかえして朝を迎えると、予想どおり、複数の宝石の紛失を知らされたマレット男爵夫人が、さっそく眉をつりあげ、どすどすと化粧室に踏み入ってきた。
鏡の前で、淡紅色の髪を召使いたちに梳かせるレイラ妃殿下を、金切り声で問い詰める。
ちなみにルディは箱を開けたあと、一応もとの引き出しに戻してはおいた。が、宝石を管理する係の侍女はすぐに異変に気づいたらしい。
(なんで、真っ先にわたしを疑うのかしら、この人。状況的に、化粧室に出入りできる侍女が盗んだ可能性だってあるのに)
本来、まずは侍女を調べ、それから王太子妃殿下に紛失を報告するのが適切ではないのか。
最初から王太子妃を疑うあたりが、この白髪交じりの中年女の、ルディに対する印象や感情を暗に物語っている。
毎日のようにマレット男爵夫人から鞭打たれ、暴言をくりかえされて彼女への恐怖を植えつけられていたルディだったが、この朝ははっきりと夫人に宣言した。
「わたしが開けました。中身の行先もわかっています」
「あらまあ。では、ご自身が盗まれたこと、お認めになるのですね? 王太子妃ともあろう方が盗みなどと、なんと嘆かわしい。それともやはり平民の田舎娘には、あの程度の宝石の輝きも眩しかったのでしょうか」
待ってました、とばかりに、にやにや笑ってうきうき語る男爵夫人に、ルディは思わず召使いから差し出された手鏡を、彼女に渡していた。
「なんです?」
「今のご自分の顔を見てごらんなさいな。とっても品性下劣な、いいお顔よ」
つい正直な気持ちを口に出してしまい、男爵夫人が大口をあけて怒鳴りかける。
が、すかさずルディがさえぎった。
「あの宝石は、借り物なのですか?」
「は?」
「わたしは、あの化粧室にある宝石は、すべてわたしの持ち物だと思っていたわ。でも違っていたのかしら。仮にもロディア王太子妃の装飾品が、すべて借り物だったなんて恥ずかしいこと、思いたくないのだけれど。どうかしら?」
「そ、それは…………」
「借り物なの? わたしの持ち物なの? どちらなの?」
「…………レイラ様の、持ち物です…………」
「では、わたしがわたしの持ち物をどうしようと、わたしの自由ですね。わたしの持ち物なのですから」
マレット男爵夫人の眉が限界までつりあがり、歯をむき出しにして食いしばる。
普段、すべてに疲れたように従順な王太子妃の珍しい反抗に、化粧室はぴりっとした緊張に満たされ、召使いは誰も動けない。
「…………レイラ様の持ち物といえど、勝手に持ち出されては、管理する係の者が困ります。せめて一言、断っていただかなくては。そもそも何故、宝石を持ち出す必要があったのです? なくなった品はどちらへ?」
眉間に青筋を走らせながらも、男爵夫人にしては穏便な口調で説明を求めてくる。
「そうね」
と、ルディも彼女の意見の正しさを認めた。
「殿下がお戻りになられたら、その時にお話しします。何度も話すのは手間ですから」
「…………っ!」
夫人は真っ赤になったが、王太子妃殿下には反論せず、代わりに周囲の召使いたちに「さっさとなさい! ぐずぐずしないで!!」と、八つ当たりする。
ルディも肩の力を抜いて息を吐き出した。
こんな時だけれど、気が軽くなる。
自分は今まで、どうしてこの女性を恐れていたのだろう。
ちょっと強気に出れば、こんなにもあっさり引き下がる人だったのに。
胸がすっとしたが、今はそれにかまっている余裕はない。
祈る思いで、今朝見送った召使いの娘からの連絡を待った。
(わたしはもう、王宮を追い出されても修道院に入れられても、かまわない。だから、どうか神さま。お母さんだけは――――!)
昼前に夫が友人宅から帰還し、マレット男爵夫人がさっそく宝石の件を報告する。
王太子もさすがに不思議そうな顔で新妻の部屋に来たので、ルディは堂々と昨夜、起きた出来事を語った。
「そんなことになっていたとは。気づかなかった、すぐに対応しよう」
妻へのそっけない態度が日常になっていたルドルフだが、約束が守られていなかったと知ると、即座に侍従たちに指示を出す。そのすばやい反応と簡潔かつ的確な指示は、彼が本来持つ能力の高さを暗に示している。
普段、冷淡な夫が、約束を守って母を助けてくれると知り、希望がわいたルディだったが、三日後、王宮に届いた報告で、それがつかの間の幻想だったことを知らされる。
まず、ルディに報告してきた召使いの娘は行方が知れなくなった。
実はこの娘は、王宮勤めをきっかけに、ある伯爵令息と恋仲になり、恋人が親に政略結婚を強要されていると知ると、駆け落ちを提案。その旅費と今後の生活費のてっとり早い調達に、世間知らずの王太子妃をだますことを思いついたのだ。
実際にはこの伯爵令息は賭博狂いで有名で、家を出たのも賭けで作った高額の借金がばれて勘当されただけだったが、そこはさておき。
召使いの娘の話がすべて嘘なら、むしろ幸いだった。
持ち逃げされた宝石は問題だが、ルディの母は今も治療がつづいて、快方にむかっていただろう。
現実は、最悪な部分だけが真実だった。
すなわち役人の治療費の横領は事実で、ルディの母親は、もう何ヶ月も前に診察も薬も止められていた末に、町の共同墓地に葬られていたのだ。
つまり、あの召使いがルディに知らせてきた三日前の夜には、母はすでに亡くなっていたのである。
役人はそれすら隠蔽して、何食わぬ顔で送られてくる治療費を横領しつづけていた。
「気づかなかったのは私の責任だ。君の母親の治療に責任を持つと約束しながら、その責任を果たせなかった。本当にすまない。心から謝罪する」
報告をうけ、ルドルフは沈痛な面持ちで愛が冷めていた妻、田舎娘だったルディに謝罪する。
マレット男爵夫人が、
「なりません! 王太子殿下ともあろう御方が、平民に頭を下げるなど!!」
と制止したが、ルドルフはかまわずに言葉をつづけた。
「問題の役人は身柄を確保し、投獄した。法にのっとって裁きをうけさせる。召使いも捜索をつづけている。君の母親は共同墓地に葬られたそうだが、きちんと葬式を挙げたうえで王都の墓地に葬りなおすよう、手筈を整えている。それと…………」
夫はさらにあれこれ話しつづけるが、どの話もルディの耳をすり抜けていく。
「ルディ?」
ルドルフが、今も非公式の場では用いている彼女の愛称を呼ぶ。
ルディの細い体がぐらりとかたむき、モザイク細工の床の上に倒れた。
「ルディ!?」
ルドルフが血相を変え、ひかえていた召使いたちも悲鳴をあげる。
ルディは気を失った。
空腹や栄養失調の影響もあったが、なによりも、はりつめてはりつめて、はりつめつづけた精神の糸が、最後の支えを失って切れたのだ。
ルディは生きる意欲を失った。




