短篇一篇 その11
少年は漁へ出た。
いつもと違うのは父が一緒で無かったことだろう。この日、母が畑の根菜を収穫するのを手伝っていた。
漁と言っても丸木舟に乗り、自分達の住む集落が見える程度の沖へ漕ぎ出して銛で魚を一匹二匹と突くだけである。家族が食べる量だけ獲れたら良いし、余れば近所へ配るか、まだ陽が高い内なら海から離れた集落へと持って行き、他の野菜へと交換して貰うこともある。
少年は手頃な位置で舟を停め、銛一本を持って海へと飛びこんだ。
「?」
少年はいつもと違う海中に気が付いた。いつものならば大小様々な魚が泳いでいるはずの場所に今日はほとんど魚が居ない。
「こういうことは初めてだ」
とりあえず息継ぎのために海面へと顔を出す。
同じ集落、海岸沿いにある他の集落の人達も同じように舟を出して魚を探しているようだが、結果は同じようだ。
「もう少し、島から離れてみよう」
少年の近くで漁をしていた人が声を掛けてくれる。話したことはないが、隣の集落では漁の名人として知られた人だ。
一隻また一隻と舟が沖へと向かっていく。少年も真似して舟を沖へと向ける。沖へ行くとは言っても島から遠く離れるわけでは無く、あくまでも自分達が住む集落が見える範囲であり、島影も見えないほどの沖へ行くことは禁忌とされている。島の古老達の話では島から遠く離れると急に潮の流れが激しくなり、櫂で漕いでも島へと戻れなくなるそうだ。また大型で凶暴な鮫もおり、人間が見せる一瞬の隙を突いて襲ってくるらしい。古老達の話では過去に幾人も島から遠く離れた場所で鮫に襲われ、鮫が寄ってこない島の近くで漁をするようになったとのことである。
一方で随分と昔には遠く離れた島との交流もあったとか、古老達は話してくれるが、話している古老達も自身らが行ったわけではなく、祖父母らから聴いた話を伝えているに過ぎない。
少年は程よいところで舟を停め、銛を持って潜ってみる。確かに魚を見付けることはできたが、普段ならばそれこそ大小様々、色とりどりの魚が溢れているが、今日はとても静かに感じる。
息をしようと海面へ顔を出す。誰かの声が聞こえる。とても大きな声だが、内容は聞き取れない。声がする方を見ると大人が身振り手振りを交えて何かを訴えている。
「今日は諦めて帰ろう」
それを伝えたいのだろうか。
少年にも幾度か漁が上手くいかず、小魚一匹二匹しか獲れず、漁を諦めたことがある。
少年は諦めて集落へ戻ろうとしたが、今一度大人達の身振り手振りを見てみる。表情は見えないが、両腕を使って一つの方向を指し示しているように見えた。何か焦りのような物も感じる。周囲を見回してみる。
大人が指し示す方向に黒く大きな雲の塊が見えた。先程までその様な雲はあっただろうか。それに今はスコールの時期では無いし、何が起きているのか、少年には理解ができなかった。大人達は島へ戻るように伝えてくる。少年も身の危険を感じて舟を島へ向けようとするが、急に波が強くなり、思うように舟が進まない。風も強くなる。
漕いでも漕いでも島と反対の方向へと流される。雨も降ってくるが、いつものスコールとは違ってとても冷たくて大粒だ。そして一気に体が冷えていく。舟を漕ぐことを諦め、櫂と銛を抱きしめて舟の中で伏せることにした。舟に身を委ねる以外、何もできなかった。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
波も無く、青空が目に入る。しかし、体は冷えているし、とても寒い。焚き火が欲しいところだ。
「周りにいた他の舟はどうなったのだろう。皆、集落へ戻れたのだろうか」
周りに島は見えない。それ以上、何も考えられない。少なくとも波で舟がひっくり返ることは無かったようだ。
少年はまた眠ってしまった。
「温かい」
そう感じた。目を開けてみる。天井が目に入る。横へ目を向けると火が焚かれている。火の周りには握り拳ほどの石が置かれ、焚き火を丸く囲っている。
家の中で火が焚かれていることに「大丈夫?」と驚いてしまう。少年が生まれ育った集落では明かりとして家屋に火を持ち込むことはあるが、調理などに使う火は家屋の外である。
焚き火の周りには串に刺さった魚が何匹か刺してあり、焼き魚特有の良い香りが鼻を突く。手を伸ばして一本取ろうと思い、上半身を起こして腕を伸ばそうとしたが、体が重くてほとんど動かない。仕方が無いので今一度天井や周囲を見てみる。天井や壁の造りは育った家と似ているが、どこか違う。具体的に何が違うのか、自分が住んでいた家のことを思い出していると声がした。誰かが家の中へと入ってきた。言葉が違うことだけはわかる。
中年の男性が少年の顔をのぞき込み、目を覚ましていることに気付くと慌てて出て行き、他に二人を連れて再び入って来て少年へ語りかけてくる。しかし、言葉がわからないから返事が出来ないし、「言葉がわからない」と伝えることもできない。生まれ育った集落の古老らから遠く離れた島の人達とも交流があったと聞いたことはあったが、それでも言葉まで違うとは一度も聞いたことが無い。
「困った……」
少年は目の前に居る男性三人に言葉が通じていないことをどのように伝えるか、悩む。おそらく男性三人も言葉が違うとはわかっていないようだ。語りかけたら通じると思っているようだ。
肌の色や髪の色は大して変わらないし、自分が生まれ育った島と大して離れていないのかもしれない。少年はそう感じたが、それでも言葉が通じなければ話が進まない。
少年の顔を覗き込みながら話し掛けてくる三人へ「ここはどこ?」と自分の言葉で言ってみる。三人はようやく少年と言葉が通じていないことに気付いたようで一人が外へ飛び出していき、すぐに老婦人を二人連れて戻ってきた。今度は老婦人二人が少年へ喋りかけてきたが、少年にはその言葉もわからなかった。
体は動かないが、空腹なので焚き火の方を見ながら「あの魚を食べたい」と言ってみた。老婦人らは少年が何を伝えたいのか、理解したようでよい加減に焼けた魚を一匹、少年に差し出したが、体が思うように動かない。老婦人らは少年の容体を理解し、魚をほぐして少しずつ指でつまんで少年の口へと入れてくれた。
数日経ると体力が戻ったのか、体もなんとか動くようになってゆっくりではあるが、自分の力で家屋の外へ出てみた。家屋の中にいても時折、潮の香りが届いていたから海に近いのだろうと思っていたが、少年が思っていたよりは海から離れていた。少年が生まれ育った家は海岸のすぐ側に建っていたが、少年が療養していた家屋は浜と集落の間に僅かながら林が存在していた。後々それが防風と防潮を兼ねた林だと知ることになる。
浜には舟が数隻並べられていたが、その中には少年が常用していた舟もあり、舟の中には銛と櫂も残っていた。少年は今すぐにでも舟に乗って我が家へと帰りたかったが、体力が無いし、そもそも方角もわからない。何よりも助けてくれた集落の人達が不安げに自分を見ている。無理に舟を出したら追い掛けてきて引き留めるつもりなのだろう。当然と言えば当然のことだ。
少年は舟に抱きついて泣いていた。
体調が良くなり、島の人達と共に浜でカニや貝を捕ったり、林で木の実を採ったりしながら空、海、浜、雲、家、舟、木など言葉を一つずつ教えて貰う。
そして漁に出て獲って良い魚の種類を教えて貰い、合わせて漁場も教えて貰うのだが、この島の人達は自分達が住む島が見えなくなるほど遠くまで舟で行き、陽が暮れてからでも月や星の位置を頼りにして迷うことなく島へ帰るのだが、少年がそれを理解するのにはしばらくの時間が必要であったし、さらにその技術を身に付けるにはさらに時間が必要だった。
少年が流れ着いた島の周辺には幾つか有人島があって皆、同じ漁場で魚を捕っていた。少年を救った島の人達は他の島の人達に「この少年を知らないか」と尋ねてくれたが、周辺の島の人達は誰一人として少年を知らなかった。
この島周辺では毎年同じ季節になると強い風が島を襲い、ときにはそれが数日続くことがある。少年が生まれ育った島では無かったことだし、自分を生まれ故郷から引き離したあの波浪と大雨を思い出して何年経っても怖くて仕方が無かった。
少年がこの島へと流れ着いて数年が経ち、島の大人達が妻を娶ることを勧めてくれた。少年も勧められるままに妻を娶ることにした。相手は同じ集落に住む同い年の少女だった。
子宝に恵まれ、毎日を子育てや漁に忙しくしており、ときに故郷のことを忘れることもあったが、折に触れては子供たちに自分が遠くから波に流されてこの島へ辿り着き、島の人々に救われたことを語った。
島の人達から太陽や月、星を見て自分の位置を知る方法を教えては貰ったが、それでも自分の故郷がどこにあるのか、それはわからなかった。だからいつの日か、子供や孫達の誰かが自分の生まれ故郷へ辿り着くのではないか、その思いを込めて覚えている故郷の風習や文化を語っていた。
もう自身で漁に出るほどの体力も残っていないが、それでも毎日浜に行っては若者達が漁に出て行くのを見送り、最後の一隻が帰ってくるまで浜で待つのを楽しみとしていた。
少年が四十代、五十代になって運良く自分の故郷へ戻るとか、そういう結末も考えたのですが、この話に関しては現実的に帰郷は無理だろうとついつい余計なことを考えた結果、このような結末となりました。




