崩れる記憶 ―真実の扉―
第35話では、サラの記憶の中に現れた“少年”と蓮が繋がり、
ビー玉をめぐる真実が明らかになりました。
そして今回。
さらに深く記憶の扉が開かれます。
夢に響いた「サラ……助けて」という姉の声。
その傍らに立つ、冷たい視線の少年。
目覚めたサラの前で――
蓮がついに、心の奥に隠してきた過去を語り始めます。
サラは静かな夜の中、
月下香の甘い香りに包まれながら眠っていた。
そして、また夢を見た。
――お姉ちゃんの声が耳に響く。
月下香の甘い香りに包まれた静かな夜。
その香りは安らぎを与えるはずなのに――
胸の奥をざわめかせ、眠りの底から何かを呼び覚ましていく。
闇の中、私は声を聞いた。
「サラ……助けて」
お姉様の、あの優しい声。
けれど、次の瞬間――その声は悲鳴に変わった。
振り返った視線の先。
鋭く、氷のように冷たい少年の瞳が、姉を真っ直ぐに見つめていた。
(この瞳……どこかで……!)
全身が凍りつく。
恐怖に押し潰されそうになり、私は喉から声を絞り出そうとした。
「……やめて!」
その叫びと同時に――飛び起きた。
「……サラ! サラ、目を覚ませ!」
京司さんの声。
彼はすぐそばにいて、私の肩を強く抱きとめていた。
「大丈夫か?」
耳元に響いた低い声。
その声が必死に私を現実へと引き戻してくれる。
けれど――心臓はまだ、夢の中で冷たい手に
締めつけられているかのように、激しく脈打っていた。
すぐ傍らでは蓮さんが立ち尽くし、
私の異変に気づいて、不安そうに見守っている。
安堵の気配に包まれているはずなのに、
胸の奥にはまだ“あの視線の恐怖”が重くのしかかっていた。
「さっき……お姉様が……」
言葉にした瞬間、声が震えていた。
夢の中で聞いたあの叫びが、今も耳に残って離れない。
京司さんは静かに息をのみ、しばし黙考する。
やがて、沈んだ瞳のまま口を開いた。
「サラ……その夢には、他に誰か……姿があったのか?」
その問いかけは優しい。
けれど、その奥には――底知れぬ悲しさが滲んでいた。
まるで、その答えを知ることを恐れているかのように。
彼の声の裏に、決して触れてはいけない“何か”が潜んでいる。
(もし私がすべてを思い出してしまったら……私はきっと壊れてしまう)
そう感じているのは私だけじゃない。
京司さんもまた、その危うさを抱えながら私を見守っているのだ――そう気づきはじめていた。
部屋の隅。
蓮さんが、静かにこちらを見ていた。
(……悲しそうに目を伏せている。どうして……?)
前にも抱いた疑問が、再び強く胸に押し寄せる。
(私は……大切な何かを、忘れている気がする)
「京司さん……私にはお姉様がいたの。でも……」
震える声で言葉を紡ぐと、
京司さんは黙って耳を傾け、優しい瞳で私を見つめた。
そして、言葉を選ぶように静かに告げる。
「サラ……忘れた方がいい記憶というものもある」
その瞬間、胸が締めつけられた。
(どうして……そんなに悲しい瞳で私を見るの?)
優しさに包まれているはずなのに、
その奥に潜む深い悲しみが、私をいっそう不安にさせる。
――その時。
近くにいた蓮さんが、ポケットに手を差し入れ、
小さなビー玉を取り出した。
「……これ、覚えていますか?」
ビー玉が光を受けて淡く輝く。
それは、幼い日の私が――泣いていた少年に渡したもの。
胸が熱くなり、息をのんだ。
蓮さんは静かに、けれど強い決意を込めて言った。
「俺は……孤児でした。誰からも愛されず、
心に触れる温もりなんて知らずに生きてきた。
でも――あなたがこのビー玉をくれた」
「“もう泣かないで”って言ってくれた。
その言葉が、俺のすべてを支えてくれたんです」
ビー玉を見つめる蓮さんの瞳は、
子どもの頃から抱いてきた宝物を語っていた。
「だから俺は……サラさん。
あの日からずっと、あなたを守りたいと思ってきた」
――胸の奥が熱く震えた。
(そうだったんだ……。
私がずっと不思議に思っていた、蓮さんの優しさの理由……)
断片だった記憶が一気に繋がり、
心の中で何かが弾けた。
一方その頃――。
屋敷の外。
黒い車が停まり、運転席から降り立った男が
暗闇の中で建物を見上げていた。
玲司だった。
「サラ……そこにいるんだろ」
その低い声は、夜に溶けながらも不気味に響き渡る。
その瞳は、狂気と執念で赤く染まっているように見えた。
胸の奥では、決して戻らない“過去”の断片が
何度も何度も砕け散り、彼を狂わせていた。
奪ったもの。
壊したもの。
二度と手に入らないもの。
――だからこそ、求め続ける。
「サラ……お前は俺のものだ」
吐き出される言葉は、愛ではなく、檻の鎖。
その執着はもはや逃げ場を許さない。
そして――。
静寂を切り裂くように、頭の奥で声が響いた。
「サラ……大きくなったら……結婚しようね」
その声は優しく、甘やかで――
けれど同時に、恐ろしく冷たいものを孕んでいた。
(……誰? あの声は……)
次の瞬間、全身を駆け抜ける戦慄に、私は息をのんでいた。
――狂気と記憶が交錯する夜は、まだ終わらない。
第36話では、サラと蓮の過去が“ビー玉”によって繋がり、
優しさの理由と守る覚悟がついに描かれました。
しかし一方で――
屋敷の外には、玲司の狂気が忍び寄っています。
彼が失ったもの。
二度と取り戻せないもの。
その執念は、サラをさらに追い詰めていくのです。
そして最後に響いた“謎の声”。
それは誰の言葉なのか――。
物語はついに最終章へ。
完結まで残り4話。どうぞ最後までお付き合いください。




