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部屋には僕と

 部屋には僕と、僕に背中を向けたまま跪いている誰かの二人だけだった。その誰かが誰なのかは分からないし、明かす必要がないことを僕はよく知っている。以前までなら僕が背を向ける側だったので身をもって分かっていた。そして今から僕がこの誰かに行うことも、自分の記憶と重ねながらすべて予感していた。

 僕が前まで逆の立場だったというのには理由がある。それしかできないと思い込んでいたためだ。つまり自分には何もできない、誰かを喜ばせることも、あるいは傷つけることもできないから、せめて相手のすることに一切の抵抗なく従い、憂さ晴らしのために使われることでしか他人と関われないはずだった。つい最近までは本心からそう思っていたし、そのときはむしろ僕の渇きを癒してくれる至福の時間でもあった。

 ただ最近になってそれが思い込みだと気が付いたのは、単に飽きのせいだった。何かに飽きると水面から顔をあげるように、すっと世界が広がると同時に、没入する当てのない寂しさでいられなくなる。だからこうして、飽きたはずの場所に戻ってきては、例えば今回のように立場を変えてみたりして、何とか自分を騙すだけの時間を過ごすのである。今僕の目の前で背中を向け、床に尻をつけて動かないこの誰かも、僕とまるっきり同じだったりするのかもしれない。だとしたらこの部屋で起こるすべては、虚無と虚無のぶつかりあいで打ち消し合うこともない、どこまでも分厚い壁を挟んですれ違う性的倒錯とはいったい何なのか。そんなモチベーションを装わなければ僕は今にも後悔で崩れてしまいそうだった。


 始まってからは、以前に自分がしてもらっていたことを真似したが、けっこうこっち側を演じるのは大変だった。僕は乱暴にも意地悪にも優しくも振る舞えない。気の利いた言葉はないし、軽く蹴飛ばすにしても遠慮してしまうし、シンクに貼った水の中に首を押し込むのにも全然力が入らない。そういった躊躇は相手に伝わって白けてしまうことも僕は過去に知っていた。相手も冷めるし、僕はずっと二重に冷めていた。自分から始めておいて、この場の起きていることは全部僕のせいだと思ったし、とりあえず動きながらも過去会った相手の中に今の自分を探していた。もっと目の前にいる相手のことを観察するべきだったのだろうか。僕は予定よりもずっと早く切り上げてから帰る途中でやっとそんなことに気が付いていた。

 曇った空の下はさらに曇りがかってビルの上層部が飲み込まれていた。いずれ雷が鳴れば雲の中からはガラスや人やコンピューターが落下してくるだろう。僕は心底そうなればいいと思いながら、決してそうはならないことを知っていた。どこも娯楽に向いた厳密性で溢れている。嘘は昔から、真実から遠ざけるための文言や行為のことを指す言葉として用いられてきた。だから嘘と僕が言ったこととでは、そういった点が大きく異なっていることが分かっても、いつまでも真実だけが掴めないまま、家の棚の上に置いてある熟れたバナナの陰からトカゲとタランチュラの交尾を覗くに覗けない小人になって死ぬまで照れ隠しをしていた。隣人の夜泣きが僕を優しく抱き起こした。窓辺の涙も、回して外した蛍光灯を割って水銀を摂取すればちょっとは楽になるだろうか。返事を待つあいだ店内を見回した瞳には気まぐれに色が宿っていた。視線が泳いでしまうのは、たいていが相手によって泳がされているだけのことに過ぎない。泳ぐ主体は君にない。指数関数と聞いて、近未来に響く火災のサイレンを連想した君からの眺めは、明日から炎よりも眩しい太陽恒星と溶け合って、本来なら予定もされていなかったほどの、まるで他人ごととも思えてしまうような絶頂期を迎えるだろう。これは嘘じゃない。根拠と論理が欠けていただけで、いくらでも埋めようがある。その欠落した分だけが僕からの君への愛であり、確実性を孕まない純粋でまっさらな真実だ。もし分かってくれたのなら、このことは二人して明日には忘れよう。そんな風にしていれば残りの気が遠くなるような時間だってあっという間に過ぎていくんだ。

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