イナの話
ファンタジー世界観からやってきた勇者が、テレビに驚くというようなことを、残念ながらタケルはしなかった。人の生活を、見るだけならば見ていたらしい。『実際に触るのは初めてです』といいつつ、タブレット端末の操作もすぐに憶えた。文字入力までできれば、チャットアプリですぐに連絡が取れる。日曜日はタケルにあれこれ教えたことで潰れた。
そして憂鬱な月曜日である。何かあったら勝・珠代夫妻に頼れと言い含めて出てきた。不安はあったが、連絡できるように教え込んだのだ。司がただ不安であっても手が出せない以上、無駄な不安でしかない。保留しておくことにした。
帰宅を急いだところで、一番影響があるのは電車のダイヤだ。いつもの電車に乗ったならば、最寄りの駅から急いだとしてたいした短縮にはならない。のんびりとはしなかったが、ことさらせかせかと急ぐこともなく帰宅した。
だいたいいつもどおりの帰宅時間。いつも通り鍵を回すが、感触が違った。あぁ、閉まっていないのか。理由がわかっているので、そのままドアを開けた。
「おかえりなさい、司さん」
「おう、ただいま」
ずいぶん久しぶりに使った言葉である。
「うちにいても鍵は掛けとけ。チェーンしてしなかったら、俺は入れる」
「はい、わかりました」
さて。司は部屋はワンルームであるため、室内はすぐに見渡せるし、においもダイレクトに伝わってくる。
「晩ごはんの用意ができていますけど、食べますか?」
「あぁ、食べる。ありがとな。カレーか?」
「はい、カレーです。珠代さんに手伝ってもらいました。おかずもいただきました」
「そうか。今日の詳しいことは後で聞かせてくれ。先に着替えるから」
カバンを定位置に起き、部屋着に着替える。もちろんワンルームなのでタケルには丸見えだが、気にすることでもなかった。
タケルはどこから持ち込んだのか(十中八九、珠代が貸してくれたのだろうが)踏み台を駆使してカレーをコンロで温め直していた。
「カレー皿一式、お借りしました。明日に返します」
いつも適当な皿で食べているため、この部屋の食器は最低限より少ないのである。借りてきた舟形のカレー皿にご飯とカレーが盛り付けられる。冷蔵庫から出してきたツナとゆで卵が乗ったサラダの器からラップが剥がされていく。
「どうぞ、召し上がってください」
お膳立てだ。司は思いながら座った。
「ありがとう。いただきます」
スプーンですくい上げ、口へ運ぶ。一般のご家庭で作られるカレーライスはこんなものだろう。普通のカレーだ。ただ、雑な男は舌も雑だ。好き嫌いのあまりない、食べられないほど嫌いなものもない司には、一般的な食物はだいたいおいしいのである。
「うん、うまいよ」
タケルはわかりやすく喜びを顔に出していた。嘘ではなく本心である。喜ぶなら一言くらい言ってやろう。
タケルも『いただきます』とサラダを口に運ぶ。
植物として光合成で足りないため、食事は必要らしい。光合成もできていないわけではないが、人の形を取り続けるには光合成だけでは賄えないとのことだ。植物は動けない。オジギソウやハエトリソウのように例外的に動くものは、植物的には大量のエネルギーを消費すると聞いたことがある。活動的に動けば光合成で得たエネルギーなど吹き飛んでしまう。ここでいうエネルギーはカロリーとかジュールで表せられるものだけでなく、もっと概念的というか、オカルト的なものらしい。いわく、『生命の残滓をいただいている』とのこと。料理は、たしかに動植物の成れの果てだ。踊り食いや微生物レベルは残滓ではないものの、命の残滓を食べている。それを、タケルは消化吸収のプロセスではなく、オカルト的なプロセスでエネルギーを得ているそうだ。つまり、過程がどうであれ、タケルには食事が必要ということなのである。
「珠代さんに、もらいものだからってプリンをもらいました。あとで食べましょう」
何がちがうのか、甘味はよく舌に合うらしい。コーヒーを始め、苦みは苦手そうだ。
たまの甘口のカレーと、贈答品の缶プリンはおいしかった。
******
朝、目が覚めると思うのは、“竹のにおいがする”である。
トーストだけかじっていた(時々焼くのも億劫なときは焼かずに食べていた)朝食は、マーガリンとジャムが塗られるようになった。インスタントスープまでついていくる。
出勤時に、大家夫妻に挨拶をする。いってらっしゃいと見送られる人間が増えた。人でないものにも言われるようになった。
朝が少し変わった。ささやかなものだが。
日中、タケルは大人しく過ごしているらしい。タブレット端末のWi-Fi通信量がなかなかな数字になっているが、定額制なので問題ない。
大きく変わったのは帰宅後だ。残業してまで片付けなければならない仕事はしばらく発生しない。キリのいいところまで片付けるとか、明日少し楽にするために仕事を進めるとか、そういうタイミングはあったが、無理をするほどではないので定時で帰るようにしていた。
帰れば、タケルが“おかえりなさい”と出迎えてくれる。夕食の用意がされている。珠代作ではあるが、タケルも手伝っている。費用を出そうとしたのだが、断られてしまった。今度、機会があればなにか土産物でも渡そう。『お父さん以外の人にも食べさせるって、張り合いがあるわね』とのこと。アパートの運営は道楽でやっていると聞いたことがある。金銭的なことはあまり考えず、しっかり感謝の言葉だけは伝えておこうという方針になった。
平日はそうして過ごした。そして、週末である。
タケルは人の営みに参加してみたいため、今の姿であるらしい。それは本人の解釈だが。
一日ぐらいはどこかへ連れて行ってもいいだろう。提案すると、タケルは驚くほど喜んだ。やりたいことはまったくピンときていないようだが。
「とりあえず繁華街に出るか」
何もプランはない。それでもタケルは目を輝かせていた。
タケルはもうすぐ小学生という設定だ。アラサーの司としては、子どもとしてちょうどいい年齢感である。
「珠代さんと勝さんにはもう言ってるからいいけど、それ以外の人前では“パパ”か“お父さん”って呼んだほうがよさそうだな」
「お父さん、ですか?」
「そうだ。俺の年だと、タケルくらいの年ごろの子どもがいてもおかしくないんだよ」
いないし、これからも予定はない。司は勝手に傷ついた。
「お父さん」
「うん、それでいい。丁寧語も崩していいんだけど、それは無理しなくてもいい。タケルが喋りやすいようにすればいい」
というわけで、出かけることになった。
正直なところ、親子と言うにはタケルはにていなかった。十人並みの顔をしているその他大勢にしかなれない自覚はある。タケルは、その容姿は何をベースに作ったのかわからないが、整った顔立ちをしている。まだふくふくとした五歳児の顔ではあるが、このまま美少年になりそうだという目鼻立ちをしている。
ぱっちりしているよく動く目は表情豊かで、まだ子どもっぽい状態だが、バランスよく顔に収まっている。紅顔の美少年とは、こういうことを言うのだろう。『妻に似たんですよ』と、いもしない嫁の自慢を脳内でシュミレーションしておいた。
五歳児が遊ぶことは何だろうか? 繁華街にたどり着いてみたものの、やはりピンとこない。ゲームセンターの治安が悪かった時代は、司の代よりもう少し前だ。ゲームセンターはクレーンゲームとプリクラの並ぶ明るくキラキラ(を通り越してギラギラ)している場所だ。うるささも、明るい方向である。いくつか見てまわり、プレイしてみた。司はあまり得意ではないので、見守り保護者感を出すくらいしかなかったが、優しい通りすがりのお兄さんが手伝ってくれたのでクレーンゲームの景品は取ることができた。優しいギャル二人組のおかげでプリクラまで撮る羽目になった。世の人々は、かわいらしい子どもには優しいらしい。
チェーン店のよくあるファミリーレストランで食事。テイクアウトのみのクレープ屋でのおやつ。商業ビル内の家電屋や本屋をうろつき、ついでに衣料品も買い足すかと聞くと、
「次の段階に成長しそうなので、今はいいです」
とのこと。
「なんだ? 次の段階って」
「成長します」
「うん?」
竹の成長は早いが、それに関することだろうか。
「司さん、今日はありがとうございました」
「あぁ。もう帰るつもりなのか?」
「はい。今日はもう。司さんはまだ?」
「いや。多少買い物もできたから、十分だ。晩ごはんにちょっといいおかず買って帰るか」
「今日のこれって、デートでしたか?」
「親子でデートってなんだよ」
「そう……ですか」
なぜかタケルは残念そうな顔だった。
タケルは帰宅するなり水を飲み始めた。
「のど乾いてたか?」
「いえ、“成長”がきます」
「なんなんだ? “成長”って」
封は開いていたがそれほど減っていなかったペットボトルの水がすべてなくなっていた。唖然としていると、今度はベッドのそばまで移動してポイポイ服を脱ぎ捨てていった。一糸まとわず、下着まで。
「お、おい!」
「ひゅっ!」
タケルは崩れるようにしゃがみこんだ。とたん、草を刈ったようなにおいがひろがる。タケノコを掘ったあのときのにおいだ。
「大丈夫か?」
ベッドにしがみつくようにうずくまるタケルは、身を起こすと、全体的にのびていた。
「成長、しました」
「えぇ~……」
全体的に細長い。肉が薄いからだろう。男の身体なので丸みも少ない。骨ばっているほどではなく、細長い。ゲームのキャラクタークリエイトで肉感を削ぎ落とした素体のような体躯だ。まだ幼さは抜けきっていないが、大人びた表情も見える。美少年というにふさわしい顔立ちだ。同性だが、タケルの全裸はあまりにも目に毒だ。毛布をまとわせる。
「それが成長か?」
「はい、成長です。今日はたくさん食べて、いろいろ経験したので、成長しました」
「早くないか?」
「竹ですから」
竹の一言で片付くものだろうかと思ったが、そもそもオカルト的な状態にあるタケルだ。些細なことに思えてきた。
「今、どれくらいのでかさなんだ?」
まっすぐ立たせると、司より一回り小さいくらいだった。一六〇あるかないかだろう。ぶかぶかにはなるが、司の服を着せられそうだ。
「とりあえずシャツとジーンズ、ベルトを使えば……パンツはダメだな」
それだけはコンビニに走った。
最近はビッグシルエットというものがあるのだ。ということで片付けられる程度のぶかぶかさ加減である。見れなくはないのでよしとする。
「すみません、せっかく買ってもらった服、一週間で着れなくなっちゃって」
「安もんだ。気にするな」
よくはないが、わめいたところでどうにもならない。仕方のないことだと流してしまうのが一番精神的にいい。
「他になにか変化はないのか? でっかくなっただけか?」
「まだお腹が空いています」
「そっか。晩ごはんには早いけど、食うか?」
「あぁ、いえ。ご飯を食べてもいいんですけど、“精”を分けてもらえたら」
「“精”……なんだっけ? 血って言ってたかな。吸血鬼ごっこの趣味もないが」
「今も負担にはなってますけど、司さんへの負担はできるだけ少なくしたいんですよ。ぼくが直接もらってもいいです」
「直接?」
「口で」
「口で?」
食事からでも得られるが、今のタケルには司の精が馴染みやすい。体液から得られるとのことで、傷でもつけて吸わせようと思った。かじって傷つけるならば、負担を軽減させるとは言わない。傷をつけずに得られる体液とは。唾液、汗、精液など。
ぽこんと浮かんでしまった想像を全力で投げ捨てる。
「それアウトなやつだろ!」
タケルは人ではないが、少年にそんなことをさせるわけにはいかない。趣味でもない。
あわててあちこち引き出しを開けてカッターナイフを探すが、なぜかまったく見つからない。しばらくご無沙汰していたコンドームの方が先に見つかる始末だ。
「あー、もう! 絶対見るなよ! 絶対聞くなよ!」
コンドームを掴み、トイレにこもる。
その自慰は、義務と緊張でできていた。
なお、あとでカッターナイフはペン立ての中でペンに埋もれていたところを発見された。
炊飯器にはめいいっぱいがんばってもらうことにした。
精がつくといえば、うなぎ、牡蠣、すっぽん、単純に肉と思うが、タケルの言う“精”と同じものなのだろうか?
とにかく食わせておこう。あんなことは二度とごめんだ。
デパ地下でちょっといいおかずは買ってきたが、育ちたての状態を思えばガッツリしたものがあったほうがいいかも知れない。タンパク質だろうか。肉か卵か。オムレツにしようとして、出来損ないのスクランブルエッグにしかならない絵しか浮かばなかった。
親子丼の頭を作ろう。いや、親子丼でいいのか。味付けはめんつゆでいい。たくさんがんばっている炊飯器もそれで報われよう。
と。インターホンが鳴った。出ると、珠代のおすそ分けだった。
「たまに食べたくなるから作るのだけど、昔のクセでついたくさん作っちゃうのよね。いつももらってくれて助かるわ」
司とタケルのことを考えてくれているのだろう。なかなかの量の鶏の唐揚げをもらった。
「食べ盛り育ち盛りに助かります!」
「タケルちゃん?」
タケルは毎回律儀に珠代に顔を見せていた。今回はそれがないことが気になっているようだ。
「えぇ、あ、いや……タケルはお陰様で無事に小学校への入学準備と世話になる場所が整ったから、もうそっちに行ってて。あいさつできずにすみません」
「あら、いいのよ。タケルちゃんが元気にやってるなら。いろいろ大変だったでしょう?」
「俺は預かってただけなんだけど。かわりにってわけじゃないけど、」
様子をうかがっているタケルを手招きで呼び寄せる。
「タケルのお兄ちゃんの」
タケルの兄のタケルという名前はないだろう。二代目? どこの世襲制だ。順番も違う。
「えっとタケルのお兄ちゃんの、ヤマト」
秒で考えた。
「あっ、はい。ヤマトです。弟がお世話になりました」
察したタケルが合わせてくれた。
「四月から中学なんだけど、少しはここから通うことになるかも知れなくて、また珠代さんのお世話になるかもしれないから、厚かましいけどよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ペコンと頭を下げる。
「まあ。いいわよ。いつでも言ってね。大変ね、ヤマトちゃんも」
「いえ、そんな。司さんがよくしてくださっていますから、楽しいです」
というわけで、どうにか切り抜け、大量の唐揚げまで手に入れた。カロリーとタンパク質である。
「また秒で思い出した名前で悪いな」
「いえ、司さんがつけてくださった名前ですから、嬉しいです」
タケルあらためヤマトはニコニコしている。
「育って名前が変わるって出世魚かよ。なにか名字名乗らないといけなくなったら、鈴木とか名乗っとけ」
「司さんの名字ではダメなんですか?」
「ダメではないけど、親戚名乗るには、俺とお前では系統がちがいすぎる」
ヤマトは何故か不満そうだった。