プロローグ
ちくしょう。
灼熱のような憤慨が胸中で渦巻き、行き場のない後悔が涙となってあふれ出る。
闇夜と激しい雨で、涙は隠せているだろうか。
血だまりに沈む最愛の少女に、どんな顔を向けているのか。
俺にとっての最愛は幼い体躯をしていた。
18才のはずなのに、小学生くらいの体躯で体重も軽い。
そんな小さな前身は、片腕を失い鍍金の義手を付けて、片目を失い眼帯を付け、どこもかしこも古傷ばかりで、たくさんのものが欠けた矮躯から、命すらも欠けようとしている。
傷だらけとなった彼女を抱え、潰れたのどを無理やりにこじ開ける。
「俺を、置いていかないでくれ。頼む。頼むから……」
どうしようもない呻きだというのはわかっている。
ただでさえ軽い彼女の体重がさらに軽くなっていき、まるで魂が抜け落ちていくかのようだ。手のひらの生暖かいそれは、彼女の腹部が裂けて湧いてくる血流。
止血しようと片方の手で押さえるが、止まってくれそうもない。
別れは近い。
わかってるんだ。
そんなこと誰よりも俺がわかってる。
俺たちは負けた。
どうしようもないくらい、負けて、負けて、負け続けた。
負けるたびに、大切なものを失った。
友人を失って、幼馴染を失って、妹を失って、仲間たちを失って、今、最愛の人すら失おうとしている。
裏で蠢く悪意に翻弄された。
何一つ及ばなかったんだ。
「泣か、ないでよ」
震えた彼女の声が、沈んだ心の奥底をかき乱す。
彼女の子供のような手のひらが、俺の頬に触れる。
なんでだよ。
なんで。
「もう、いいから。十分だ。最後の言葉なんて聞き飽きた。まだ大丈夫だ。まだ終わってない。俺がここから、何とかするから、だから」
「あたしさ、幸せだった。だから、泣かないでよ」
はにかむような笑顔だ。
何で笑うんだよ。
どうして笑えるんだよ。
まだ続くはずだった2人の物語は終わろうとしている。
嗚咽が混じり、言葉は震えていても、言いたいことが山ほどあった。
「ダメだ。ダメなんだ! 俺はオマエに何も返せてない。なにもしてやれてない。生きてくれよ。また一緒に笑ってくれよ。馬鹿みたいな喧嘩を俺たちでするんだ」
「……」
「しょうもねえ喧嘩だ。テレビのリモコンを奪い合ったり、目玉焼きの醤油とソースだったり、お題なんてなんでもいい。だからさ、あの日みたいに」
「……ありがとう」
なんだよ、それ。
どうしてお礼なんだよ。
やめてくれよ。
「ねえ、最後にさ、名前、呼んでよ」
なんで笑顔なんだよ。
いやだ。
名前を呼びたくない。
もし、名前を呼んでしまえば、それが最後であるような気がした。
だけどさ。
なにも渡せなかった俺にできることはきっと。
最愛の彼女を引き寄せるように優しく抱いて、
「アリス」
「うん」
「好きだ。アリス」
「……うん」
「大好きだ。大好きだよ。アリス」
「……………うん」
「アリス。世界で一番アリスを……」
俺はこれ以上言葉が出なかった。
違う。
出るはずの言葉に、なにも意味がないと悟ってしまった。
彼女の心臓の音は止まった。
体は冷たくなっていき、硬くなっていく。
死んだ。
大切な彼女が。
最愛が。
「ちくしょうが」
どうして俺だけ生き残ってしまったのか。
騙されて、嵌められて、陰謀に巻き込まれて、気が付いた時にはいつだって詰んでいた。もう一度だけやり直せたら、そう思ったことは何度もあった。
やり直しはない。
いつも狙ったタイミングで悲劇は起こる。
狂気と絶望は迫りくる。
力があるとかないとか、頭が切れるとか切れないとか、そういう次元の話ではなく、闇に蠢く者たちはいつだって唐突に悲劇を起こす。
今回もそうだった。
アリスを殺したそいつは歪な笑みを浮かべ、霧となって霧散した。
あいつが何者なのか、なんなのか、そもそも人間なのか、なにもわからない。
何もわからないことばかりで、何もわからないまま、大切なものを失っていく。
もう一度、もう一度だけやり直せらと思ったこともあった。
無駄だ。
やり直したところで奴らは現れる。蠢くものは無秩序に無遠慮に、幸せな時間を奪い取る。
抵抗なんてできない。
――――まだ、終わってないよ――――
ふと、声が聞こえる。
そいつは俺の声だった。
鋭い目つき、とげとげ頭髪、見間違えようもない。
絶望のさなかに垣間見た幻覚を疑ったが、幻覚であることを否定するように、そいつは俺の胸倉を掴み上げる。
――――諦めないでよ。君は僕だ。僕は君だ。だったらまだやれるはずだ――――
だったらどうしろというのか?
アリスは死んだ。
死んだんだ。
――――君は可能性をつかみ取った。理不尽を打ち砕ける可能性を――――
【書き直し】
そう頭で声が響いた。
力をつかえばいい。
この書き直しがどんな力かを理解さえしていれば、どうやって手に入れたかなんてどうでもいい話だ。
きゃはは。
きゃはは。
笑う。
嗤え。
絶望を嗤え。
その手で希望を掴み取れ。
どんな物語にも当てはまらない、書き直しという物語そのものを否定する力ですべてをやり直す能力だ。
繰り返せ。
輪廻せよ。
巡り巡って狂気と向き合ってみろ。
誰かが、頭の中でつぶやく。
耳元で囁かれているような感覚。
何が起こってるのかまるで理解ができないが、嘲笑う声を振り払うように立ち上がる。
ああ、やってやるよ。
血と雨に濡れた袖で涙を拭う。
俺はすべてを取り戻す。
歩みを、失敗を、幸せだったの頃もまとめてゴミ箱に葬り去って、過去という名の前を向く。
敵が誰かもわからない。
何が起きているのかもわからない。
学園生活の3年間、蠢くなにかに奪われ続けて、すべてを失ってきた。
だから描きなおすのだ。
俺たちの物語を。
デリートボタンで綴られた電子文字の羅列を削除するように、今まであった喜劇と悲劇の数々をなかったことにして、消しゴムで擦りシミ一つ残さない。
そうやって、物語をさかのぼる。
俺が俺であるうちに、何度だって書き直す。
アリス、君を世界で一番、愛している。
理由はそれだけで十分だ。
なにがどうしてこうなったのか。
絶望の一つ一つを拾いあつめて、希望にすり替える。
アリス、今度こそオマエと共に幸せな未来へ――――。