第五十二話 満ち足りた日々11 可愛いくて豊満な婚約者を前にして自分の理性がどこまで働くのだろうか
「ぐっ……ぐるじい……」
いきなり自分よりも体格の良い男に拘束されて混乱する。頭の中は危険を知らせるが、身動きが取れない。
「ネリーネお嬢様を大切にできるか?」
顔が近い! 息がかかる! 彫りの深い顔が目の前に迫り、恐怖で体の震えが止まらない。
「おい。返事は──」
「きゃあぁぁぁっ! ダニー! ステファン様になにしていますの! 離れなさい!」
ネリーネ嬢の叫び声が聞こえた。急に拘束から解放されて床にへたり込む。
カッカッカッと靴を鳴らす音が近づき、気がつくと真っ白くて大きな肉塊が目の前に飛び込んできた。
柔らかくて気持ちよさそう……
吸い込まれるように顔を寄せようとして、正気に戻る。
ネリーネ嬢は下心丸出しの輩を嫌がっていると聞いたばかりじゃないか。俺は必死に衝動を抑えた。
「血⁈ どうして? ステファン様大丈夫?」
へたり込んでいる俺の目の前にネリーネ嬢がひざまずき、血のついたハンカチを拾い上げて握りしめると、心配そうに上目遣いで見上げた。
全くもって大丈夫じゃない。
胸が苦しくてかきむしる。抱きしめたい衝動を我慢するのも辛い。
「っ……ぐぅぅっ……」
「大変! ステファン様が苦しんでいるわ! ミア! お医者様を呼んで! ダニー! ステファン様に何をしたの!」
ばるんっ!
覗き込む姿勢から背筋を伸ばしたネリーネ嬢の胸が勢いよく目の前で揺れる。
「だっ大丈夫だ。医者を呼ぶ必要はない。ソファにでも座って待っていてくれ。すぐに落ち着く」
……むしろ離れてくれないと、いつまでも落ち着けない。
「でも、お医者様に見ていただかないと心配だわ」
「どこも悪いところはないんだ。急にそのダニーに抱きつかれてびっくりしただけで、血だってつい癖で指を噛んでしまっただけだ」
「お医者様がお嫌なの? 幼子ではないのですから逃げ回らないで、診ていただいたほうがいいわ。貴方は働き詰めで体調がよろしくないのよ。ほら、今だって顔は紅潮して肩で息をしてますし、腰を丸めて苦しそうで心配ですわ」
ネリーネ嬢はそう言って自分の胸元に手を伸ばす。俺が贈ったばかりのブローチをギュッと握って顔を皺くちゃにして泣くのを堪えている。
可愛いのはわかったから、勘弁してくれ。
今まで自制心を試す機会すらなかった俺は自分の理性がどこまで働くのかわからないんだ。
「ネリーネお嬢様。大丈夫だとご本人が言ってらっしゃるのです」
「でも……」
「では、ネリーネお嬢様。鎮静効果のあるラベンダーティーを用意しましょう」
ミアは俺に目配せをした。
「あぁ、そうだなハーブティーを飲めば大丈夫だ」
「本当に大丈夫なの?」
「あぁ」
ミアはハーブティーを入れる準備を始める。ソファに座ったネリーネ嬢は心配なのか頭をぴょこぴょこさせながら俺の様子を窺っている。
可愛い。
俺は膨らんだ小鼻を隠すように手で顔を覆う。
いつまでも見ていられるが、しかしながらいつまでも立ち上がらないと無駄に心配させてしまう。そろそろ立たなくては。そう考えていた俺の目の前にダニーが立ち手を差し出した。
「……さっきの答えは?」
「……幸せにしたいと思っている」
「……協力してやる」
俺はダニーの手をしっかりと握り立ち上がった。




