第四十三話 満ち足りた日々2 クソジジイと養子縁組の申請と条件の再確認
焦った俺は王宮のなかを走る。呼吸が乱れて息が苦しい。日頃の運動不足がたたって、もつれそうな足で階段を駆け上り、マグナレイ侯爵が王宮内に持つ執務室の前に立った。重厚な扉の前に立つと気圧されそうだ。
一族の長の言うことは絶対だ。俺がクソジジイの機嫌を損ねたら実家の家族もろとも路頭に迷う。
深呼吸してから扉を叩いた。
「なんだ。まだ朝だというのにお前は暇なのか」
通された部屋でマグナレイ侯爵に驚かれ、拍子抜けする。
「……お急ぎの用ではなかったのですか?」
「急ぎ? トワインの坊主に時間を見計らって来いと聞かなかったのか? こちらだって貴族院が始まる前は忙しいんだ」
めんどくさそうにそう言ったマグナレイ侯爵は机の上に視線を戻して何か書き物を始めた。
あのクソガキ。急がせやがって。
ドアを開けて招き入れてくれたマグナレイ侯爵の秘書官にとって俺は客人ではないらしい。俺が部屋に入るのとすれ違いで忙しそうに書類を抱えて出て行ってしまったため、マグナレイ侯爵と二人で部屋に残されていた。勝手にどこかに座ることも出来ず所在なさげに佇むしかない。
ペンを走らせる音を聞きながら、どうやって退出するべきか思案する。
「まぁいい。そこのソファにでも座ってこの書類に署名しろ」
マグナレイ侯爵は手を止めて、今ペンを走らせていた書類を俺の目の前に突きつけた。
貴族院に出す養子縁組の申請書だ。
書いたばかりのマグナレイ侯爵の署名もある。受け取った俺は指示されたソファに座った。
俺を養子にする話は本気だったのか?
俺は、ソファの向かいに置かれた執務机に両肘をつき顔の前で手を組むマグナレイ侯爵の表情を窺おうとするが、逆光でよく見えない。
本気にしていいのか?
申請書を目の前に緊張で震える手を左手で支え、インク壺にペン先を浸す。
この書類に署名をすれば俺はマグナレイ侯爵の息子になる。そんな青天の霹靂のような出来事が、書類一枚でこともなげに起ころうとしている。
書き慣れたはずの名前も、力が入りすぎてやたらとペン先が引っかかって書けない。
「で、デスティモナ家の娘とはうまくいっているのか」
急に声をかけられて動揺し、署名のインクが滲む。
「……うっうまくというのは?」
「跡取りにしてやるための条件だろ。忘れたのか」
「忘れてはおりませんが、その……」
「うまくいかないなら、ロザリンド夫人に声をかけてやろうか」
ニヤニヤ笑うクソジジイに冷静さを取り戻す。そうだ。クソジジイは俺のことをダシにしてるんだ。俺が舞い上がっているなんて知られたら……
「……ご自身がお会いになりたいだけではありませんか」
「お前のために手を差し伸べてやろうってのに。まぁ自分一人で頑張って親の挨拶も済ませてこい。気に入られてこいよ」
そうか、挨拶……って伯爵様にどうやってご挨拶すればいいんだ⁈
「ご協力願えますか……」
結局俺はクソジジイに助けを求めるしかなかった。




