第三十二話 生まれてはじめてのデート3 伯爵令嬢の小さく滑らかな手と文官のペンだこだらけの手
そうだ。いつまでも立ち尽くしていたらさっさと劇場を出てきた意味がない。
俺は劇場のドアマンに声をかけて、デスティモナ家の馬車が来たら待つように伝えるように依頼する。毒花の行きたがっている芝居小屋までチケットを求めに向かう事にした。
看板に書かれた地図の先に見えたのは平土間の立ち見席しかない庶民向けの芝居小屋だった。演目だって王族や上級貴族達をコケにするものが多い。
「本気か? 貴女の様なお嬢様が観て楽しい内容じゃないぞ」
「わかっているわ。でもとても流行っていると聞きますから試しに観てみたいの。お兄様と観に来たらきっと目立つけれど、貴方ならさっきの劇場よりも芝居小屋の方がしっくりくるでしょう?」
クソ。好き勝手言いやがって。疲れてるからと、ついうっかり寝てしまったことが悔やまれる。
「……わかったよ。連れていってやる。貴女もあの芝居小屋に馴染む格好で来れるんだな? 今日みたいな格好なら連れていけないのはわかってるか?」
「本当ですの⁈ あの芝居小屋に馴染む格好をすればわたくしを連れてきてくれますの?」
毒花は俺の手を取り小さな両手で握りしめると、嬉しそうに笑った。
えっ?
予想していなかった反応にドキッとする。いつもの嘲笑ではない。弾けるような満面の笑みは、毒花がまだ十九歳の少女だった事を思い出させる。
「あっ、あぁ。できるならな」
「もちろんですわ!」
握る手の力が強くなる。
俺の指に絡む小さな手は陶器のように滑らかなのに柔らかくて暖かい。爪の先まで手入れの行き届いた傷一つない手は蝶よ花よと甘やかされて育てられた証だ。子供の頃の噛み癖で爪が変形していたり、ペンだこでゴツゴツとしてインク汚れが落ちなかったりする俺の手とは不釣り合いに見える。
「伯爵家のご令嬢の手と比べると、俺の手はボロボロでみっともないな」
「みっともない? どうして? 貴方が懸命に勉学に勤しみ、仕事に励んだ証拠でしょう? 何を恥じることがあるの? 働き者の立派な手よ? 貴方は自分で優秀な官吏だと言っていたじゃない。今の仕事だって自分の努力で勝ち取ったのでしょう?」
小さな声で呟いた俺を眉を顰めて見つめる。今までなら睨まれているように感じた眼差しが、真剣に見つめているように感じる。
まるで卑下する俺を叱咤し励ますような……
そう思うと急に心音がうるさくなる。どっと汗が吹き出し、顔が熱くなる。
ぐぅ……胸が苦しい。
「ネッ……ネリーネ嬢っ! あの、その……暑い中手を握られると汗をかいてしまう」
「そっそうね! 暑いのに失礼したわ!」
パッと小さな手が慌てて離れていのに喪失感を覚えて、かぶりを振る。
「さっ、早くチケットを買いに行こう」
気を取り直して振り返ると、毒花は俺の手に絡んだあの小さな手を嬉しそうに見つめると、ぎゅっと大切そうに組み合わせて自分の身体に寄せていた。
えっ? ええぇっ⁉︎ どういうことだ? もしかして俺のこと……
俺の手に触れた事を喜んでいる様な仕草に見えて、心が掻き乱れる。俺は今まで生きてきた中で一番混乱した。




