02 遭遇
…夢じゃない?
昨夜の記憶が流れ込む。
妹がネットで見つけたゲーム。お姉ちゃん好きそうとか言いながら勧めてきたので、パソコンにインストールして起動した。
タイトルが出るでもなくキャラクターと「名前を入力してください」というメッセージだけが出たので"アヤ"と自分が良くゲームで使う名前を入力する。2人目のキャラクターに切り替わったので"カナ"と妹の名前を入力してエンターキーを押す。
直後だった。
金縛りにでもあったみたいに体が動かなくなった。
視界が渦を巻くようにして歪み、引っ張られる感覚と共にゴムのように自分の身体が伸びるようにしてゲームに飲み込まれたような記憶。
真っ暗な深淵の中でやっと身体が動いたかと思うと、妹もそこにいた。
闇が足元から身体に絡みつくようにして妹を覆っていく。私が助け出そうと伸ばした手は妹に振り放された。困惑する私をどこか寂しい目で妹は見ていた。
「逃げて!お姉ちゃん!!」
そう言って妹は私の身体を強く押し飛ばした。私は倒れるようにして深淵のさらに奈落へと沈んでいった。
…あぁ、なんだ。
妙にリアルな体験だったから酷く恐ろしく感じたけど、こうして考えてみるとそれも起こりえない。普段からゲームやアニメを見ているせいで影響を受けた夢なのだろう。
異世界転生…いや召喚…いや、なんでもいいけど。気楽に考えよう。夢だと分かればせっかくなら目が覚めるまでは楽しんでみるのも悪くない。そういうのに憧れがないわけではなかったし、自分がそうなったら、なんてことを考えるくらいのことはしたことがある。楽しまなくては損だ。
案外、妹も近くに居たりするかもしれない。
立ち上がってみる。
思い返して見ると着ている服が名前を入力する時に表示されていたキャラクターと似ている気がした。
髪の毛はピンクだったような…?
そう思って髪を手で視界に持ってくると、やはりピンク色をしていた。私はあの時のキャラの姿になっているっぽい?
分かってくると、怖さは薄れ試したいことが増える。
「メニュー!ブック!ステータス!アイテム!開け!システム!」
出ない…。
とりあえず叫んでみる。手を宙でスライドしてみたり、心の中で強く情報を探ってみる。だが、何も起きない。視界の隅にアイコンやレベルが表示されていることもない。
私はあまりゲームをするときに情報を見ない。詰まったら見る。それまでは試行錯誤してやって見るということが多いので、このゲームがそもそもアクションなのかRPGなのかFPSなのかすら知らない。
レベルというのがそもそもあるのか、叫ぶコマンドの名前が違うのか、やり方が違うのか、誰かに聞かないと分からなさそうだ。
この森から抜け出して人を探さないといけない。
マジか…。
持っている物を確認するが服にはポケットすらなく、近くに何かがあるわけでもなさそうだった。
…不親切では?
いや、なんの前情報もなしに始めているのも悪いけれど、最近のゲームならチュートリアルや世界観の導入オープニングなど何かしらあるはずではなかろうか?
天の声が導いてくれるわけでもなく?親しそうな仲間がいるわけでも、来てくれるわけでもなく。初心者が集う街の宿屋から始まるとかでもなく?こんな森の中から急に始まるってことがあるの???
夢とはいえ、途端にイライラしてきた。自分の夢なのにこうも思い通りにならないとは…。いやでもワールドがランダム生成なゲームならそれもありえなくはないのか…?羊を探さないと…なんてね。
最悪を考えるといきなりモンスターと遭遇などしたら理不尽ではあるが、少し歩けば街なんかが見えるのかもしれない。まだ分からない。
大きくため息を吐く。その直後、後ろから微かに不自然な茂みが揺れる音がした。
風ではない、ガサゴソと生き物が通ったような音だ。
血の気が引く。モンスター?動物?人?戦う?勝てるの?
分からない、怖い。
私は逃げるようにして後ろへと早足で下がることにした。何も現れない。進む先と後方を警戒しつつ、森を歩くと足元に具合のいい枝が落ちていた。1メートルにも満たない棒であったが何もないよりはマシだろうとそれを拾う。
目を凝らして遠くを見るが視界は全て草と木と草と木。人が通ったような道も見当たらないガチな獣道がずっと続いている。
中学の頃は陸上部でマラソンで何度か賞を貰ったこともあるくらいに運動が苦手なわけではない。それでも最近は特にインドアな生活も多く、足の体力に少し不安を覚えた。どれほど歩けばこの森を抜け出せるだろうか?考えても分からない。ただ進むしか私にできる行動はなかった。
歩く。歩く。歩く。
その度に踏みしめる大地の感覚、触れる木々の生命力、木漏れ日から差す光の熱。
夢を自覚するとこんなにも感覚が鮮明なのだろうか?そもそも頬をつねったり、痛みとかが感じられないのが夢というものではなかったのだろうか?
軽く腕をつねってみる。痛い。
…少しだけここが夢だという確信が弱まっていく。
もしかしたら…本当にここって…。
まさか、そんなわけ…。
そんな葛藤をしていると、突如として森のどこかで大きな爆発のような空気が弾ける音が響き渡った。なびく木々のざわめきと風、逃げる鳥たちの声と羽ばたき。
突然の大きな音にビクリと心臓が跳ねる。それを他所に何かが近くを走る茂みを鳴らす音があちこちから聞こえ始めた。爆音がした方から離れるように何かが逃げていく。何かが居るのだ。本能が危険だと警報を鳴らす。
私もすぐさま離れようとした時だった。目の前の茂みから突如として何かが飛び出した。
赤い体、尖った耳、2足で立つ、太い棍棒のようなものを持った人ではない生物がそこにはいた。未だに半信半疑であったゲームの中?という疑念が確信へと変わった。
これってつまり、ゴブリン?
あれ?コボルト?
ていうかゴブリンとコボルトの違いって何…?
どうでもいい情報が頭を巡るが、どっちでもいい。戦わなければいけない。咄嗟に枝を構えると、相手もこちらを見て驚いて固まっていたが、急に言葉なのか鳴き声なのか分からない言葉を威嚇するように喚いた。
乱雑な牙と少し飛び出した大きな眼球が次第にこちらへと敵意を向ける。たとえそれが猫であっても、明確な威嚇をされると恐怖を感じるみたいに、私の心臓を絞り上げた。
よく見るモンスターだ。強そうには見えない。だけど…強さが分からない。
戦うしかないって思ったけど、レベルは?
強さは?
本当にこれ戦える相手なの???
おかしい…おかしいってこれ。
マズイ状況なの?
負けたらどうなるの?
どこからリスタート?
ここって本当に夢なの???
死んだら…どうなるの…?
最悪の結果を考えて、途端に恐ろしくなる。呼吸が上手くできなくなってくる。思考が乱れていく。
それ以上は考える猶予も、迷う時間すらないままにモンスターは私の方へ走ってきた。
思わず叫んで、私は持っていた枝をモンスターに投げつけた。ゴブリンはそれを棍棒で叩き落とす。その一連の結果だけで私はそのゴブリンに勝てないことを悟った。
急に投げつけた棍棒を叩き落すその反射速度、枝と言ってもパイプくらいの太さのあった、自分の力じゃ折ることすら困難だった枝は空中で木っ端するように勢いよく地面に飛び散ったのだ。
私よりも明らかに力は上であり、現実であの一振りを受けようものなら私は…。
待って
怖い
やだ
どうして?
ヤダ。やだやだやだやだ!!!!
私は逃げ出した。とにかく走ろうとした。力の限り、何秒続くかすら分からない全力を込めて駆けた。後ろからゴブリンが追ってくる足音が私に死を与えようと迫ってくる。
その足音が急に大きな音を立てたので思わず振り返ると、飛び掛かったゴブリンの恐ろしい形相と棍棒の影が視界を黒く狭めていく。
「あっ…」
鈍い音が頭の内側からしたような気がした。視界がぐるりと回り、身体が捻じれるように引っ張られて、身体が宙に浮いた。
直後に今度は背中から打ち付けるような衝撃が全身に走って、地面を転がったという理解すらできない、生涯で感じたことがない痛みが声にならない叫びとなって口からこぼれた。
その叫び声すらさらなる痛みを誘発して、死ぬとかいう恐怖すら感じる前に激痛が思考を焼き切った。
赤く染まる視界の隅に止めを刺しに来るゴブリンの姿が微かに見える。痛みに耐えることしかできない思考はまるでテレビでも見ているみたいな感覚でただその光景が流れているだけだった。
その次の瞬間、何かが飛んできたみたいにゴブリンの頭が真横にブレた。水の中にいるようなフィルターがかかった耳に、だんだんと何かの声が聞こえる。
「…して、こんなと…ろに、人が…!」
だんだんと意識が飛び飛びになっていく。もう何も考えていられない。
痛い、熱い…痛い…暗い…。
「お姉ちゃん!」
妹の声が沈んでいく意識を呼び戻すように頭の中に反響した。
意識を吹き返す。
痛みが和らいでいく。
赤黒く染まった視界がだんだんと色を取り戻していく。
呼吸をしようと吸い込んだ口の中に液体が流れ込んで、苦しさのあまり私は酷く咳込んで、吐き出した。
「落ち着くのです、ゆっくり息をして。もう大丈夫なのです。ポーションだから、これで治ります」
暴れる私を抑えるようにして、背中をさする誰かがいた。
ゆっくりと呼吸を整えていく。肺に水が残ったままでゼェゼェと呼吸が妙な音を立てて、咳が止まらない。
言葉…人…。誰なの?
だんだんと状況を考える思考が戻ってきた。涙が頬を伝い、視界を滲ませたがそれでも確認しようとそちらを見る。
白い…少しだけ青みがかった髪の毛と長い耳。不安を誘う瞳孔のない、しかし薄く光を反射する宝石のような瞳をした青年がいた。
「あ゛…なた…は?」
「僕はアクリス。冒険者のアクリスなのです、君は?」
「私は…アヤと言いま…うっ…」
声が掠れたようにこもって、また咳込む。
「どうしたの!アクリス!」
「こっちにいます!悲鳴が聞こえたと思ったら人がモンスターに襲われていたのです」
誰かが走ってくる音と、金属がぶつかる甲冑の音。
現れたのは騎士のような恰好をした金髪の男性と、身の丈ほどある大剣を持ったツインテールの赤い髪の少女だった。
「うっそでしょ…」
少女は私を見て眉をしかめた。
「一先ず、前の拠点に戻るぞ。その子を休ませないと…」
「そうですね」
アクリスは私を背負うようにして抱きかかえた。確かに意識はだいぶ戻ってきたが、身体はだるく、思うように動かなかった。
棍棒で殴られた時の感覚を思い出す。
頭が吹き飛んだんじゃないかと思うような衝撃。
だけど、骨が砕けている様子はなく。
打ち付けた背中の骨、内臓、共にもう痛みはない。
ポーションのおかげなのだろうか?
だがそもそも内臓がつぶれた感覚はなかった。
骨が砕けた感覚もなかった。
痛みで麻痺して可能性もあるが、先ほどまで私が倒れていた場所には血の一滴すら残ってはいなかった。
そして、あの視界が赤く狭まっていく感覚には既視感があった。
おそらくはこの世界はヒットポイントの概念がある。
体力が減ると視界が赤くなり、回復すると元に戻るFPSなどでよく見るタイプだ。
そうであるなら骨が折れるとか、四肢が飛んだりすることはなく、体力さえ回復すれば元に戻るような今の状況に納得がいく。
「君は何故、こんな場所に居るんだ?」
状況を分析していると、騎士が私に話しかけてきていた。
白と金色の装飾の鎧、薄く澄んだ緑の瞳。まるで白馬にでも乗って来そうなまさしく王子様ともいった具合の人間がいるのかと…。
いやゲームの中だったわ…。
「気付いたらここに…」
思わず何も考えずに答えてしまった。
異世界から来たなどと言っても信じてもらえるのか。
かえって怪しまれるだけなのか。
だが気付いたらここに居るというのもどう考えても普通ではない気がした。
記憶を失ったことに…いや、でも…。
あれこれ考えていると、赤い髪の少女が私の腕を強く掴んだ。
それは痛みを感じるほどの屈強な握力で、正義感に満ち溢れたような燃えるような赤い瞳が私に怒りを表していた。
「ここをどこだと思っているんだ!アンタは!?バカなんじゃないの?!」
「やめなよ、メイヤー…」
怒鳴るようにして、メイヤーと呼ばれる少女は私をアクリスから引き下ろそうとした。
「怪我人なんですよ?」
「傷ももう治ってるでしょ!背負う必要なんかないわ!」
私はゆっくりとアクリスの背中から降りた。足に少し力が入らない気がするが歩くこともできなくはないだろう。
「よく覚えていないんです、目が覚めたらここにいて…」
腕を掴む力がさらに強くなった。痛みで声が出そうになったのをなんとか堪える。
それを止めようとしたのか騎士が近付いたが、メイヤーは大剣で動きを止めた。
「メイヤー?」
「うるさい!アンタたちは人が良すぎるんじゃないの!?コイツは嘘を吐いてる!ここに!ただの人間が!一人で!いるはずがないじゃない!」
そう怒鳴りつけたメイヤーは私の方を振り返って、本当の事を言えといわんばかりに目に怒りを宿らせる。
「モンスターが化けているんじゃないの…?」
「ち、違います…!私は…ッ!!」
痛みが耐えれなくなってきて、私はつい彼女の腕を引き離そうと掴み返したが、ビクリとも動かなかった。
「やめるんだ、メイヤー!」
「気を抜いてんじゃないわよ!ここはもう魔王城のすぐ近くなんだよ!どんなモンスターがいるのか分かったもんじゃ…!」
興奮するように苛立った少女をアクリスがそっと抱きしめた。
「落ち着くのです、大丈夫。その心配はいらないから手を放してあげて欲しいのです」
アクリスがそう言い聞かせて、メイヤーの手にそっと触れる。私の腕を掴む力が少しづつ弱まった。
「信じがたいっていうのはもっともだと思います。でも少なくとも人間だと思うのです。魔力も驚くほど低いし、モンスターならゴブリンに殺されかけていたのも妙です。
服も質素だけど、ほとんど新品のように見えるし、この人間が何の武器も持たずにここまで一人で来た、というのはそれこそ考えにくいのです」
「つまり、どういうことなの?」
「どこか遠くから急にここに飛ばされてきた、という話もあながち嘘ではない、ということなのです」
「………」
少女は私から手を放して、騎士に向けていた剣を地面に刺すと両手を上げた。
「分かった、分かったから離れて…」
アクリスは少女の頭を優しく撫でて、私から距離を取らせた。
「疑いが晴れたわけじゃないから。怪しい動きをしたら私は容赦なくアンタを斬るからね」
「は…はい!」
不貞腐れるようにメイヤーは大きくため息を吐いた。
「さて、話を戻すぞ。ここは危険なんだ。まずは拠点に戻ろう」
「村まで送り返すべきではないですか?」
「ここで引き返すというわけにはいかないし、どっちにしろもう日も落ちるだろう。明日になったらメイヤーはこの人間を連れて村まで戻るんだ」
「はぁ!?」
メイヤーは騎士に掴みかかった。
「どういうつもりなの!!」
「探知と森の探索に長けたアクリスは外せん。俺も先に進まないといけない。残っているのはメイヤーしかいないだろう?」
「だったらアンタが…!ぐぅ…なんで私がこんな…!」
さっきにも増して少女が苛立っているのが分かる。
私もこの少女と二人で…という状況は正直かなり怖い。
「あー!!もう分かった、分かったわよ…。送って来ればいいんでしょ!」
だが少女にも事情があるのか、それを嫌々ながらも承諾したようだ。
不機嫌な態度を隠すことなく、地面を蹴るとそのままどこかへ歩いて行こうとする。
アクリスが騎士に困ったような顔をして、軽く頷くと彼女のあとを追いかけて行った。
「ごめんなさい…迷惑をおかけして…」
「仕方ないさ。まあ安心してくれ。
これでも俺らはかなり強いんだ。彼女一人でも君を守りながら戻るのは難しいことじゃないし、俺ともう一人でも仕事は続けれる。気にするな。
助けが間に合って良かったよ」
ポーションを飲んだとはいえ、疲労が回復するわけではない。明日にはこの森をメイヤーと2人で抜けなくてはいけなくなった。
しっかり休息をとれと、騎士に連れられて焚き火をしていたであろう炭と燃えカスが残り、テントが設営してある開けた場所に着いた。




