映画は観てみないと分からない
映画SNS や Twitter をみると、映画の感想が山ほど投稿されている。同様なブログの投稿も多い。そんな状況で、映画を観ようとするとき、他人の感想が気になってくるのは自然ななりゆきである。
観にゆこうかな、と思った映画のレビューが思ったより低評価だったので、行くのを止める。逆に好評価だったので観にゆくことにする。そんなふうに判断材料にしてしまうことも多い。
そこで気になる点。
投稿されている他人の感想はどれくらい「アテになる」のだろうか?
結論を述べるなら、自分で観てみないとわからない。身も蓋もない言い方である。
SNSレビュワーは基本的にアマチュアなので、レビューの質にバラツキがあるのは当然であろう。また、自分と不特定多数のレビュワーたちとの嗜好や興味が一致する筈もない。
そこで、自分と好みの似た人、質の高いレビューを投稿している人など、「信頼のおける」レビュワーをチェックして、そのレビューを参考にすることが多いであろう。
ところが「信頼のおける」レビュワーの評価と、自分の評価が食い違ってしまうこともしばしばみられる。個人的な実感として、映画の場合、音楽やマンガ・小説などと比べると、こういった「食い違い」がかなり多いような気がするのだ。
ひとつの理由は、映画の扱う題材が広すぎることだろう。強いレビュワーは、多数の映画を舐めるように観ていることが多いし、それがレビューの質に反映していることもある。だが、すべての文化、時代背景、制作者について通暁することは不可能であるし、どうしても得意不得意が出てくる。
また、観る側の受容のしかたにも(ある程度のパターンはあろうが)ばらつきがある。たとえば、個人的な記憶と作品が共鳴するような場合、他に全く同じ体験をしたレビュワーがいる可能性はぐっと下がってしまう。その人ならではの鑑賞体験は、特殊なものであればあるほど、SNS的な評価から外れたものになる。
また映画は、音楽やマンガ・小説よりも幅広いオーディエンスがいて、なおかつ、一般的に語りたくなる話題であるように思う。そのことでレビュー数が多くなり、結果的に「食い違い」も顕在化しやすくなるのかもしれない。
それではオンラインのレビューは全く無意味かというと、そうでもない。
たとえば、作品について客観的な情報が豊富で、的確に紹介してくれているレビューは、情報の面からは有用だろう。
また時には、自分とは違った立場からの受容のしかたを垣間見ることができるかもしれない。自分の感想と全く異なっていたとしても、そういうレビューを書ける人こそ、本当の意味で「信頼のできる」レビュワーだと言えるかもしれない。
自分のやりかたを書いてみる。
文化的に自分と近しい作品、たとえばポピュラーな邦画作品などについては、とりあえずあまり作品については調べず、SNSに投稿されたレビューも読まないようにして、とにかく作品を観てしまう。鑑賞後、ある程度自分の感想を掴んでから他のレビューを読んで、自分の感想と比較してみるのである。
しかし文化的に馴染みのない作品の場合は、予め解説やレビューを読んでおいたほうがよい。たとえば社会主義時代のジョージア映画を観る時には、あらかじめ映画以外の情報を把握して、文化や時代背景などを知らないと理解しづらい場合がある。実験映画や、前衛作品なども同じである。他文化の(自文化とコンテクストを共有していない)ハイコンテクスト作品というべきか。
こういったやり方が通用しないのは、お膳立てしてほしい場合、つまりあらかじめ「こんな作品が観たい」場合、あるいは、期待通りの作品を観たい場合である。これは作品と対峙するのではなく、作品を消費するためのコンテンツとして使用するような場合ともいえる。それはそれでひとつの受容のかたちであるし、いわば、初期衝動による動機とも言えそうだ。
ただ、好きで続けて観ていると「それだけではつまらなくなってくる」、つまり舌が肥えてくる可能性は十分にある。実は、そこからが、面白い。