美樹さん
もしよろしければ、読了後もう一度読み返してみてください。
「――おそらく、頭部外傷による逆行性部分健忘でしょう。一般に言うところの記憶喪失です」
医師はボールペンで三回ほどカルテを叩いたあと、まるで昼食のメニューを決めるかのように淡々とそう告げた。
「落ち着いてください。まだ症状としては軽い方です。こういった患者さんにとってもっとも大事なのはその後のケアです。思い出せないことを責めたり、厳しくあたってはいけません。周りの人達はただじっと見守ってあげる。それが今、患者さんにしてあげられる最善の治療ですよ」
医師の言葉が信じられなかった。いや、信じたくはなかった。頭のどこかでこれは出来の悪い夢なんだと言いきかせる自分がいた。
「あなたと患者さんが恋仲であったのなら、なおさら辛いとは思います。しかし気を落としてはいけません。次第に思い出していくこともあると思います。その中には過去のあなたとの思い出も含まれているかもしれない。気をたしかに持って。根気との勝負ですよ」
医師は最後にそう激励の言葉を送った。その他にもいろいろと医師は言っていたが、その時の自分はただ呆然と視線を彷徨わせるだけだった。
「あの日」、あの日以来、彼女は別人のように変わってしまった。人と会うのを極端に怖がるようになり、以前好きだった夜風の中の散歩もしなくなった。外出することはおろか、しまいには勤めていた会社も辞めてしまった。
抜け殻になってしまった彼女をほっとける筈もなく、僕はただ毎日をバイトと彼女の世話に費やしていた。
そんな僕は今、自宅のアパートの玄関前にいる。彼女のことが心配で駅から走ってきた。
だが、いざ自宅の玄関にたどり着き、鍵を錠に差し込むまではよかったのだが、直後に手が震えてしまい中に入れずにいたのだ。
「大丈夫だ。心配ない」
自分にそう言い聞かせる。軽く深呼吸した後、ゆっくりと鍵をひねり、重いドアを開けた。
中は完全な闇だった。独り身ならばそれで当然なのだが、僕は彼女との二人暮しだった。
僕はすぐに部屋の電気をつけ、彼女の姿を探した。カーテンは締め切られており、嫌な静けさが部屋に漂う。
その静寂に溶け込むように、かすかに水滴の滴る音が耳に響いた。
「――まさか」
僕はすぐさま音の方向へと駆けていった。
風呂場に着いた時、僕は息を呑んだ。
「美樹さん!」
彼女は浴槽の縁に体を預け、ぐったりとしていた。垂れ下がった手首からは濃い赤が滴っている。
僕はすぐさま彼女を風呂場から引きずり出し、近くにあったタオルで腕を縛った。
数分後。止血のおかげで手首の出血は止まった。不幸中の幸いか、切れたところは動脈ではなく静脈だったようだ。
僕は彼女の手首に包帯を巻きながら、先ほどから僕と目を合わせようとしない彼女に優しく言った。
「どうしていつもこんなことをするんですか」
そうなのだ。彼女の自殺未遂は何も今に始まったことではないのだ。家に閉じこもるようになってから彼女は、たびたび自分の留守を見計らっては自傷行為をするようになった。 何が原因なのかはよくわからなかった。だから何度も彼女を病院へ連れていこうとした。だが彼女は頑なに外に出ることを拒んだ。
「ねえ、やっぱり病院に行ったほうがいいですよ。こんな状態、美樹さんにはよくない」
僕は少し語調を強めて言った。何も彼女に怒っているのではない、彼女の事を気遣ってのことだ。
僕の真摯な態度が伝わったのか、やっと彼女の目が僕をとらえた。
「……しらない」
「え?」
彼女が一瞬何かを言ったので僕は聞き返した。
「――しらない。知らない。私はあなたのことなんて知らない!美樹さんって誰!私は美樹さんじゃない。美樹ちゃんでもない。私は美樹なの!」
「なっ」
――にを言ってるんだとは続かなかった。
彼女は僕を突き飛ばして、玄関から外に出て行ってしまったからだ。
あれほど外に出ることを嫌っていた彼女が、だ。
僕は突然のこの状況に、胸の奥がチクっと痛むのを感じた。胸だけじゃない。まるで体全体が僕に「彼女を追いかけろ」と叱咤をしてるようだった。
……なんだろう、この気持ち。
僕は言いようのない不安に駆られる。
「は!」
僕はいったいこんなとこで何をやってるんだ。今、やるべきことがあるじゃないか。
「追いかけなきゃ!」
やっと追いついてきた思考に鞭をうち、僕は夜の闇へと繰り出した。
左も右もわからない。とにかく無我夢中で彼女の姿を探した。
その間も彼女が先ほど、僕に投げかけた言葉の意味が気になってしょうがなかった。
『――しらない。知らない。私はあなたのことなんて知らない!美樹さんって誰!私は美樹さんじゃない。美樹ちゃんでもない。私は美樹なの!』
彼女の言葉の意味を一つ一つ探していく。
すると先ほどのように、また胸が強くしめつけられる感覚をおぼえた。
『私は美樹なの!』
彼女があんなに感情を吐露したことは、あの日以来一度もなかった。だから驚きもした。だが一番驚いたのは、彼女の言葉を聞いた自分自身にだった。
『私は美樹なの!』
あの言葉を聞いた瞬間の自分自身。
なぜ彼女はあんなことを言ったのだろう。
なぜ彼女は僕のことを「知らない」と言ったのだろう。
なぜ彼女は自分のことを「美樹」と言ったのだろう。
僕は思った。
――あれではまるで、彼女が記憶喪失みたいじゃないか――
ほどなくして、僕は道路を挟んだ向こう側の歩道に彼女を見つけた。
どうやらこの夜半の戦いにも終わりが訪れたようだ。
彼女は律儀にも信号待ちをしていた。横断歩道の先には僕がいる。距離にして車体三つ分ほど。彼女はまだ僕に気づいた様子はない。
走り疲れたのか、彼女は両膝に手を突いて肩を上下させていた。
辺りに車はほとんど走っておらず、ただぼんやりと外灯が人の通らない歩道を照らしていた。
赤。赤。青。
永遠に思えるほどの長い赤信号が、青信号へと変わった。
――それが合図だった。
僕は走った。彼女もゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。彼女はまだ気づいていない。
行ける。そう思った矢先、僕の目の前に飛び込んできたのは一台のトラックだった。
トラックは横断歩道を歩いている彼女の後ろを通ろうとしていた。
「っばか!」
僕の怒鳴り声と僕の手が、彼女の腕を掴むのはほぼ同時だった。
彼女は、目前にいる僕に気づいて後ろに逃げようとしたのだ。
彼女を捕まえるために伸ばした僕の右手が、渾身の力でもって引き戻される。
彼女の華奢な体が、強引な引く力でトラックの車体すれすれのところをなぞるように移動する。
――時間にして、まばたき一回ほどの戦い。
だがどうやら、その戦いを制したのはトラックではなく僕だったようだ。
トラックの車体からうまく逸れた彼女の体は、どすっと豪快な音をたてながら僕の両腕に収まった。
――が。
「わぁわわわわあ」
勢いあまって僕の体はゆっくりと背中から倒れていく。
世界が反転していく中、ふと――
――お前といるといっつもこうだな――
僕は何気なしにそんなことを考えていた。
「――け……ん……け……ちゃん!」
飛んでいた意識が次第に戻ってきた。
僕の耳もとで、うるさいほどに女の喚き散らす声がする。
「健ちゃん!ねえ!健ちゃんってば!死んじゃやだよ!ねぇ健ちゃんってば!」
「……あぁ、聞こえてる。わかったって。聞こえてるよ」
僕は目を開けながらそう答えた。
見るとそこには、夜の闇を背景に、仰向けになった僕を真っ赤な目で覗き込む美樹がいた。
「だから言ってるだろう、いつも。お前は何事も短絡的に行動しすぎだって。元気なのはいいけど、これじゃあ僕の身が持たないよ」
僕は、困ったような照れたようなどっちともつかない口調で、ぶっきらぼうにそう言った。
そしてゆっくりと地面から上体を起こした。
「ぁああ……」
「ほら」と、たぶん僕は笑っていたと思う。
美樹の顔が、タックルよろしく僕の胸に飛び込んできたのだ。
勢いよく咳き込む僕を知ってか知らずか、美樹は僕の胸に顔をうずめながら盛大に泣き始めてしまった。
「うぁあ、ごっ、ごめ、ごめん、ね。ふぇえ、ほ、ほんとは、事故にあってから、いちばん辛かったの、けん、けんちゃんだったどに、わた、わたぢ、ひどいこといっぱいぢだ」
「もう、いいって。いいから。もういいんだ」僕は美樹の後頭部を優しく撫でてあげた。
「うぁぁ、よ、よぐない、けんちゃんが、どんな、ふうになっでも、けんちゃんは、けんちゃんなんだっで、お、思おうっで、きめでだ、けど、」
「わかった。わかったから。もう全部思い出したんだ」
「けど、けど、けんちゃんが、みき、じゃな、ぐで、みきさん、っていうど、わた、わたぢ、たえれなかった!」
そうか、と思った。ここにきてやっと先ほどの彼女の言葉の意味が見つかった。
彼女は耐えられなかったのだ。
三ヶ月前に車との事故で記憶を失った僕が――
あれほど何千、何万回と、『美樹』と自分の名を呼んでくれていた僕が、まるで別人のように優しく『美樹さん』と自分を呼ぶのが何よりも耐えがたかったのだ。
そんな些細だけど、何よりも大事なものを。
こんな身近にいたけど、何よりも大事な人をなぜ僕は今の今まで、忘れていたんだろう。
本当に馬鹿なのは僕のほうだ。
こんなにも彼女を傷つけたんだ。
「なぁ、もう泣きやまないか。そんなに強く抱きつくと暑くてたまらん」
嘘だ。今は十一月の下旬だから、彼女とこうしていても逆に暖かいぐらいだ。
だけど、僕の頭の中で巡る巡る美樹との思い出が、僕を面映い気持ちにへと駆りたたせ、僕を本心から遠ざけていた。中には人に言えないような気恥ずかしい思い出もあった。
それらが、映画の場面のように僕の頭の中を駆け巡っていた。
本当は、今と過去、その二つを繋げる魔法の言葉を、僕は自らの記憶の中に見出していた。
しかし、気恥ずかしさと彼女を思う気持ちのせめぎあいが、それを言うのを躊躇わせていた。
やがて僕は腹を決めることにした。彼女の、美樹の涙を止めてあげられるのは、やはりこの魔法の言葉以外ほかにない。
僕は目を瞑り、大きく深呼吸をしたあと、ゆっくりと魔法の言葉を唱えた。
「――美樹――」
美樹の肩が震えた。
人より少しだけ広いそのおでこがゆっくりと僕から離れていく。
そして人より少しだけ大きいその瞳が、僕を真正面から見据えた。
――え、今なんて。
彼女の顔がそう言っていた。
僕はその質問に答えるように、
「だから、もう記憶が戻ったんだって。全部思いだしたって、そう言ったんだ。美樹」
これでもまだわからないのか、この分からずや。
きょとんとする美樹に、僕は更なる言葉を贈った。
「ああ、お前と僕って、そ、その、なんだ。結構恥ずかしいことしてきたんだな。ほら、お前が友達から借りてきたホラー映画を二人で見ようってなって、その後お前が独りでトイレに行けなくなったから、結局その日は二人して狭いトイレの中で身を縮めながら寝たっけ。他にも――」
「……健ちゃん」
美樹の困惑した声が僕を遮った。だが、そんなもの気にならないかのように、僕は自分で言っていて恥ずかしくなるような甘い思い出を彼女の前で披露した。
「他にも、お前が海に行きたいっていうから近場の浜辺まで一つの自転車を二人で代わる代わる漕いで行ったけな。途中、自転車二人乗りしてるのバレて海までパトーカーに追いかけられたっけ。ああ、てかあの時、自転車漕いでたのほとんど僕だったな。なんか損した気分だ。まぁいいや。あと、他にも――」
「――健ちゃん!」
今度こそ僕の言葉は遮られた。美樹の唇で。
息の詰まりそうな口づけだった。もちろん悪い意味ではない。良い意味でだ。それは何と言って表現したらいいのかわからない。まるで二人にとって、これが初めての口付けだったかのような、そんな初々しい感覚。
僕は、きっと自分が記憶を失っていたからなのだろう。と納得することにした。
長い口付けの後、どちらからともなく唇を離した。
「いつから。いつから記憶が戻ってたの?」
美樹はもう泣いていなかった。そのかわり、さっき僕の前であられもない姿を晒したのを今になって恥ずかしくなったのか、頬は赤く染まり、恨めしそうな顔をしている。
「僕がお前に押し倒された辺りからかな」
即答した。
「っち!ちがうよ!あれは健ちゃんが私の腕を引っ張ったから……だから……」
その後に続く言葉が出なかった。
どうやら、美樹はその後に続く言葉を言おうとして、そして気づいたらしい。
なぜ自分の腕が引っ張られたのかに。
「ばかやろう。あともうちょっとでお前、トラックに轢かれてたんだぞ」
僕は少し怒った口調でそう言った。だが本気で怒ってるわけではない。それは例えて言うなら、イタズラをした子供を叱る親かのように。
「ごめん、なさい……」
美樹は素直に僕に謝った。
「でも」
「うん?」
「でもひどいよ健ちゃん。いじわるだよ。記憶が戻ってたんなら、もっと早くにそう言ってくれればよかったのに」
「ああ」と僕。
「何回も言ってたんだけどな。お前、取り乱しちゃって、まともに話せる状態じゃなかったんだよ」
「うぅーー」と美樹はうねった。
僕は子供がいじけたような美樹のそんな態度に、自然と顔がほころぶのを感じた。
そうだ。そうなのだ。僕はこれが見たかったんだ。
僕にからかわれて頬を膨らませていじける美樹。
僕達は今までこんなやりとりを何回もやってきたんだ。
――そう、僕達は。
――僕達は、どこにでもいるような普通の彼氏彼女だった。
何不自由なく、とまではいかないものの、お互いに足りないものはない、日々に満足のいく生活を送っていた。
それが三ヶ月前のある日、僕の事故によって全てが一変してしまった。
病室のベッドで目覚めた僕を迎えたのは、上京してから久しぶりに見る両親の顔と、僕と同い年ぐらいの、瞳が大きいのが印象的な一人の女性だった。
両親は僕に、お前はトラックに轢かれたんだと必死にまくしたてていたが、なんのことなのかよくわからなかった。
ただ気になったのは、両親の隣にいる女性のことだった。
僕は初め、その女性を親戚の誰かだと思った。女性は僕のことをすごく心配してくれていたみたいだけど、誰なのかわからいので他人行儀な返事を繰り返していた。
そのうち、女性は不安な顔になって僕に二三質問をしてきた。
僕は嘘をつくのはよくないと思ったので、正直に答えることにした。
すると突然、女性は泣き崩れてしまい、僕はものすごく申し訳ない気持ちになった。
それから僕が退院するまでの間中、女性は毎日のように僕の見舞いに来てくれた。
そのうち僕は二つのことを理解した。
どうやら僕は周りの人達の言う通り、記憶の一部が本当に欠落してしまっているということ。
そしてこの女性が、記憶を失う前に僕が同棲していた恋人らしいということ。
僕は次第に、献身的な彼女に好意を寄せるようになった。
退院間近になって、僕は選択を迫られていた。このまま実家にもどって両親と暮らすか、部屋を借りて一人暮らしをするか。それか、以前のように彼女と共に暮らすか。
彼女は僕の気持ちを察したのか、それとも初めからそう決めていたのかはわからないけど、迷う僕にまた一緒に住もうと言ってくれた。
それから二人での生活は始まり、だんだんと僕は彼女のことを理解し始めていた。
彼女は優しい。僕が『美樹さん』と、彼女の名前を呼ぶといつも笑顔でいてくれる。
だが僕は、その笑顔の本当の意味を理解してはいなかった。
「あの日」。あの日、僕はバイトから帰ってきていつも通り家に入った。
いつもだったら帰宅の早い彼女が先にご飯を作って待っていてくれていた。
だけどその日は部屋の中が真っ暗だった。
暗がりの中に、元気のない彼女がいた。
僕が喋りかけても、彼女は反応を示さなかった。僕は彼女を怒らしてしまったのか思い、そっとしておくことにした。
でもその時、僕は気づくべきだった。
彼女はその日を境に、壊れてしまった。