#01
第二章です。
その建物は近場に同等の高さのものがないため、一桁台の階数であっても最上階ではそれなりに遠くまで見渡すことが出来、元々それを売りにするために造られたのだろう、最上階のラウンジレストランは、窓が大きく取ってありテラスにも出られる様になっていて、雨模様であっても煙る美しい夜景が見えた。夜景にしろ雨にしろ特に好きな訳ではない紗綾だったが、話題に困って窓の外が美しいという話しを、もう十遍は話していた。淡い桜色の絹地で、襟無しで代わりに細かい刺繍が襟元に施されたブラウスに、白に近いベージュの春物スーツにボックスプリーツのスカート、同色パンプスという、初夏の今に季節としては乖離があるが、梅雨空の寒暖にはちょうど良い出で立ちで、茶色の長髪を下ろしている、祥雨が丹誠込めて製作した紗綾の容姿は、間違いなくこのレストラン内にたむろする三十人ちょっとの男女の中で最も美しく、もし普通の店で、普通の状況であったなら、逆に気後れして遠巻きに眺めるだけが精一杯というものだった。だが、今は普通ではない。紗綾が今いるラウンジレストランは婚活パーティーの名目で貸し切りになっていて、紗綾も参加者の一人であり、従って、司会者と主催者による開催の宣言があってからこのかた、ひっきりなしに声を掛けられるという事態に陥っていた。
紗綾が何故このパーティに参加しているかというと、話しは二週間ほど前に溯る事になる。
目覚めてから一ヶ月ほどが経ったその日、紗綾は住み込んでいる累香の邸宅兼工房の自室から、内線電話で祥雨の部屋に呼び出された。
紗綾は意識が戻った後はひたすらリハビリに励み、担当する医師が驚きを通り越して呆れるような回復振りを見せ、常人と変わらない生活が出来るまでになっていた。紗綾の努力というより、見た目で分かり易い顔の変化のみならず、他の部位にも祥雨が色々と手を入れたせいだと思われた。因みに、親兄弟には意識が戻ってすぐに対面したが、新しい別人の顔をどうしても見せる気になれず、包帯を巻き、今後数年かけて徐々に見せられるものに形成するという建前にしていた。火傷を負う前に勤めていた会社も退職し、近しい友人にも意識が戻ったことは知らせたものの、火傷が酷いからと面会は全て断り、電話やネットのみでの繋がりに移行したので、紗綾の火事前と火事後の顔を両方知っている者は殆どいなかった。例外の一人は弥富…紗綾が『落花』を購入した画廊の社員…で、弥富が累香の工房を訪れた際に再会し、新しい容貌を見せていた。弥富が報道で紗綾の件を知り、相当気にしていた様子だったのと、紗綾は累香の第二秘書の名目で工房で雇われ、邸宅の住み込みになっていたので、鉢会う可能性があるという理由からだった。もっとも、外に出、他人に会うような仕事は第一秘書の三井が担当していたので、紗綾はもっぱら経理関係やスケジュール管理などが仕事であり、紗綾が『落花』を購入したときのように三井が急性虫垂炎を患いでもしない限り、その手の業務が回って来る事は無い。その上紗綾は、秘書というよりも宮園家内部の諸事、邸宅の修繕や庭の手入れの手配やら生活費の管理やら、家令とでも言うべき仕事も担う事になっていて、後者に関しては紗綾が専任するまでは、気が付いたときに気が付いた者が担当し、かなり適当になされていたので、系統立てると結構な仕事量になり、外回りまでは手に付かなくなっていた。
そして、それらとは別に紗綾には大きな仕事があった。祥雨は電話口で、その仕事についての話しだと言っていた。
ノックの音に祥雨は顔を上げ、声を掛けた。夕食後という時間帯とはいえ、夜気を遮るためのカーディガンを上着に着替えればそのまま外出出来そうな、綿のズボンにシャツ、髪を後ろで纏めた姿の紗綾が入室して来た。
「こんな時間に済みませんね。こちらへどうぞ」
ラップトップパソコンのキーボードから手を離すと、祥雨は、紗綾が入って来たのとは別に、部屋にもう一つある引き戸に向けて紗綾を誘導した。祥雨の私室は寝室と書斎の二間続きになっており、廊下から入れるのは書斎のみで現在誘導している戸の先は寝室である。紗綾は、寝室には当然だが今まで入った事など無かったが、躊躇無く歩み寄ると、戸を引き開け、押えた。というのも祥雨は、右足首から下がすっかり包帯で覆われていて、車椅子に乗っていたからである。紗綾は祥雨の書斎と廊下を繋ぐ引き戸の下が、極力凹凸を抑えた造りになっている事に気付いていた。紗綾に与えられている部屋も同じ形式で、以前に通された客間も扉の下枠が平らにされていることからして、わざわざそのように手が加えられていると見るべきだろう。累香が結構な高齢なので家庭内での事故が起こらない様に工夫しているのかもしれないが、紗綾はむしろ祥雨が今の様に車椅子で移動する事を想定しているように思えた。紗綾が『落花』の購入に工房兼邸宅を訪れたときから以降、顔を会わせる度に祥雨はどこかしら包帯を巻いているのだ。
戸口の紗綾に軽く礼を言うと、祥雨は車椅子を器用に繰って先に寝室に入った。寝室は一部の床が膝くらいまでの高さに上げられていて、そこに畳が敷かれ布団が敷かれていたが、祥雨が向かったのは部屋の片隅に十代男子の持ち物としては不釣り合いな一台の姿見である。姿見は、手の平ほどの高さの物入れを土台にしたもので、立ち上がった祥雨の身長とほぼ同じ高さがあり、細い縁は楡の木に漆塗りで木目が美しく浮いて出ていた。傍らに、普段は掛けられているのだろう、鏡面に合わせて縫われた黒い布が置かれていた。そのため、鏡面そのものは剥き出しであるにも関わらず、暗く滑るような光沢を放っているだけで、部屋の家具や壁、何より正面にいる祥雨と紗綾の姿を映さず、ただ黒一色であった。
「鏡、ですよね」
「ええ」隣に立ち、黒い一面を眺めつつ不審げに尋ねる紗綾を、祥雨は見上げてくすくすと笑った。「白雪姫の継母が持っていた鏡と同系統の代物です」
「はあ」
「問いには答えず、ただ、近々死人の出る場所を映すものですが」
笑みを含んだ声で祥雨は言い切った。紗綾は無言で、何の表情も浮かばない顔で、鏡の表面を眺めていた。祥雨は若干戸惑った顔になった。
「表情が動かない、わけではないですよね。その辺りはしっかり造り込んだ筈ですが」
「ええ、動きます。…ああ、はい。何かリアクションを取らないといけないところだったのですね」
「…特に感慨は無いのですね」
「感慨というか、不思議についての感覚が鈍くなっている事は確かです」
紗綾の本心だった。眼前の、齢十四五の美少年の外見を持つ人形師は、本人の言に依れば原材料がひとの骨肉の人形を造り、炎に焼かれた紗綾の容姿をこれ以上無く美しく造り直した当人である。累香という、こちらは無口で頑迷固陋で偏屈ながらどこをどうとっても一老人、一職人、一芸術家、の、本当に曾孫なのかも定かでは無い。実は人間では無いと言われても、そんなものかと紗綾は受け入れる。『近い内に死者が出る場所を映す鏡』くらい、目の前に出されたところで何の感情も湧かせなかった。
一方の祥雨は、紗綾の反応を愉しむつもりでいたらしい。冷淡な紗綾の顔を少々拗ねた表情で見渡すと、慣れた手付きで車椅子を百八十度方向転換させ、紗綾の横を通り抜け、寝室から書斎に移動し、紗綾が入室して来るまで向かっていた猫脚の卓に戻った。続いて寝室から出て来た紗綾に向かい合った椅子を勧めつつ、卓の上のラップトップパソコンを操る。
「お仕事です。死人が出る際に居合わせて欲しいんです」紗綾が腰を下ろすと同時に祥雨は言葉を発した。「そして出来れば死ぬ御当人と親しくなって下さい」
「誰が亡くなるかも分かるんですか」
「分かりません」
祥雨に即答され、紗綾は無表情にその顔を見た。祥雨はわざとらしく溜め息を吐いてみせた。
「分かれば楽なんですけどね。彼奴、人死にがある場所を映す事しかしないのです。今回は幸い、日時の表示のある時計が映り込んだので、日付も特定出来ましたが」
「どのような場所なのでしょうか」
祥雨は無言でラップトップパソコンを回転させ、画面を紗綾に向けた。パステルカラーで仕上げられたお洒落なサイトに連ねられた文字に目を踊らせ、紗綾は眉をひそめた。
「…これに、参加しろと」
「貴女が一番適役です。サクラだと思われそうな気もしますが」
祥雨は面白そうに薄く笑いつつ、紗綾の顔に目をやり、足先まで眺め下ろした。単に紗綾の今回の反応が祥雨を愉しませるものであったというだけでなく、紗綾の容姿が、製作者として満足足り得るものであることを再確認するようだった。
「親しく、とおっしゃいましたが、どれくらい?」
一通りサイトの内容に目を通した紗綾が問い掛けると、祥雨は車椅子の背凭れに全身を預け、手を組みつつ答えた。
「葬儀に参列しても周囲がおかしいと思わない程度です」
隠しカメラを仕込んだ上で紗綾が葬儀に参列し、死体の品質を見極め、適格であれば頂戴する、とのことだった。紗綾の大きな仕事は、『落花』を再製作するために必要な最上級のひとの部位、骨肉、その他の入手の手伝いである。どう考えても表沙汰になれば窃盗とか死体損壊とかの罪状が付くことは理解出来たし、葬儀から火葬までの僅かな間でどう手にするのか疑問にも感じたが、紗綾は一切訊かず、祥雨もまた話そうとはしなかった。
ともかく紗綾はそうして、死者が出るというその場所のその時間、開催されている婚活パーティに参加する事になり、次々と話しかけてくる男たちと順繰りに会話をし続けていたのだった。