#05
「ごめんね、ごめんね」
紗綾はひたすら謝罪の言葉をつぶやきつつ、剥き出しにした落花の腓から足首に掛けて、固く絞ったタオルで拭いていた。外は湿度が高い上に、それほど大きくない紗綾のアパートの部屋は閉め切っていればそれだけで、生物の身体から発せられる体温で温度が上昇してしまう。まして独居用の部屋に、今は紗綾の他にもう一人、それも通常より体温が高くなっている者がいた。そのせいで気温、湿度、共に高い部屋の中で、落花の足首に付いた汚れは、水拭きで落とされる度に、悪臭を部屋内に広げていた。幸いに、もともと裸足だった足首から足の甲に掛けてが酷かった以外は、殆どの汚れはズボンで止まっていたが、紗綾は、布越しとは言え落花が汚れを受けた部分に嫌悪感を感じて、ひたすら謝り続けながら、タオルを動かし続けていた。しばしの間、紗綾が己の感情を折り合いを付けるまで水拭きは続いたが、それを終わったところで今度は放心状態で落花の前に座り込み、全身を眺めていた。紗綾がはたと気付き、慌てて落花に別のズボンを穿かせるまで、また少し時間の経過が必要だった。
落花が、服装が一部変わっただけの元通りになると、紗綾はその傍らに立ち、髪を撫で付けて、ほう、と一息吐いた。落花を存分に眺め下ろしてから、続けて部屋を一通り見渡す。部屋の中は一点を除いて普段とそれほど変化は無い。一点、落花の足元に、先が紅に染まったアイロンが転がり、こめかみの辺りから血を流してうつ伏せている作田の姿がある以外は、いつも通りである。作田の背中が微かに上下に動き、ぜえぜえという荒い呼吸音が連動して、窓を打っている雨の音に混じっていた。
幹事の都合と言うだけで金曜日でもない平日に設定された大学時代の友人たちの飲み会は、開催場所の居酒屋に入って時間が来てすぐ、当初の話より集まった人数がかなり少なくなっていることで、幹事が詰られることから始まり、作田もその詰る一員に加わっていた。だが幹事に笑顔で交わされてしまい、そもそも気の置けない仲間たちである事は事実なので、酒が入って少し経った頃には、参加者たちののりは学生時代のそれに戻り、盛り上がりを見せていたので、大した問題では無かった。
「作田あ、中村あ、お前らちょっとお」
宴も酣、大半は赤い顔になり、空になった酒瓶や缶、料理の皿が卓上から溢れて畳にまで侵食を始め、煙草の煙と酩酊で視界が悪くなって来た頃、作田から離れた位置で話していた友人が突然腰を浮かしかけた不自然な体勢で、大声を上げ、作田と、隣にいた中村の注意を向けた。少し前から、作田たちのいる卓のみならず居酒屋の内部全体がかなりの喧噪に包まれていたが、それを上回る大声だったので、作田たちのみならず友人たち全員に加えて別の卓の数人が、声を上げた友人と隣に座る幹事に目をやった。
「今あ、コイツの、新・彼・女、について話していたんだけどさあ、何かあ、すっごいんだってえ」焼けた鉄のような真っ赤な顔をした友人は、呂律が怪しく語尾がやたらと伸ばしながら、隣の幹事の後頭部と言わず背中と言わず平手でばしばしと打った。「そおんな、女、いないってのお」
「いや、マジだって」
それまでの会話を聞いていない他の面々には、そう言われても何の事か理解出来なかったが、間延びしつつ途切れ途切れながらも説明されたことによると、幹事が今付き合っている相手は、それはもう幹事に尽くしてくれる慈愛に溢れた女性だそうで、幹事の惚気と自慢に良い加減呆れた友人が作田たちに話しを振って来たようだった。
「どんなのよ。まず顔見せろ。写真は?」
言葉ははっきりしているが、立つ事が叶わなかった別の一人が四つん這いで幹事に近づくと、後ろから抱きつくような格好で、取り出されたスマートフォンの画面を覗き込んだ。
「…普通」
「顔がどうこうじゃなくって、とにかく俺の言う事なら何でも聞く女なんだよっ」
その友人の、貶める事も無いが誉める事も無い感想に、幹事はやや声を大きくして反論した。目尻がぐにゃりと下がっていた。
「そんなのありえないし」
「だ、か、らあ、さっきのアレ、やってみようって。作田とお、中村のお、彼女もお、呼び出して」
尚も淡々と続けられた言葉に、幹事を叩こうとして背中の別の参加者を叩きつつ、作田と中村を名指しした友人が割って入った。
「なんだよ」
「なあんでも言う事聞いてくれるっていうから、今、外、雨じゃん。雨の中いきなり呼び出して来るかどうか、やろうって、言ったんだよお。一人だけだとアレだろ、アレ。うん。で、作田と中村の彼女も同じ様に呼んで、来るかどうか、ってえ、やろうってえ」
「あああ、俺、パス。この間、怒らせてて、猶予期間中。作田と、あとは…」
指名を受けた中村は、別の彼女持ちを指名してさっさと下りた。
「おおっ、いいぞ!絶対来る!」
「うおっ、さすがあ!」
作田は逆に自信満々に言い切って、話しに乗った。周囲が囃し立てる中、スマートフォンを取り出した作田は、そこで彼女とは一ヶ月前に別れている、というか振られていた事を思い出して、手が止まった。中村に代わる面子の選定に勤しんでいた大半の友人たちは作田の異変に気付かなかったが、いつの間にか幹事の背後から移動して来てた一人が、目敏く作田の様子を見とめ、先程幹事にやった様に後ろから抱きつきつつ液晶画面を覗き込んだ。
「どしたの、さっちゃん。まさか、駄目!?」
「そんなわけないだろっ」
振られた原因が作田の浮気であり、電話は勿論、メールやメッセージアプリ、SNS、全てが拒否設定されている。連絡を取る術が無かった。ごまかすためにメールから通話に切り替えたところで、作田の目に紗綾の名前が止まった。元彼女と登録名が近かったのだ。紗綾の名前を目にした途端、数日前に国立から聞かされた話が作田の脳裏に蘇った。
…樋口さん、某ブランドの店で、ものすっごく買い物していたんですよねえ。あそこってえ、作田さんがよく持ってるやつですよね。樋口さん、絶対作田さんのことお、狙ってますよ。気を付けて下さいね…
作田は紗綾に掛けた。自分が声を掛ければ来るだろう。とにかく誰か来させればこの場を取り繕う事は出来る。
「ほおい!駄目でしたあ!酔っ払いに付き合う気はないそうです!」
中村の代わりに指名された友人たちの内、一人が声を上げた。その友人は敗北宣言をすると、わざとらしく腕を目に押し当て泣き真似をすると、ジョッキのビールを飲み干した。一方、幹事は頬が弛緩し切った顔で、手の中の液晶画面を見つめつつ、指を動かして遣り取りしていた。その内に他の友人たちも次々に白旗を上げた。実際の所、選定された全員が全員、本当に出てこいと言う連絡をしたかどうかは不明である。
「なんだよお。全滅う?あ、作田はまだかあ」
言い出しっぺの友人が遠くから大声を上げた。作田に注目が一気に集まった。
「ちょっと、待て」
お掛けになった電話番号は…という流暢な台詞を何度か聞いては通話を切る、ということを何度か繰り返していた作田は焦った声を上げた。紗綾とは会社でしか付き合いがないため、電話番号しか登録されていなかった。
「おおっとお、学生時代無敗を誇った作田くんでも駄目ですかあっ」
友人の一人が混ぜっ返し、忍び笑いが起こった。作田は目は手元に向けていたが、目の端にちらちらと捉えられる友人たちの笑みと否が応でも入ってくる笑い声に、苛立を覚えた。
「断られる以前に電話にも出てもらえないようです!」
作田の背後で声が上がり、卓に着いている一同が爆笑した。作田は微かに震えを起こしている手で必死にスマートフォンを操作した。
「悪い!俺、抜けるっ!」
突然響いた声に、作田はどす黒く染まった顔を上げた。作田以外は、皆一様にぽかんとした顔で、立ち上がった幹事を見つめた。
『…はああっ!?』
遅れて、不満の声が上がった。
「いやあ、今、彼女、駅なんだけど、電車が遅れちゃってて困ってるんだって。なので迎えに行って来ます!」
「待て。いや待て。なんだそれ」
友人の何人かが声を上げたが、幹事は完全無視で財布から素早く数枚の札を出して卓に置くと、小躍りせんばかりの様相で席を抜けてしまった。残された参加者たちの間に沈黙が落ちた。他の席の喧噪がやけに耳障りだった。
「なんだよ、それ」
しばらくして、誰かがぽつりと言った。その拍子にそれまで動きを止めてしまっていた作田の友人たちは一斉に溜め息を吐いたり、殆ど残っていないジョッキに口をつけたり、座り直したりと、めいめい動き出した。
「何だよ、ったく。つか、作田も駄目なんだろ。なんなんだよ」
酔いが醒めたのか、友人の呂律が戻っていた。再び、卓の全員が、何の気無しに作田に目を向けた。作田は叩き付ける様に電話を切った。
幹事がいなくなったことで、何となく白けてしまった席は、その後すぐに解散された。その後、ぞろぞろと全員で最寄り駅に向かった一同は、電車が遅れ、待つひとびとで溢れている様を見て、疲れた顔になった。
電車に時間単位の遅延を発生させるような雨量であった昨夜の雨は翌朝、紗綾の使う路線には影響を残さなかったので、紗綾はいつも通り、課で一番早く出社した。曇ってはいるが雨は無い。ただそれも昼までで、昼過ぎからはまた雨が降り続くという予報が出ていた。紗綾が席についてから後、出社してくる同僚たちの手にはしっかりと傘が携えられていた。就業開始時間の数分前になって、紗綾は国立が席を立ち上がり、また座り、そわそわしている事に気が付いた。紗綾は部屋全体をぐるりと見渡し、作田の席が空いている事に気が付いた。課長はまだだが、他の課内の席は全てが埋まっており、気を揉んでいる国立以外は皆一様に、普段通りの朝の時間を過ごしている。紗綾は昨夜、作田から掛けられ、スマートフォンに残された不在着信の履歴の件を思い出した。紗綾は昨日の業務終了後、いつもより遠出して落花のための買い物をし、帰途で大雨により徐行運転している電車内で、大雨の情報を見ているうちに電源を切らしてしまっていたので、意図的に作田の電話を無視した訳ではなかったのだが、帰宅し充電してから履歴に気付いて少々慌てた。その時点で作田の電話番号宛にショートメッセージを送って急用だったかと尋ねたが、何も返って来ていなかった。
「作田くん、今日はお休み?誰か連絡来てる?」
就業開始時刻の放送が入ったところで、灰谷が課内全体に尋ねた。それに対して、国立が何を言おうとしたのか口を開きかけたのと、ほぼ同時、作田が部屋の出入り口をくぐって駆け込んで来た。国立が口を開いたまま、目を輝かせて挨拶をしかけ、灰谷が背中だけでも分かる不愉快さを見せたが、作田はそれら一切を無視をして一直線に紗綾の席のすぐ近くにまで来た。戸惑いつつも紗綾が顔を向け、挨拶しかけたところで突如、作田が怒鳴った。
「調子に乗ってんじゃんねえよブス!」
紗綾は開きかけた口を閉じ、微かに身じろぎしつつ、目を瞬かせた。
「ふざけんな!謝れ!」
「え?あの…?」
「ちょっと、作田くん!」
顔面全体に怒りが張り付いた様な作田と、訳が分からず聞き返す紗綾の間に、無視された事も加わって、不愉快度を増した灰谷が割って入った。
「一体、何事?朝から、何でまた樋口さんに怒っているの?」
「コイツのせいで!コイツに恥を掻かされたんスよ。俺に気がある癖にっ!」
「…そうなの?」
灰谷が紗綾に向けた口調は、問い掛けというより否定を前提にした確認だったが、それでも紗綾は全力で首を横に振ると共に、言下に否定した。
「違います」
「はああ!?何言ってやがる。俺へのプレゼントを買ってたんだろ!」
「…何の話ですか?」
紗綾は困惑した表情になりながらも聞き返した。作田の顔に一層強い怒気が漲り、外国語の単語を叫んだ。紗綾は数拍遅れて、それが以前、国立が発音したブランド名だと気が付き、反射的に国立を見たが、国立は紗綾以上におろおろしていてるだけだった。
「つまり樋口さんが、そのブランドの服だか何だか買っていた。作田くんはそれが自分のためだと思った、と」
灰谷が呆れた声を出した。
「俺じゃなきゃ誰だって言うんですかっ!」
「むしろ何で自分だって決めつけるかな。樋口さん、その相手って、あれだよね。この間、話していたひと」
紗綾は今度は首がもぎ飛ばされそうなほど縦に勢い良く振って肯定した。灰谷はその紗綾の反応を満足そうに眺めた。作田は紗綾を信じられないものを見る様に見、灰谷に視線を移し、振り返って国立を見、また紗綾に視線を戻す。国立を見た時の表情がどのようなものだったのかは、泣きそうな顔になった国立の表情で理解出来た。国立以外の同僚は、失笑しかけているようだった。
「はあっ、ふざんけんな。誰がこんなブス!てか、ブスが何気取ってんだ!恥掻かせやがって!」
作田は顔をどす黒く染め、紗綾に指を突きつけて怒鳴りつけた。言うべき言葉が見つからない紗綾は黙っていた。灰谷が溜め息を吐いた。
「あのねえ、君が勝手に勘違いして何をやらかしたのか知らないけど、それ以上暴言を吐くのなら…」
「黙れよババア!」
「ばっ…」
一拍置いて、灰谷の顔からすうっと表情が消えた。作田は尚も何か言い募ろうとしたが、それより早く、第三者の声が響いた。
「あの、おはよう。皆さん」
課長の、これ以上無いほどに情けない、細い声だった。室内にいた社員全員が、一斉に声が聞こえて来た出入り口の方を見やった。紗綾のいる課の課長が出入り口を跨いだ所にいて、その後ろに部長、部長の斜め後ろ辺りの廊下ににやけ具合が隠し切れていない隣の課の課長がいた。その表情は紗綾たち室内にいた社員には目撃出来たが、背を向けている紗綾の課の課長と部長には当然見えていなかった。
「おはようございます、課長」
一番始めに我を取り戻したのは灰谷で、いつも通りのきびきびした声で朝の挨拶を返した。続いて紗綾や紗綾の同僚たちが思い出した様に口の中で挨拶をつぶいた。こほん、とわざとらしい咳払いが響いた。
「ええと、君、そこの君…と、灰谷補佐。後、課長、君も、悪いけどもう一度小会議室の方に来てくれるかな、うん」
灰谷はいつもと変わらない真面目な顔で応じたが、作田の顔は、先程までのどす黒さが嘘の様に白く、血の気がすっかり引いていた。頭に血を上らせていたとはいえ、何を言ったかの自覚はあるようだった。
灰谷と作田が退室すると、室内の張詰めていた空気が急激に緩んだ。何人かが紗綾に気の毒そうな表情を向けたが、国立だけは紗綾と目が合うと凄まじい表情で睨んで来た。ただ既に終業時刻に掛かっていること分かっているのか、大人しく席に着いた。灰谷は割と早くに戻って来たが、室内を見渡し、作田の席が未だ空であることに気付くと、顔色を変え、出入り口付近の社員に問い掛けた後、慌てた足取りで再び出て行った。先に戻されたのに作田は席にいなかったのだ。そして結局作田はその日、二度と戻って来る事は無かった。
紗綾に取っては気不味いことこの上ない一日が過ぎた。灰谷が二度目に戻って来てからしばらくして紗綾は小会議室に呼ばれ、作田の事を聞かれたので、正直に電話があったが電源が切れていて出られなかった旨と、その後に送ったショートメッセージを見せた。国立は昼休みになるとこれ見よがしに紗綾以外の面子を誘って昼食に行こうとしたが、誰も賛同しなかったせいか、乱暴に椅子を机にぶつけて出て行った。他の同僚たちは、率直に何があったのかと紗綾に聞いて来たので、紗綾は率直に答えた。大体が部長や灰谷と同じ反応で、ようは作田が、自分の電話に出なかった紗綾に腹を立てたのだろう、ということで一致した。
周りのおかしな誤解は免れたものの、重い足取りと疲れた頭を抱えて紗綾は、定時に会社を出た。定時に出ると、ぎりぎり帰宅の混雑より早い電車に乗れるのは有り難かった。とはいえ、傘の分だけ晴天の日より荷物が多い車内は、混んでいる様に思えるから不思議であった。滑り易くなっているアパートの玄関に気をつけつつ階段を戻り、扉に鍵を差し込んだところで、不意に上がった足音に紗綾ははっと顔を上げた。視界にこちらに向かって突進してくる作田が入った、と思った瞬間、紗綾は髪を掴まれ、扉に叩き付けられていた。本人は押し付けた、くらいの感覚だったかもしれないが、紗綾は眼前が真っ暗になり、頭全体に反響するような痛みを覚えた。
「…っかふ。っめっ。あ…あ…」
短い間とは言え、視界が効かなくなった分、他の感覚器官は鋭い働きをした。作田の意味不明なうめきと酒臭い息がはっきりと感じ取れた。無我夢中で自分の頭を掴む作田の手首に紗綾は爪を立て、振り払おうとした。その紗綾の動作がどれほど影響があったかは分からないが、作田は頭を掴んでいるのと逆の手で紗綾の肩口を掴み、押し出した。同時に頭を掴んでいた手が放されて、紗綾の視界は今度は反転した。ばさりという傘が地面に落ちた音を捉えつつ、紗綾は尻餅をついた。
「はっはあ!」
作田は裏返った奇声を上げると、扉と鍵に手を掛けた。
「こっ…!」
紗綾は負けず劣らず言葉になっていない声を上げると、咄嗟に傘を掴んで立ち上がり様に殴り掛かった。だが体格差と、何より酩酊状態で正常な感覚を失っている作田は左手で無造作に傘を払いつつ扉を開け、中に滑り込んだ。扉が完全に閉まるのを、挟まった振り払われて地面に落ちかけた傘が遮った。作田は尚も奇声を上げつつ、廊下の台所に置いてある硝子のコップや調理器具、朝使って出しっ放しで台所に置いてあったアイロンをがらがらと腕で払って流しや床に落とした。
「うひょっ!」
廊下と部屋の間の扉を開け放ったところで歩みを止めた作田がそれまでとは少し異なった奇声を上げた。
「…はああっ、ふざけるなっ、ふうざあけえるうううなっ!ブスがっ!調子に乗るんじゃねえっ!」
作田の視線の先あるものを、見るまでもなく紗綾は分かった。作田は落花を人形だとは認識出来ていないようだが、どうでもよかった。作田が部屋に、落花に向けて踏み出すのが妙にゆっくりと紗綾の目に映った。作田が落花に触れる。そう思った瞬間、全てが緩慢になった中で、紗綾の動きだけが加速した。
恐らく、落花に向かって行きかけた作田の側頭部を、紗綾が床から拾い上げたアイロンで一撃したのだろう。だが、紗綾にとっては作田の割れた頭から飛び散って、落花の穿いていたズボンから足に掛けて染みを作った血液を片付けることに比べればどうでも良い事だった。そしてその片付けが終わった今、次に片付けなければならないのは、床の上の作田であった。
紗綾は台所から、結束バンドを取り出して、取り敢えず手の親指を後ろ手に拘束、足も、と思ったところで作田の靴下に触るのにとてつもない嫌悪感を感じ、台所から買い置きのゴム手袋を出して装着してから靴下を脱がせて足の親指も拘束した。その際に拘束した腕を足の間に入れることで、一層動けない様にした。そのまま微かにうめきを上げた作田を引きずって風呂場の湯船に入れる。湯船の栓をすると、作田の顔を下に、うつ伏せになるように体勢を入れ替えてから、水道の蛇口を捻った。水が入る隙間を残して湯船の蓋を閉めると、蓋の上には買い置きの洗剤や米など、部屋の中から掻き集めた、それなりに重量のあるものを適当に置く。
作田を湯船に残し、部屋に戻った紗綾は床を拭いた。十分ほど経過したところで水を止めてまた部屋に戻りアイロンを片付ける。先が凹んでいた。冷蔵庫に張ってあるゴミ収集日の予定表を見て、いつ出せるか確認する。
更に十分ほど経過したところで、紗綾は再度湯船を確認しすると、水を吸って重くなった身体を何とか空の衣装ケースに入れた。
明日が土曜日で良かったと思う。ついでに今日の夜半から首都圏はまた雨が酷いらしい。どこかの川に捨てて来ようと思った。