#04
一月ほど前、友人の結婚祝いを購入するために向かった百貨店と、その最寄り駅、駅と百貨店の間の歩道、道沿いの建物、それら全てが、細かいが一向に止む気配のない雨の線に人工照明が照り返して、きらきらと煌めき、輝いていた。紗綾はその歩道を、コンビニエンスストアで五百円で売っている、半透明のビニール傘を片手で差し、逆の手にはまとめてもらってビニールの覆いを掛けてもらった百貨店の紙袋を下げ、肩には通勤用のバッグを掛け、歩いていた。平日だが、ノー残業デイ、と銘打った日なので、紗綾はいつもより若干早く退社が叶い、その帰途の途中で百貨店に寄ったのだった。残業無しとは言え、八時間の単純労働を終えた後で、鞄と紙袋の持ち手が肩と指にしっかりと食い込んでいるが、紗綾は顔を正面に向け、背筋を真っ直ぐ伸ばし、大股で足早に、道行く人々の合間を、傘同士が触れる事すら無く、縫って行った。一歩進むごとに人工皮革のパンプスが、薄く膜の様に歩道に張った雨水を跳ね上げ、小さな飛沫がストッキングの踝の辺りに染みを作ったが、紗綾の表情は水滴が反射して作る輝きに負けないほどに、明るく輝き、凛としたものだった。
それでも流石にアパートの自室に到着する頃には、微かに疲労の色が見えていた。ただそれも、自室の玄関扉の鍵穴に鍵を差し込むときには掻き消えていた。
「ただいま」
傘は畳んで横に立てかけていたが、普段使いの鞄と紙袋を掲げた不自由な手で取っ手を捻り、作った少しの扉の隙間に肩を差し入れて開きつつ、紗綾はつい、部屋の中に向けて声を掛けてしまった。扉が閉まり切るより早く、三和土からすぐの廊下の床に、鞄と紙袋を置き、照明を点ける。朝、紗綾が出て行ったきりの、静寂と闇に沈んでいた部屋が、紗綾の帰宅で突如賑やかになった。傘を玄関に入れ、施錠をすると、紗綾は取るものも取り敢えず、廊下を進んで部屋に入った。遮光カーテンが下ろされた部屋は、片付いているというより、ただ殺風景で生活必需品以外にものが無い部屋だがただ一つ、部屋のほぼ中央に、一脚だけだと不思議なほど不自然に感じる、木製の食卓椅子が鎮座していた。椅子には、当然のことながら『落花』が座っていた。
「ただいま。遅く…はないよね。うん」
『落花』に話しかけると、紗綾は一旦部屋から出て、洗面所からタオルを取り出し、濡れた踝を拭き、玄関に戻って鞄と紙袋を取り上げて、部屋に戻った。
「嫌だよね。今日も雨だよ。梅雨だから仕方ないけど」
『落花』に話し掛けつつ、紗綾は壁の湿度計に目をやった。少し湿度が高い。紗綾は空調を除湿に掛けた。ベランダにある室外機の振動が無作法に部屋の中にまで響いて来た。紗綾は床に座り込み、身体より余程濡れている鞄の水気を拭き取った。それが終わると、紗綾は紙袋を覆うビニールを開いて、袋の中身を開け、包装紙を剥いだ。百貨店で購入した男性用某有名ブランドの箱が現れた。部屋の隅には、有名無名問わず、似たような箱が、潰され、山積みにされて置かれ、その横のゴミ袋には包装紙の残骸や値札が詰め込まれている。
「これ、どうかな」
紗綾は椅子に座る『落花』を見上げた。『落花』は、今、ベージュの地に草模様の刺繍が襟元に入っているシャツに焦茶色のズボンという格好だった。紗綾は紙袋から新しい、夏用の真白のシルクシャツを取り出して、『落花』に押し当てた。
「やっぱり、ごてごてしていない方が似合う」
紗綾は次々に箱を開けた。幾枚かの、夏用で、造りが違っていたり色の違うシャツ、風通しが良さげなズボンが取り出され、紗綾と『落花』の周りを埋めた。紗綾は全てをひとしきり『落花』に合わせてみて、深く頷く。
「分かった、明日はこれにしよう」
己を取り囲む衣服の内、一度洗濯をしてからの方が良いと思われるものを判別し、そうでないものを紗綾は備え付けの衣装入れに掛けようと扉を開け、ここ一月の間に増えた男性用衣装のせいで、既に入る間が無いという事態に気が付いた。紗綾はその状況に一瞬手を止めたが、すぐに自分のスーツや上着を取り出して床に置き、代わりに購入したばかりの衣装を入れた。
「ごめんね。少し待っていてね」
床に置いたスーツをどう処理しようかと考えたところで、まだ己が帰宅した着の身着のままの姿である事に気付いた紗綾は、『落花』に一声掛けると、部屋を出、洗面所に向かった。通勤用のスーツを脱いで、ハンガーに掛けると、手早く部屋着に着替え、さっと化粧を落す。身軽になってみると、今度は空腹に気が付いた。出るときに開け放して来た、部屋と廊下の間の扉を閉める。紗綾の部屋は1LDKなので台所は廊下に設置されている。扉を閉めずに台所を使うと、料理の匂いが部屋にまで流れ込んでしまうのだ。昨夜、時間を設定した炊飯器はきちんと仕事をしていて、炊けた白米が程よい温度で待っていた。紗綾は茶碗に一杯よそうと、炊飯器の保温機能を切って、残りを楕円形の皿にあけた。茶碗のご飯には、冷蔵庫から卵を取り出して割り、醤油を加える。冷蔵庫から切って既に皿に盛ってあった生野菜と、漬け物、出来合いの惣菜を取り出して、卵掛けご飯と共に、台所で立ったまま搔き込んだ。準備から栄養摂取を終えるまで、正味十分ほどである。食事が済むと、楕円の皿の白米が、触れるくらい冷めたのを確認し、残りの惣菜や漬け物を少量詰めて握り飯を作り、サランラップに包んで冷蔵庫に入れた。食事に使用した茶碗と箸、皿を洗って食器入れに戻し、手を洗って一息吐く。
紗綾は、部屋に戻り、床のスーツを畳んで、不要になった空箱に入れて取り敢えず衣装入れの前に置き、値札や包装紙を片付けつつ、落花に話し掛けた。
「そういえば今日、灰谷さんがね、珍しく化粧品の事を話して来たんだよ。いつも仕事の話ししかしない人なのにね」
灰谷は、その日の昼食後に化粧室の隣の鏡で、化粧室の呼び名通り化粧を直している紗綾を見、その手元に目をやった。
「珍しい」
「え?」
アイシャドウを塗り直していた紗綾はその手を止めた。
「新色でしょ、それ。最近、コンビニの新作のお菓子を買ってないと思ったけど、お菓子は止めて化粧品にしたわけ?」
灰谷は顎で、台に置かれた光沢のある黒と白の地に金の文字で商品名が書かれたアイシャドウを示した。
「ええ、そうです」
紗綾はにっこり微笑んで応じた。灰谷は少し毒気を抜かれたような表情を見せたが、すぐに真顔に戻るとじっと紗綾を見つめた。実を言うとコンビニの菓子は単に、『落花』で貯金を使い果たしたために節約のつもりで止めた。だがアイシャドウを、アイシャドウだけでなく他にも幾つかの紗綾がこれまで購買していた価格帯よりかなり上の化粧品を、薬屋の店頭ポスターで見掛け、『落花』が好きそうな色合いだと思ったら、つい買ってしまったので、菓子の節約分は全く意味が無くなってしまった。言うまでも無く、化粧品の方が相当高価である。
「彼氏?」
「はい?」
「彼氏、出来たでしょ」
じっと紗綾を見つめていた灰谷が、からかうような、妬んでいるような、少し低めの声で決めつけて来た。
「ち、違います!」
「否定しなくってもいいの。男じゃなきゃなんだっていうの」
焦って否定した紗綾に、今度は完全に呆れた声を灰谷は出した。灰谷の目から見ると、ここ一ヶ月で紗綾はかなり変貌しており、いるのだかいないのだか分からないような存在から、会社の廊下を歩いていると少しばかり目を引く存在になっていた。そして灰谷の長年の経験からすると、誰かが突然変異を遂げる理由は大半が異性がらみである。
「いえ、本当に。その…一方的なので」
『落花』が好きそうな色だから、という理由で使用しているわけだが、本当に『落花』が好きなのかは紗綾には分からない。何せ相手は人形である。一方通行な感情以外の何ものでもない。
「あらら。そうなの、そうなの」
灰谷は紗綾の反応を見て、面白そうに笑った。
灰谷にからかわれた翌日、前日に用意した握り飯だけの弁当持参で紗綾が出社した後、しばらくすると国立が出社して来た。紗綾はいつもと変わらない挨拶を交わしたが、国立は顔全体に薄笑いを浮かべて、自分の机より先に紗綾の席に寄って来た。
「見たよ、昨日。ーーー、すっごい沢山、買ってたね」
紗綾はしばらく国立が口にした単語の意味が分からず、その薄笑いをただ眺めていたが、国立が幾らか言葉を継いだところで、やっと昨夜、百貨店で『落花』の服を買っていたところを見られていたと気付いた。国立が発音した某ブランドの名前が、紗綾が思っていた読み方と違っていたので、何の事か理解出来なかったのだ。
「じゃあ、今日のお昼は、樋口さんの、お・ご・り!」
「は?」
紗綾が、国立の発音と紗綾の読みと、どちらが正しいブランド名なのかと、脳内で考えている間に、国立からその提案があった。その結論にたどり続くまでの過程の説明の一切を紗綾は聞き流していたので、どうして紗綾が昼食をおごらなければならないという話しになったのか全くの理解不能であったが、例え最初から最後まで説明を聞いていたとしても納得出来たとは思えなかった。
「あんなに沢山買い物出来るって、何かあったんでしょ。最近、化粧品とかも新しくなってるし、臨時しゅうぬう、あったんでしょ」
収入、と言ったのだろうが、紗綾にはそう聞こえた。国立は変わらない薄笑いに、くねくねした動きを加えていた。国立は紗綾の化粧品が変わっている事に気付いていたが、紗綾も国立が制汗剤を替えた事に気が付いた。紗綾は無言で鞄から弁当包みを取り出して目の前に翳して見せた。国立は動きをぴたりと止めた。
「ええっ、そんな、駄目だよ、それだけなんて」
「ダイエット」
紗綾は大抵の同世代の同性であれば黙らせる事の出来る魔法の言葉を唱えた。
「ええっ、樋口さん、太ってなんか、いないって」
「ダイエット」
二度目の魔法の言葉は紗綾のものではなかった。いつの間にか国立の背後に油野が忍び寄っていた。本人は普通に出勤して、移動して来たただけかもしれないが、背後に立たれて囁かれ、文字通り跳び上がってしまった国立には隠密行動にしか思えなかった。
「ダイエット中、です」
「は、はあ」
「わたしも、ダイエット中、です」
「…」
国立は油野の声が漏れ聞こえてくる口元から、視線を下げ、油野の全身を眺め下ろした。油野が、ダイエットが必要な身体か確認している訳ではなく、ただどう反応して良いか分からなくなっての行動だった。
「…なので、わたしは、お付き合い出来ません」
「あ!そうなんだ。残念。じゃ、また」
そそくさと国立は逃げ出した。紗綾は国立を追い払ってくれた事には感謝したものの、油野がその場に留まる事には警戒した。が、油野は国立の後を追い、足音を立てずに移動して、国立の席の隣に立った。結局、油野は灰谷とその他の社員数人がまとめて出社してくるまで、国立の傍らに佇み、国立は泣き出しそうな表情を作って何度か紗綾を見たが、紗綾は気付かない振りをした。
油野が、昼食誘われたかったのだろうと紗綾が思い至ったのは、昼休みを告げる放送が流れた途端、午前の仕事中は絡む事の無かった油野が再び、国立に近づいて行ったからである。口元が動いて何か言っているが、休憩となりざわめきの増した室内で紗綾の席までは聞こえて来ない。国立は助けを求める目で周囲を見回したが、皆、見事に如才なく立ち回っていた。紗綾は鞄から弁当包みを取り出して、ウォーターサーバーのお湯を、これも持参して来た茶漉しの機能が付いている水筒に注ぎ、玄米茶を淹れた。水筒を机に置き、席についてスマートフォンを取り出したのとほぼ同時、ふっと影が射した。紗綾は反射的にスマートフォンを伏せて膝に置くと、振り返った。課長が斜め後ろから、紗綾の机の上の弁当包みと水筒を覗き込んでいた。
「それだけ?」
「はい、そうです」
課長は、尖った顎で、昆布に鮭フレーク、漬け物入りの握り飯を順々に指しながら、首を、傾げるとも頷くとも取れる曖昧な動かし方をした。
「かわいくないねえ。なんか、こう、うん、質素だ」
課長の『かわいい』の基準を紗綾は知らなかったし、知りたいとも思っていなかったので、特に何も口にしなかった。課長は尚も何か言いたげで、その場に留まっていたが、紗綾の机の向こう側から作田が声を掛けて来たので、そちらに注意が向けた。
「課長はお昼はどうされるんですか」
作田の問い掛けに課長は、深く深く溜め息を吐いた。
「今日は残念ながら、部長とだ。隣の佐藤課長ともな…」
仲が良くない隣の課の課長の名前が挙げられた。両者の仲が悪い理由は良く分からないが、課長がぐずぐずしている理由は察する事が出来た。課長は、ようやく現実を見たようで、のろのろと上着と折り畳み傘を片手に出て行った。
「ありがとうございます」
一応課長を追い立ててもらったと思ったので、紗綾は作田に礼を言った。作田は、普通であれば魅力的に見えるであろう笑みを浮かべた。
「樋口さんは?お昼は?」
「これで」
紗綾が机の上を指し示すと、作田はわざとらしい溜め息を吐く仕草をした。
「少ないなあ。僕は、痩せ過ぎの女の子は嫌いなんだけど」
「好みは人それぞれですからね」
紗綾は仕事用の笑みで対応した。
「作田さあん、お昼行きましょうよお」
出入り口寄りの一角から、まだ油野に付き纏われている国立が、声を掛けて来た。作田が応じて、椅子の上着か何かに顔を向け、視線が国立から外れた瞬間、国立はきっ、と音がする勢いで紗綾を睨んだ。油野の接触を断つ手伝いをしてくれない事に対してか、昼食をおごらないつもりであることからか、或いは他の理由か、紗綾には分からず、それより早く食べ始めたかった。




