#03
土曜日になった。朝、画廊まで出向いた紗綾は黒塗りというより黒光りしている高級国産車を見て目を見開いてしまい、当初タクシーだと思ったそれが、宮園累香の工房から回された運転手付きの自家用車だと弥富に説明され、完全にたじろいだ。弥富は何度か乗っているのか、運転手とも顔見知りらしく、全く物怖じする事なく乗り込んだ。運転手は、プロの運動選手が引退後に再就職したとか、アクション俳優志望だったが断念した、などと言う経歴を説明されれば納得してしまいそうな、高身長で体格の良い、短髪に精悍な顔付きの三十歳前後と思しき男だった。運転手が口数が少ないので、車内ではもっぱら弥富と紗綾が会話をしていた。普段、公共交通機関の振動と喧噪の中で生活している紗綾は、高級国産車の車内とは、静かで揺れが少ないものだと初めて知った。
途中、混雑に巻き込まれたこともあり、二時間ほどの移動時間を経て、工房の敷地内に車が滑り込んだ。紗綾は、ほぼ貴重品だけと身軽だが、弥富は各種書類やラップトップパソコンの入った大きな革鞄の持ち手が肩に食い込み、折角の品の良いスーツに皺を作りつつ、車から降りた。人形師の自宅兼工房だという建物は、畑や水田に囲まれた林の中にあり、どちらかというと古めかしい邸宅といった趣の、石垣を積んだ土台の上に漆喰製と思しき白壁が立ち、濃い色をした瓦の乗った入り組んだ造りの屋根を持つ、平屋建ての建物だった。周囲の林を構成する樹々の方が屋根より余程高いので、鬱蒼と生い茂る樹々に埋もれてしまっている様で、建物内や、建物周辺から林の外へは、殆ど視界が開けていなかった。更に林に希少種の鳥が巣を掛けたことがあり、その保護の名目で、林の周辺の電線が地中に埋設されたそうで、余計な電線も見えない。林ごと切り取られて時代に取り残されたような錯覚を受ける風景だった。
紗綾一人だけであれば、どれだけ臆したか分からない。だが、何度か訪れているという弥富は気軽に、運転手が押した呼び鈴に応えて玄関の引き戸を開けてくれた老女に付いて内部に足を踏み入れた。案内の老女は、歳はいっているものの小作りの美しい面立ちで、色が白く、髪は白髪、白藍の袷に銀鼠の帯を締めている、という姿なので、遠目に見れば白っぽい人影にしか見えないだろうと思われた。ただ、白を主体としたような姿の中で、帯締めだけは朱に金糸の混じった鮮やかな色合いをしていて、和金が一尾、帯にまとわりついているように感じた。
廊下を進んでいた老女が不意に足を止め、後についていた弥富も足を止めた。更にその後方にいて、無作法は承知で廊下に飾られている絵画や陶器を目で追っていた紗綾は、急な一時停止に弥富と衝突しそうになり、寸前で停止した。弥富は紗綾より背が高いので、ほぼ密着していると、それより前は一切見えない。一歩斜め後方に下がって、老女に目を移した紗綾は、白髪の後頭部だけしか見えないにも関わらず、老女が不満、不服といった感情を抱いた事が理解出来た。
「お部屋でお待ち下さいと申し上げましたのに」
「私も『落花』に、別離の挨拶をしたいんですよ」
老女の更に先から、紗綾が二度、会話を交わしたことのある声が聞こえて来た。老女が身体を壁際にずらしたので、逆の壁に半身を寄りかからせて待っていた少年の姿が紗綾からも見えた。老女の横顔は、少年がここにいることに対しての不満と、それより大きな憂慮が浮かんでいた。その理由は、紗綾にも、というより誰の目にも明らかだった。壁に背を預けた少年の顔は、右の額から目の辺りが厚く包帯で覆われており、眼帯の紐が顔を横断して左耳にまで伸びていた。左手は杖…それも医療機関から貸し出されているような、アルミ合金製のロフストランド杖…をついていて、左の足首にも包帯が巻かれている。紗綾が目を丸くしている間に、弥富が上ずった声で尋ねた。
「ど、どうしたんです、それ!」
「自転車で転びました。抜けてますよね」左片方だけの目と唇で、少年は気恥ずかしげな笑みを作った。「大した事はありませんよ。『落花』のところへご案内します」
弥富は続けて何か言いたそうだったが、少年は怪我人にしては思いのほか俊敏に、くるりと向きを返ると、左足を引きずり、杖に取り付けられたゴムが床板を打つ鈍い音と共に、廊下を進み出した。
少年に案内された、建物内のかなり奥に位置する小部屋に『落花』がいた。座らされている椅子の関係か、画廊で見たときには俯き加減だったが、今は背凭れで後頭部を支えているような、少し顔が上向いた体勢である。そのため、引き戸が開けられたとき、一番始めに目が付いたのが真白の喉で、その艶かしさに、紗綾は身震いが起こるのを禁じ得なかった。
「『落花』。こちらで宜しいですね。では、その横に置いてある木箱に緩衝剤と一緒に入れて、更に段ボールで箱自体を梱包して、お送りします」
少年に示された木箱はベッドの半分くらいの大きさだった。成人男性と等身大なので、肘と膝を曲げてれば、このくらいに収納されていしまうものなのだろう。緩衝剤として示されたのが、細かい発泡スチロールの粒を枕の様に布袋に入れたものと、手の平ほどの大きさのビニール袋を気体で膨らませたものという、ごく一般的なそれであり、何度も使用されているらしい古びた木箱はとにかく、壊れ物、という赤字の注意書きが張られている段ボールと共に、見目麗しい人形とは、或いはこの邸宅と呼ぶべき建物とも、不釣り合いだったが、人形に見蕩れてしまっている紗綾には、些事であった。
「では、こちらへ」
紗綾が、茫と『落花』を見つめつつも頷いたのを同意と見て、少年は不自由そうに引き戸を閉じた。突然夢が断ち切られた様に、紗綾ははっとして、閉じた戸に向けて目を瞬かせた。来た時は少年だったが、今度は老女が先導して、一行は今来た廊下を戻り始めていた。紗綾は戸の向うに後ろ髪を引かれるような思いがあったが、すぐにまた会えるのだと思い直して、歩みを再開した。
幾つか目の角で、少年と老女が別れた。紗綾たちは、少年に案内され、殆ど玄関まで戻り、玄関脇の一室に案内された。その部屋は天井が高く、渡した梁が剥き出しになっていて、紗綾の腰辺りからかなり高い位置にまで硝子をはめ込んだ、縦に長い窓が複数有り、その窓と窓の間の柱を角とした、多角形の形をしていた。一階だが、窓の外の地面は少し低くなっているらしく、硝子のすぐ傍にまで青々と繁る葉の付いた木の枝が迫っていた。壁は漆喰で白く塗られており、下側はその表面を黒い木材で覆われている。部屋のほぼ中央の位置の梁から、笠にささやかな模様のある照明が吊り下がっていて、そのほぼ真下に厚い天板を持った卓と四脚の椅子が置かれていた。卓には、この部屋の中でそれだけ場違いに、百円均一の店で売っていそうな、A4サイズのクリアケースが置いてあった。
「どうぞ」
板張りの廊下と違い、部屋の中は毛足は長くないが絨毯引きなので、少年の杖が立てる音も聞こえなくなった。少年は紗綾と弥富に席を勧めると自分も腰を下ろしたが、そのとき、ほっとした表情が浮かんだのを、紗綾は見逃さなかった。何も無い風を装ってはいたが、やはり左足が不自由な状態で立ち歩くことは辛かったのだろう。全員が席に着くとほぼ同時に戸がノックされ、姿を消していた老女が、木製のルームサービス型のワゴンを押して入室して来た。紅茶と茶菓子が並べられる。老女は一礼すると、ワゴンを押して退室していったが、紗綾は出て行く老女の後ろ姿を何とはなしに眺めていて、戸をくぐるときに車輪が音を立てなかった事に気付いた。戸の下の床に下枠がなく、平らになっていた。廊下は板張りで、部屋は絨毯引きなので、僅かに段差はあるのだろうが、それだけである。
紗綾が部屋の様子を観察しているうちに、弥富は紅茶茶碗に口をつけていた。紗綾も慌てて弥富に倣って、一口だけ紅茶に口をつけた。良い香りが、『落花』との邂逅で少し昂っていた紗綾の気持ちを落ち着かせた。紗綾が茶碗を皿に戻すのとほぼ同時に、老女によって閉じられたばかりの部屋の戸がノックされた。少年が応じると、戸が引き開けられ、左袖に名前と思しき縫い取りのある、松葉色の作務衣を着た特徴の無い顔の男が姿を見せた。紗綾は宮園累香の関係者で、初めて普通の顔の持ち主に会った気がした。
「すんまへん。先生、のってきてしもうて、声が掛けられへんのです」
男が口を開き、少年は溜め息を吐いた。
「分かりました。樋口さん、弥富さん、済みません。あれだけの品なので累香が同席する筈だったんですが」
「私は構いません!」
心底申し訳無さそうな表情の男と少年を交互に見やりながら、紗綾は少し大き目の声を上げた。横目で確認すると、弥富も頷いて同意を示している。少年は恐縮したまま、男に向かって頷き、男は紗綾と弥富に向けて頭を下げると引き戸を閉じた。足音が遠ざかり、男は建物のどこか、工房の部分にいる累香の元に戻って行った。
弥富が、紅茶茶碗を横にずらし、空いた箇所に鞄から幾枚かの書類を取り出して置いた。その売買契約関係の書類は、既に数日前に画廊にて、紗綾が署名捺印済みである。累香側は画廊に販売を委託しているので、画廊で手続きをした時点で紗綾がしなければいけない事務処理は完了していて、一応、持参して来ていた印鑑も使う事は無かった。少年は、机の上の書類を手に取ったが、読んでいるのかいないのか、一瞥すると、すぐにクリアケースの中に仕舞い込んだ。
「では、人形の扱いに関して、注意事項をご説明します」
少年は、今更ではあったが、自己紹介の後にそう続けた。因みに少年は普段は呼び難いので祥で通しているが、本名は祥雨という雅号と見紛うばかりのものだった。その祥雨は、クリアケースから更にクリアファイルを取り出し、紗綾の前に置いた。中に挟まれている紙の一枚目に、紺地に白抜きで、取扱説明書、の文字がある。電化製品かと言いたくなるような表現だが、業者の手に掛かったものではなく、パソコンで作成、印刷したもののようだった。紗綾は一つずつ説明を受けて行ったが、内容は特に首を傾げるようなものは無かった。曰く、色褪せするので直射日光には当てないこと。曰く、水気は厳禁。基本の手入れは柔らかい布で拭く。酷い汚れが付いた際には固く絞った水拭きで拭いてから乾拭きをする。瞳など、特殊な部分は専用の洗浄剤で手入れすること。曰く、他の姿勢も取る事は出来るが、基本的に椅子に座った状態で固定させておく事が望ましい。姿勢を変える際、服を着せ替える際には、関節や顔が特に傷み易いので要注意。曰く、髪は人毛を使用している関係上、湿度が高いと伸びた様に見えるが、心配いらない。
「実際、多いんですよ。髪が伸びた、って怖がって連絡を下さる方が」
髪についての注意に、思わず唇を綻ばせた紗綾に、祥雨も顔は微笑みつつ、口調は真剣に付け加えた。
「それに、人毛なので、匂いが移り易いんですが、その際に、消臭剤を掛けたり、整髪料を付けたりしないで下さいね。こちらも専用の洗浄剤をお付けしますので、それを水で薄めて良く絞って拭いて下さい」
これも過去に消臭剤を掛けた客がいたらしい。正確には、価値を知らない購入者の家人だったが、購入者に激怒され、値段を聞いて逃げてしまった、という顛末を面白可笑しく祥雨が話したので、紗綾は声を立てて笑ってしまった。そのような笑い話の後、祥雨は不意に真面目な顔付きになった。
「それから出来れば、余り他の方に見せびらかす事はしない方が宜しいかと思われます。トラブルの元になることが、これも多いので。勿論、購入されたお客様がどうされようとご自由なのですが」
真っ直ぐに紗綾を見据えて、言い切った。『落花』を、誰にも、家族にも、見せるつもりも話すつもりすら無かった紗綾からすると、見せびらかしたがる心情が理解出来ない、そう口にはしなかったが、顔に出ていたらしく、紗綾の様子を伺っていた祥雨の顔に満足そうな表情が浮かんだ。
注意事項の説明が終わると、横にどけられていた紅茶と菓子が再び中央に陣取った。主に弥富が、今回と前回の人形展や人形の事について話し、祥雨が間の手を入れ、紗綾は聞いている、という構図がしばらく続き、菓子が無くなりかけた頃、再び戸がノックされた。老女が戸を開け、『落花』を運び出す準備が整った事を告げた。
「では、『落花』をお願い致します」
怪我もあり、同行しない祥雨が微笑んで頭を下げた。




