#02
心ここにあらずのまま、一番人気と親切に広告が打ってあった結婚祝いの品を購入した翌日、通勤電車の時刻表の関係で、課内でほぼ毎朝一番の出社となる紗綾が最初に会ったのは、課内一のイケメンと言われている男の同僚、作田だった。もっとも、紗綾が所属している課の男性社員は課長とこの同僚だけで、もう五十代も半ばで、骸骨に皮を張って弛ませただけのような容姿の課長と比べれば、作田と同年代の三十を幾つか過ぎた頃の男性であれば、誰でも勝るだろう。とはいえ作田はそれなりに見られる顔立ちだと、紗綾は、昨日までは、思っていた。今朝、普段通りに朝の挨拶を交わした際に、紗綾は、作田の耳の下から顎の骨の下までに点在する、髭の剃り残しと赤く浮き出た吹き出物跡が妙に目が付き、同時に手指に、昨夜の青年人形の滑らかな手触りを思い出し、作田が酷く、細工の悪い存在に見えた。
「ああ、もう、うぜえ」
突如作田が叫んだ。紗綾が、既に内心の思考はとにかく、いつも通りに自席に着いて、パソコンが立ち上がるまでの僅かな間に、腕時計の示す時刻が会社の時計と数分ずれていることに気付いて、スマートフォンを確認しようと、足元の鞄に手を掛けたときだった。驚いて顔を上げた紗綾は、まず出入り口を見やり、部屋を見回したが、己と作田以外に誰もいないことを見定め、最後に作田の席の方に目を向けた。こちらを見ていた作田とまともに目が合った。
「ああ、ごめんごめん樋口さん。驚かせて。実は昨日、彼女を振ったんだけど、その彼女がさあ、連絡くれってうざくてさあ」
にやにや、という形容がしっくり来る笑みを浮かべながら、作田はスマートフォンを振りかざした大袈裟な身振りで言った。作田の他には紗綾しかいない、空調とパソコンの起動音以外に音の無い課内に、声が反響した。
「そうですか」
紗綾は静かに一言返すと、再び顔を鞄に戻した。
「ったく。やっぱり、僕じゃないと、駄目だって。そんなこと言ってくるくらいなら、もっと頑張らなきゃ駄目だろうに、ねえ、そう思わない?」
作田は一方的に喋り続けていた。紗綾は上半身を鞄の方に傾けているので、その姿は作田からは机の陰に隠れて見えず、紗綾の反応が分からない筈だが、喋り続けていた。紗綾は聞く気は毛頭無かったが、作田の自信に満ちた喋り方と良く通る声のせいで、内容が嫌でも耳に入って来た。昨日振った彼女と、別の彼女を比較して、ここが駄目、あそこが無神経などと言っているのだが、どちらも紗綾は知らない相手であったし、作田は主語を省いて更に過去形と現在形が混在した喋りをするので、どちらがどうなのか混乱させられる上、別の彼女と言うのが、現在進行形で付き合っている二股の相手なのか、歴代の彼女の誰かなのか、或いは作田の妄想上の代物なのか、全く不明だった。元々、紗綾の作田の評価は、顔がましではあるが性格も仕事ぶりも碌でもない、だったので、その顔すら、昨夜の美しい青年人形を前に色褪せしきってしまった今、そのくだらないお喋りにより一層辟易させられた。顔を上げるのも嫌になり、紗綾は上半身を屈めたまま、スマートフォンの時刻を見、腕時計の針を少し調整していた。
その体勢は、作田が突然話しを打ち切り、朝の挨拶に切り替えるまで続いた。紗綾が顔を上げると、女性社員が一人、出社して来たところだった。紗綾からの挨拶が終わらないうちに、作田はその社員に話しかけた。
「聞いてよ、国立さん、実は…」
先程の話しを作田は再生し始めた。紗綾は内心、溜め息を吐いた。作田は、元は営業部にいたのだが、女性関係で揉め事を起こして内勤に回されたという経歴がある。にも関わらず、また女性関係の話題を周囲に吹聴する神経が紗綾には理解不能だった。
「駄目駄目。許したら、駄目ですよ。そんな彼女とはきっぱり分かれるべきです。作田さんなら、もっといい女性と付き合えますよ」
一方、国立という紗綾と同期で同じ契約社員の女性の同僚は、紗綾の薄い反応と対照的に、作田の彼女の話題、という名の悪口でしばらく盛り上がった。ただ、二人のお喋りは長くは続かなかった。
「朝から元気が良いわねえ」
課長に続く課で一番勤続年数が長い、課長補佐の四十代半ばの女性、灰谷が入室して来ていた。グレイという渾名のある灰谷の、三十キロ代の体重がご自慢の細い身体のどこから出て来るのかと思う、ハスキーな大声と一睨みに、作田と国立は口を閉じ、国立は、そそくさと作田の傍を離れて自席に着いた。
全員がいつも通りに出社し、課はいつも通りに動き始め、すぐに昼近くになった。灰谷が自席で、何やら声を荒げているのが聞こえ、紗綾は液晶の画面から少しだけ視線を動かして、少し離れた位置にいる灰谷を見やった。紗綾だけでなく、課内のほぼ全員が同じ様に視線を送っていた先、椅子に座った灰谷の横に、油野という名の同僚が立っていて、灰谷は油野に対してきつい口調で何か言っていたが、不意に黙り込むと居住まいを正して机に向き直った。油野はしばらくそのまま静止していたが、灰谷がそれ以上何らかの反応を起こさないことが分かったのか、こちらも脈絡無く動き出したかと思うと、歩いているというより空に浮いている様な移動をし、紗綾の隣で立ち止まった。突然隣に立たれ、紗綾はまじまじと油野を見つめてしまった。
「…です」
「え?」
油野の口元が動いているのが分かったが、何を言ったのか聞き取れず、紗綾は聞き返した。直前に灰谷が声を上げた影響か、課内は普段より静かであったので、紗綾は自身の声が大き過ぎた様に感じた。油野は口の動きを止めると、ふう、と息を吐いた。その仕草にわざとらしさを感じ取って、紗綾は眉を微かにひそめた。一拍置いて、油野の口が再度動き出した。
「ひどいです」
「はい?」
「クリーナーがありません」
油野の声量は先とそう変わらないものの、神経を集中させたことで言っている内容は判明し、油野の言うクリーナーが何のクリーナーであるか、数秒かかってようやく紗綾は、パソコンの液晶画面を拭くウエットテッシュ型の液晶クリーナーに思い至った。会社の備品のそれは、紗綾が今朝、最後の一枚を使い切ってしまっていた。
「もう頼みました。昼休みの後に、届けてくれるそうです」
「知っています」
油野は即答すると、唇を一文字に閉じ、じっと紗綾を見据えた。紗綾は机に向き直ると、仕事の続きを始めた。油野は先程、恐らく灰谷に同じ内容のことを訴えて、邪魔だと遠ざけられたのだろう。液晶画面に越しに再度目をやった紗綾は、灰谷と目が合った。灰谷は、口元だけ、白雪姫の継母を連想させるような邪悪な笑みを浮かべた。紗綾が最後の一枚を使うところ見ていたのか、クリーナーの補充を頼んだ内線電話を聞かれたのか、灰谷が故意に油野の矛先を紗綾に向けさせて追い払ったのだと分かった。
「わたしは、今、使いたいんです」
油野は尚もつぶやいていた。姿勢が少し前屈みになり、紗綾に迫って来ている。油野が、時々こういう状態になるのは課内では周知の事実であり、皆、相手にしないという対処法を取っていた。灰谷はそこに、次の標的を示すという一手を付け加えていたが。
「どうして使ってしまったのですか」
紗綾は少し強めにキーボードを打って、油野の声を掻き消した。
「わたしが使おうとしてることを知っていましたよね。それでわざと使ったんですよね。嫌がらせです。でも許してあげようと思っています。許してあげます。でも、わたしは、今、使いたいんです」
「樋口さん」
最終的に、油野の口から漏れる言葉の羅列を遮ったのは、課長の声だった。油野は、呼ばれた紗綾より先に反応し、ぴっ、と背筋を伸ばして直立不動になると、今度は機械のようなぎくしゃくした動きで自席に戻っていった。紗綾は席を立ち、課長の前に移動した。
「はい。御用でしょうか」
猫背の課長は、顔は下を向いたまま、眼窩の奥の黄色く濁った眼球だけを、ほんの一瞬だけ上向け紗綾を見上げるとすぐ、重力に逆らえなかった様に、下に戻した。
「ああいうの、困るんだよ」
「は?」
課長の声は、油野に負けず劣らず小さく、どちらかというと机と机の上の、キャップが外されままでペン先が剥き出しになっているボールペンに向かって話している風情だった。
「さっきまでの間、油野さん、あなたに話しかけていて、仕事をしていないでしょう」
油野が勝手に絡んで来たことをどうこうすることは出来ない。紗綾は口には出さず、そう思っただけだったのだが、大方のことには鈍いのに、こういう時にだけ鋭い鼻を利かせる課長は、またもじろりと濁った眼球で紗綾を見上げた。
「どうして上手くかわせないわけ?」
課長が油野本人に注意をしないのは、そうすれば油野は今度は課長の横に立って、ぐちぐち言い始めると分かっているからである。紗綾はただひたすら真面目な表情を崩さなかった。
「仕事の効率が悪くなるとね、上に何のかんの言われるのは僕なんだよ。君みたいな、下の者、じゃあなくてね」
確かに紗綾は課長より上の者から何か言われることは無いが、代わりに課長から小言というか憂さ晴らしを食らうことになるのだから、結局同じ事である。課長の透き歯の間から繰り出される言葉が油野の件から離れ、課全体の社員がいかに無能で自分が苦労しているかという内容になり、紗綾が背中越しに論われた同僚たちの不快さをひしひしと感じ取って来た辺りで、幸い、昼休みを告げる放送が流れた。ボールペンと会話していた課長は、はっと身を起こすと、もういい、とか何とか、入れ歯が上手く嵌っていない口から出るような声で言うと、上着を取り上げて立ち上がった。振り返った紗綾は、無能の一員呼ばわりされた灰谷が、高温の油を流し入れたような目で、課長の動きを追っているのが見えた。
「災難だった、ね!」
紗綾がのろのろと自席から鞄を取り上げたとき、声を掛けて来たのは国立だった。本人が自分の顔の表情をどう思っていたのかは分からないが、紗綾には満面の笑みに見えた。
「お昼一緒にしよう!気分転換になるよ。作田さんも一緒だよ」
紗綾は無言で首を振った。社員食堂があるような会社ではないので、外に食べに出る、ということなのだが、以前、国立と他数人と食事をした際に、各々の注文したものは違うにも関わらず、合計金額を人数分割って支払わされたという経験があった。言うまでも無く、国立の注文したものが一番高額で、それ以来、その時に同席した面々は、一度も国立と食事に行っていない。
「ええっ、どうして?作田さんと食事出来るんだよ!」
国立は両手で紗綾の腕を掴んだ。紗綾の鼻が国立から漂う強い制汗剤の臭いを捉えた。
「…銀行に行かないといけないの」
そんな予定は無かったが、取り敢えず紗綾はそう言った。完全に言い訳だったのだが、言った瞬間、紗綾の脳裏に自分の預金通帳の、数日前に確認した残高が鮮明に写し出された。国立が、何か言いつつ離れて行くのが分かったが、紗綾は既に別の考えに囚われて、立ち尽くしていた。分割払いも出来ると件の少年は言っていた。紗綾の今銀行にある預金の額を頭金にして、残りを毎月支払うのであれば、数字上は払えない価格ではない。予定外だったが、紗綾は鞄を抱えて銀行に走った。キャッシュカードで残高を確認すると、紗綾は拳を握りしめた。
例え紗綾以外の皆が皆、馬鹿なことだと口を揃えようと、自分にはあの青年人形が、『落花』が必要だとの悟りが、紗綾の中に生まれていた。
流石と言うべきか、画廊の女性担当者は、紗綾の顔をしっかりと覚えていた。
「昨日、お越し下さった方ですよね」
「はい。それで…」
硝子扉を押し開け様、飛び込んで来た紗綾に向けて、昨日とは違う色のスーツ姿の担当者は立ち上がり、柔和な笑みを浮かべて言った。紗綾は、駅から早足で来たため上がった息で応えつつ、薄青紫の帷幕の方を指し示しかけ、ぴたりと動きを止めた。帷幕はそのままだが、昨夜は掲げられていた主題が無い。す、と紗綾の顔から血の気が失せ、汗が一気に引いた。
「…『落花』、購入されてしまったんですか?」
「いえ、いえ、違います」震える声で尋ねた紗綾に、少々慌てた様子で女性担当者は首を横に振った。「あの『落花』はですね、展示に条件がありまして、累香先生のところのスタッフを最低一人、説明係としてつける、というお話だったのです」
昨日の昼までは宮園累香の秘書というか雑事全般を担当してる立場の人員が、説明係として当たっていた。ところが、昼休みに気分が悪いと言って病院に行き、その場で倒れて即入院と相成ってしまった。診断は盲腸。近日中の復帰は無理だった。
「それで、夕方からは急遽、祥くん、あの、昨日のお客様とお話ししていた彼で、累香先生の曾孫さんなのですが、彼が寄越されたんです」
昨日はそれで乗切ったが、祥と呼ばれた少年は日中は学校があり、そもそも就業可能な年齢に達していないので、そうそう駆り出す訳にも行かない。累香本人は高齢の上、人形製作以外の諸事には関わりたがらない。少年以外の近しい親族も都合がつかない。何人かいるの累香の弟子たちは、近く出品予定の展覧会用の作品作りに余念が無い。画廊側と話し合いが行われ、『落花』の展示は中止、そして今朝、搬出されたとのことだった。
「では、販売自体はまだされているということですね」
「はい。売り手が付いたという話しは伺っておりません。宜しければ今、累香先生の工房にお問い合わせ致しますが」
「お願いします」
紗綾は即答した。女性は浮かべた微笑みを更に深いものにし、画廊の奥に続く扉を音も立てずに開いて紗綾を通し、別室に案内した。その部屋は、壁が木目が綺麗に表れた木材で覆われていて、絵画が掛けられ、女性担当者が使用しているものより更に細かい細工のある木彫りの机と椅子が設置されていた。壁際には、花の生けられた流麗な姿の花瓶が置かれ、陶器と硝子で出来たランプが灯され、いかにもといった雰囲気である。紗綾はふと、祥と呼ばれた少年が昨日、客がいる時以外、ここで待機している様子を想像した。紗綾を残して一旦部屋を出た担当者は、紅茶を運んで来て紗綾の前に置き、再度部屋を出て行った。紗綾は縁に金を施された紅茶茶碗に口をつけて、しばらく待った。
「お客様、どうぞ」
紗綾にはとてつもなく長い時だと感じられたが、実際には精々十数分の後、担当者は受話器を持って入室して来ると、紗綾に渡した。
『昨日の方ですね』
「はい」
受け取った紗綾が、耳を押し当てると、聞こえて来たのは意外にも、祥と呼ばれた少年の声だった。工房に問い合わせると言われたので、相手は人形師本人か弟子だと思い込んでいた紗綾は戸惑ったが、考えてみれば秘書の役割をしている人物が入院中で、昨夜紗綾の相手をしたのはこの少年なのだから、順当だとも思える。もっとも高価な品物を取引しようという相手が、年端も行かない少年で良いのかという気もしないではないが、少なくとも眼前の担当者は気にしていないようだった。
『良かった。貴女であれば安心して『落花』をお任せ出来ます。購入、というか金銭上の遣り取りに関しては、今、電話を頂いた弥富さんに全てお任せしてありますので、そちらでお話しなさって下されば間違いありません。ただ、人形が大きい上に取扱いにもいささか注意が必要ですので、宜しければ、弥富さんと拙宅にいらっしゃいませんか。そこで注意事項を直接ご説明して、そのままご自宅まで『落花』をお届け致したいのです。いかがでしょう』
慮外の申し出に、紗綾はしばし躊躇い、思考を巡らせた。考えてみれば、普通自動車免許を持ってはいるが自家用車は無く、借りている部屋が二階で、アパートにエレベーターは無いという状況で、成人男性と同じだけの質量のある人形をどう運び入れるか、紗綾は全く考えていなかった。運送の手配までして貰えるのであれば、渡りに船である
「分かりました。いつお伺いすればよろしいでしょうか」
結局、紗綾は申し出を受ける事にした。少年の上げた幾つかの候補の日時から、都合の良いものを紗綾が応え、電話を変わった弥富が、二言三言、先方と言葉を交わし、今週末の午前中に、累香の工房兼自宅を訪問するという事で、簡単に話しが付いた。




