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深夜のお茶会

有名なケーキ店の箱とお煎餅が入った紙袋を手に、藤枝先生がうちのインターホンを押したのは、まるで見計らったように9時ピッタリだった。

そろそろ来る頃だろうと、普段はインスタントで済ましてしまうコーヒーをキチンとコーヒーミルで淹れている最中だった私は、いつになく緊張しながら玄関の扉へと向かった。

扉を開けると、思った通り彼女が立っていて、申し訳なさそうに「こんばんは」と笑った。


「いらっしゃい。どうぞ」


と、喫茶店のバイトみたいな挨拶をした私は、夕方のうちに少しだけ掃除しておいた部屋へと彼女を招きいれる。

どうせ今朝起きた時に見られてはいるはずなのだけれど、気分の問題だ。

狭い玄関で、私の横をすり抜ける時に先生からフワリと香ってくる柑橘系の香りに一瞬ドキリとさせられたが、気にしないでおこう。

でも、この香りは彼女に似合っていると思う。すごく。


「その辺に座っててください。コーヒーで良かったですか?」


「ええ、ありがとう。――うん、良い香りね」


フンワリと嬉しそうに口元を緩めて、先生は2つ出しておいた座椅子の1つに腰かけた。

この部屋で座れるものといえば、ベッドと座椅子くらいなものだろう。

それにしても、昨日は散々迷惑をかけられた酔っ払いなのに、こんなにもサービスしている自分が少し滑稽なような気がする。

相手が先生じゃなくて同級生だったら、フローリングに正座させて説教の1つでもしているかもしれない。


「あ、ねえ。高崎さん、甘いものは好き?お土産にケーキ買ってきたんだけど…」


「ありがとございます、ケーキ大好きです。じゃあ、コーヒーで丁度良かったですね。今、お皿とフォーク出しますんで」


「ありがとう、なんだか余計に気を使わせてごめんなさいね。あと、甘いものが苦手だったらいけないからお煎餅も持ってきたの。

もし良ければ、こっちも受け取ってもらえるかしら?」


「わー、なんだか色々スミマセン。後でこっちも開けて食べましょうか」


前言撤回。すごく良い人だ。

最上級のおもてなしをさせていただきます。



当然だが、いきなり昨晩の話を持ち出されたわけではなくて、私達は最初、他愛もない世間話をしていた。

「このコーヒー、美味しいわね」「ありがとうございます。ケーキも美味しいですよ」なんていう会話から始まり、気がつけば大学の授業の話や最近の噂話、学食メニューの茹ですぎのパスタなど、先生と生徒という間柄でも話のネタは尽きず。

いや、もしかしたら先生が聞き上手だっただけかもしれないが、とにかく彼女との会話は楽しくて、私はつい、相手が先生だという事を忘れそうになっていた。

だから、こういう事をうっかり言ってしまったりするのだ。


「でも、先生。いくらなんでも、昨日のは飲みすぎでしょう。もう別人かと思っちゃいましたよ~」なんて。

その発言が地雷だったと思い出したのは、目の前の先生の微笑が引きつったのを見てからだったけれど。


「あ、すみません。私、ちょっと調子乗りすぎ…」


「ううん、その話は私も聞きたかったから。

ねえ、聞いてもいい?私、昨日の晩はなんでここにいたのかしら?」


やっぱり、覚えちゃいないか。当たり前だよなぁ、あんな状態だったんだし。むしろ、覚えてたらあのキスについてトコトン問いただしてやるところだ。


「えっと、さっちゃんに行ったのは覚えていますか?」


「……さっちゃん?」


「駅前の居酒屋っていうか…おでん屋っていうか。紺色ののれんの小さい店です」


「ああ、あの店、さっちゃんっていうの。ええ、それは覚えてるわよ」


「先生、そこで酔い潰れてたんですよ。店員が起しても起きないし、時間も遅かったのでうちに連れて帰ってきたんですけど」


酔い潰れてたと言ったあたりから、だんだん居た堪れないような顔になっていく先生が可笑しかったけれど、事実なのだから仕方ない。

その酔い潰れていた様子を話せば、もっと面白いものが見れるのかもしれないけれど、さすがにそれはやめておいた。彼女にも”オトナのプライド”というやつがあるだろう。


「はー…、本当にごめんなさい。高崎さんには随分と迷惑かけちゃったわね」


「いえいえ、こうしてケーキご馳走になっただけで十分ですよ。

それに、あの店にいたうちの大学関係者は私だけですから、教師の面目丸つぶれって事もありませんし、安心してくださいね」


私がそう言って、あんなの何でもない事だと笑い飛ばしてみせると、彼女は不思議そうな顔で私の顔をまじまじと見つめてきた。

ん?私、何か変な事言ったか?


「あの店、高崎さん1人で?」


「ええ」


「晩の11時に?」


「そうですけど」


「何しに?」


「おでん食べてました。あと、日本酒を一杯」


どうやら、これが限界だったらしい。

何がおかしいのかわからず、訊かれるままに正直に答えると、彼女は綺麗な顔を奇妙に歪め、堪えきれずにブっと噴き出し、お腹を抱えて笑い出した。


「へ、変な子ねぇ~、高崎さんって。あんなお店一人で行く女の子がいるなんて!絶対、何人かで一緒に飲みに行ってたと思ってたのに。

アハハ、も、もうダメ。ツボに入った…!」


「えー、そんなに変ですかぁ?」


そりゃ、確かにあの店で、私と先生以外の女性客を見た事はないけど…そんなに笑うほどの事だろうか。っていうか、女一人で行ったのは先生も同じなのに。

私が納得がいかないという顔を浮かべていると、それがますます拍車をかけたらしく、彼女は右手で太もものあたりをバシバシと叩きながら、なおも笑い続ける。

さっきまであんなにも大人っぽく見えたのに、大爆笑するその姿は、やけに子供っぽく見えた。

そして、もしかしたら、それがきっかけだったのかもしれない。ただの生徒の1人でしかない私に、先生が気を許してくれたのは。


「はー、もう…こんなに笑ったの久しぶり。おっかしい子ねぇ、高崎さんって」


……これは、褒め言葉として受け取ってもいいのだろうか?せめて、『面白い子』くらいにしておいてほしい。


「ねえ、もう1つだけ、訊いてもいい?」


「なんですか?」


「昨日の晩、私、何か変な事言ったり…したりしなかった?」


「……!」


さっきの、考えなしの発言どころの騒ぎじゃない。

この瞬間まで、キレイサッパリ頭の中から抜け落ちていたのだけれど、今の一言で昨日のキスの感覚と、あの笑顔が脳裏にフラッシュバックしてきて、私はお煎餅を咥えたまま固まってしまった。

いや、あれは事故みたいなもんだし…もうなかった事にしてしまえるし…。

私が忘れればそれで済む話だ。


でも、何故だろう。

「ミカコ」と呼んだ時のあの笑顔だけは、やけにクッキリと脳裏に焼きついている。


「何か、やらかしちゃったみたいね」


なかなか答えない私に、先生は苦笑いを浮かべた。


「あの…」


「ん?」


「私とミカコさんって、似てるんですか?」


――間違えて、キスしてしまうくらいに。


後半はさすがに口にはしなかったが、ミカコという名前を出したとたん、それまではまだいくらか余裕があった先生の顔から、一気に色が抜け落ちていった。

まるで、アルカリ溶液に浸したリトマス試験紙みたいに、一瞬にして青くなっていく。


「あ…あの、私……」


震える声で、先生が何か伝えようとするが、もういい。十分だ。

この反応だけで、先生が”ミカコ”とどういう関係なのかは、わかりすぎるくらいにわかってしまった。


「ごめんなさい、あの、…何をしたか言ったかはわからないけど……とにかくごめんなさい!」


「いや、あの、そんな何したかもわからないのに謝らないで下さいよ。とりあえず、落ち着いて下さいって!!」


予想以上の反応に、わざとはっきりしない言い方をした事を、今更後悔した。

やはり、知らぬ存ぜぬを貫くべきだったのだ。

先ほどと同様、自分の浅慮を内心で嘆くが、今更悔やんだところで遅すぎた。


「謝られるような事は、何もありませんでしたから」


「……本当に?」


「本当です」


嘘でも、こう言うしかない。

こんな状態…錯乱するまであと一歩みたいな顔した彼女に、「いや~、実はキスされちゃいまして、テヘ☆」なんて言った日には、切腹してお詫びとか言い出しかねない

それくらい、今の彼女は怯えた表情をしていた。


「そう…それなら、良かった。酔ったあげく、別れたての恋人と間違えて生徒に手を出したりしてたら、今すぐ辞職願い書くところだわ」


あ、ああ、そうですか。やっぱり言わなくて良かったです。――って、ええっ!?


「別れたてって…あの、別れたんですか?ミカコさんと?」


「え?あ…やだ。そこまでは話さなかったのね、私。

うん。実は昨日、彼女とお別れしてきてね。」


なるほど、昨日のアレはヤケ酒だったというわけか。


「へえ、先生みたいな美人を振る人がいるんですねぇ」


「失礼ね、振られてないわよっ。私が振ったの!」


振られた人は、大抵そう言うんですよ、先生。なんて事は口にせず、「はあ、そうでしたか」とかなんとか言って、とりあえず謝っておく。

振ったのなら、誰がヤケ酒なんて飲むもんか。


でも、失礼ね、と言って膨れっ面を見せる先生は、とてもじゃないけど先生に見えなくて。

5歳以上年上の女性に言う言葉じゃないけれど、可愛いと思ってしまった。


「謝ってきたけど……浮気されて、許してあげるほど心の広い女じゃないのよ、私は」


「あ…はあ。浮気ですか」


そりゃまた、ヘビーな……というか、こんな話を生徒に話していいのだろうか、この人は。


「そう、浮気。美香子に言わせれば、遊びとかデキゴコロらしいけど。」


「はぁ…浮気はいけませんねぇ」


「でしょ!?――って、あ~もう。私、今日初めて話した相手に、なんでこんなにペラペラと…」


「や、別に構いませんよ。愚痴を聞くのって、嫌いじゃありませんし」


むしろ好きかもしれない。

実は、私はどうも相談役…というか愚痴聞きには向いているらしく、友達からも駆け込み寺扱いされているのだが、その評価はきっと正しい。

どんなカタチであれ、人に頼ってもらえるのは嬉しいと思う。


「…やっぱり変な子ねぇ、アナタ」


「もう…さっきから、変って言いすぎですよ」


「ふふっ、ごめんね。――うん、でも、あの店で私を見つけてくれたのが高崎さんで良かったわ」


……なんつー殺し文句だ。

これじゃ、ストレートの私でも、うっかり落とされかねない。

本人は自覚していないのだろうけど、そんな邪気のない顔でそんな事言われちゃ、言われた方は堪ったもんじゃない。私が男なら、今頃押し倒してるぞ。


「だ、だからって、昨日みたいな飲み方はダメですからねっ!」


苦し紛れの照れ隠しに、私が乱暴にそう叱ると、先生は「はーい」と首を竦めてクスクスと笑った。


「これじゃ、どっちが先生かわからないわねぇ」


全く同感だ。私も凄くそう思う。

先生は私の事を変だって言うけど、私に言わせれば先生の方がよっぽど変な人だった。

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