先生ってもしかして…?
酒は飲んでも飲まれるな。
そんな標語がピンク色の文字で頭の中をチラついたが、そんな事はこの際どうでもいい。本当に、心の底からどうでもいい。
飲まれてるのは、私じゃなくてこの酔っ払いだ。
迂闊な事に、キスされてから数秒ほど固まってしまったけれど、私はハっと我に返るや否や、慌てて体を起こしベッドから飛び退いた。
驚きのあまり、心臓はバクバク鳴るし足がカクカク笑っているのがわかるが、それを無視してベッドから2歩ほど下がったところで身構え、何をするんだと怒鳴ってやろうとしたところ……その時には既に、突然人の唇を奪った張本人は再びスースーと規則正しい寝息をたてていた。
「……なに、この人。酒飲んだらキス魔になるタイプ?」
力なくつぶやいて、ヘナヘナと冷たいフローリングに座り込む。
よっぽど叩き起こしてやろうかとも思ったが、どうせさっきの事が記憶に残っているとも思えないし、下手に近づけばまたとんでもない行動をとりそうなのでやめておく。
さっきのキスにしたって、もしあれがファーストキスだったら泣いてたぞ、私。一応恩人に向かって、なんつー仕打ちだ、この女。
連れて帰ってくるのは、ちょっと早まったかもしれない。
それに、この人。女1人で日本酒の一升瓶をほとんど空にして、居酒屋で酔いつぶれて。やっと目を覚ましたと思えばキス魔って……ありえねぇ。
これで吐きでもすれば、史上最凶の酔っ払いの出来上がりだ。――お願いだから、私のベッドでは吐かないでください、マジで。
「そういや、キスする直前に、確かミカコって………女、だよね。ミカコだし」
あの時、うっすらと開いた目で私を見つめ、彼女は幸せそうに笑っていた。
男なら、10人いれば8人くらい確実に落とせそうな笑顔でニーッコリと。
が、
「あれって、私をミカコって人と間違えてキスしたって事かな?」
もし仮に、そのミカコさんとやらと間違えていたにせよ、唇を奪われたのは非常に腹立たしいのだが、それ以上に、ある1つの可能性の方に私は好奇心をそそられた。
キスするという事は、相手は恋人だろう。他の可能性を探ったところで、私の頭では子供かペットくらいしか浮かばない。
同級生から聞いた話によると、藤枝先生はまだ独身のはずだから、子供という可能性は却下。私は人間だから、ペット案も却下。大体、さっきのキスはなんとなくだけど恋人にするキスだったような気がする。
となると、つまり――、
「……マジで?」
何も知らず、気持ち良さそうに眠る酔っ払い美女を眺めて、私は自分の不運を呪った。
そんなスクープ、知りたくもなかったし、そもそも私、今晩どこで寝ればいいんだよっ!バカ教師!!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝っぱらから、体中がギシギシする。首とか腰とか背中とか。本当に、体中全部。
それもこれも、昨晩は先生にベッドを丸ごと譲って自分は硬くて冷たいフローリングの上で布団もなしに転がっていたせいだ。
――いや、朝起きた時にはタオルケットがかけられていたから、一晩中というわけではなかったのだけれど、敷布団がないのだからあまり効果はなかったらしい。
あのタオルケットが、一体何時にかけられたものなのかはわからない。
わかるのは、昨晩あれを使っていたはずの先生が私が眠っている間に目を覚まし、私にタオルケットをかけて帰ったという事だけ。
それと、よほど慌てていたのか、床の上には私と一緒にベルトが1本転がったままになっていた。昨晩、彼女から抜き取ったものである。
先生が起きた時、あの状況をどう判断したのかは知らないが、せめて起こして一声かけてくれれば良かったのにと思う。
そうすれば、少なくとも私は、目覚ましが鳴るまで床に転がっている事はなかったはずだ。
「唯~。アンタ、今日はいつも以上にダルそうねー」
と、同じサークルの友達が言った。
そう見えるのなら、頼むからそっとしておいてほしい。昼食時になっても未だに疲れが抜けず、全身から漂い続けているこのビリジアン色の空気を読んでくれ。
「まあ、唯は普段からテンション高い方でもないけどさー。今日は格別じゃない?」
「悪かったね、暗くて」
「や、暗くはないけど。…つーか、ホントにグッタリしてるんだけど、もしかして体調悪い?」
体調ね…、そっちも悪いっちゃー悪いけど、そんなものより精神的ダメージの方が大きそうだ。
ただし、それについて具体的に話すわけにはいかないので、「うん、ちょっとよく眠れなくて」なんて言ってはぐらかす私は、もしかするとかなりのお人好しなのかもしれない。
もう今日の残りの授業はサボって帰ろうかと本気で考え始めたその時、向こう側の校舎から、昨日とは違うグレーのスーツ姿の女性が出てくるのが見えた。――藤枝先生だ。
こんな離れた場所からでも、背筋をピンと伸ばして速足に歩く彼女はよくわかる。たとえ着ているものが黒やグレーの地味なスーツだろうと、何故だかとにかく目をひくのだ。
しかし、それよりも、彼女は昨晩の事を――私の事を覚えてはいるのだろうか?
ベルトだって、さっさと返してしまいたいし…。
「――ごめん!私、藤枝先生に用事あるから、先行ってて!」
「え、あっ、唯!?アンタ、藤枝先生の講義、とってないんじゃなかったっけ!?」
友達が呼び止める声を背中で聞きながら、私は、これから食堂へ入ろうとしている彼女の後ろ姿を駆け足で追った。
「藤枝先生!」
軽く息を切らして私が彼女を呼び止めた時の彼女の反応は、ごく普通の生徒に話しかけられた時と同じものだった。
いつも通りの微笑を浮かべて、「何?」と私の顔を見つめているという事は、おそらく昨晩彼女が泊まった部屋の主が私だという事に気づいていないのだろう。
それがわかり、私はなんとなくガッカリしてしまった。
「えっと、私、高崎唯っていいます。昨日の晩、お会いしたんですけど…覚えてない、ですよね?」
「ああ、高崎さん!あの部屋の子?うちの大学の生徒だったのね」
と、荷物を持っていなかった右手を軽く口元に当て、私の顔をまじまじとみつめた。
「はい、そうです。先生、うちにベルト忘れてましたよ。今日は持ってきてませんけど、また明日にでも持ってきますから」
「ありがとう。昨日はベッドを占領しちゃってごめんなさい。ベルトも、部屋を出てから気づいたものだから」
そう言って、恥ずかしそうに笑う先生は、どこからどう見ても理知的な大人の女性だった。
とてもじゃないけれど、昨晩、居酒屋で一人で飲んだくれて潰れて、寝ぼけて私にキスした人物とは思えなかった。
それに、じっくりとこの人の顔を見ていると、つい目線が先生の唇のところで止まってしまう。ひどく酔っていたとはいえ、昨日この唇と…。
ほとんど覚えていないが、すごく柔らかかったような気がする。
明るい場所でシラフの本人を目の前にすると、急に気恥ずかしさが込み上げてきて、私は顔の温度が一気に上昇するのを感じた。
ヤバイ、これじゃ絶対におかしいと思われる。
その証拠というわけではないが、先生の私を見る目が、また怪訝なものに変わり始めていた。
「そ、それじゃあ、私はこれで!失礼しますっ!!」
「ちょっと待って」
これ以上は無理だと、礼をして立ち去ろうとした私を、今度は先生がピシャリとした声で呼び止めた。
もちろん待ちたくなどないのだが、自称・お人好しな私がその場で足を止め、何でしょうかと恐る恐る振り返ると、顎にちょこんと手を当てた彼女の探るような瞳にぶつかり、思わずたじろいでしまう。
ほんと、もう見逃してください。明日、ベルトを返して終わりにしましょうよ。絶対、誰にも何も言ったりしませんから!
「…高崎さん、今夜ヒマ?」
「へ?はあ、まあ。ヒマですけど…」と、バカ正直に答えてしまう私。
「そ、良かった。じゃあ、今夜9時くらいに、お邪魔していいかしら。
昨日のお礼もしたいし、ベルトも返してもらわないといけないし、ね?」
そんなもっともらしい事を言って、いかにもそれがうちに来る理由かのような笑顔を向ける先生に、今更やっぱりヒマじゃないなんて言う事も出来ない。
「わかりました、じゃあその時間には家にいるようにします」
ああ、関節だけじゃなくて頭と胃まで痛くなってきそうだ。




