P.003 世界から世界へ(1)
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「――……んっ……んん…」
ゆっくりと目を覚ますアヤメ。長い間眠っていたような、ぼんやりとした頭と気だるい体。その視界には、屋外を思わせる白い雲と青い空。
「……あれ?…私…」
上半身を起き上がらせ、ボーっと青空を見つめている内、今日――5月20日の朝の出来事が思い出される。
「あれ?私、確かバスに乗ってて…それで事故に遭って……まさか…まさか――…えぇっ!?」
最悪の事を想像し、無意識に足があるかを確認する。足はあったのだが、確認で落とした光景に驚きが……!
アヤメがいる場所は地面ではなく、青く澄んだ海のように広がる水面であったのだ。その青は空の色なのだろうか?鏡のように写った白い雲がそう認識させる。水面はアヤメが動く度に小さな波紋が起きるが、触れた部分が濡れる事はなく、沈み込むような事もない。まさに水面上に"いる"っという状態。
ぐるりと見渡す周囲には、時計を思わせる金色で丸い枠組みに、長針短針と秒針。それ以外を透かしたたくさんのアナログ時計が、水面にその身を埋めるように刺さっていた。その深さや角度などは様々で、各々がそれぞれの早さで動いている。
「何よここ……やっぱ、天国?」
「違うよ」
突然アヤメの背後から聞き覚えのない声がする。
体をビクつかせ振り返ると、そこに逆立つ程ではないが、金色のツンツンとしたミディアムヘア。目は髪と同じ金色の男の子がいた。服装は中世ヨーロッパ貴族のような赤の服に黒のズボン。そして茶革の靴。しかしその男の子は人とは思えぬ姿をしていた。身長は約30cm程の大きさ。背中には輪郭こそはっきりとしてはいないが、4枚の光る羽根があり宙に浮いている。加えて額には、そのまま皮膚が隆起したかのような1本の角が生えていた。
「ここは天国じゃないよ、マスター」
そう言って微笑む男の子だが、次々と起こる理解不能な出来事に対して、当のアヤメはただその目をパチクリ。口をポカーンっとさせて男の子を見つめるだけ。
すると男の子は、ゆっくりと宙を移動するようにアヤメに近づいてくる。得体の知れぬ者が近づいてくる……しかし不思議と恐怖はない。男の子はアヤメの目の前で止まり、再び微笑んだ。
「そんなにポカーンとしちゃって、どうしたんだい?」
「あ…あなたは…天使…なの?」
「ハハハ、ボクは天使なんかじゃないよ。精霊だよ。マスターの」
「せ…せーれー??…ますたー??」
自らを『精霊』と言った男の子を見つめたまま、「それって私って意味?」っと自分を指さし首を傾げるアヤメ。向かう男の子は応えるようにニコっと笑う。
「え…?ちょっ、ちょっと待って…何?何なの?…えっ?えっ?」
じわじわと遅れて出てきたパニックに頭を抱え、早いまばたきで周囲を見回し立ち上がるアヤメ。
ここは天国じゃない?じゃあこの不思議な空間は何だというのだ?それに目の前にいる存在は何なのだ?天使とかじゃなくて精霊?「おーいこれはゲームの世界?トリップワンダーランドですかい?」それに『マスター』って?「喫茶店のマスターかい?」そう考えてはツッコみ、考えてはツッコみ。言葉は出さずとも、身振り手振りでアヤメは不思議な踊りを踊っていた。
「ね、ねぇ大丈夫?マスター」
「ヘイらっしゃい」
喫茶店のマスターを連想してからの結果。どう向かったか不明だが、寿司屋の大将に行き着いたのだろう…
「へ…へいらしゃん…?」
「へ?……あ…いや、その~…アハっ…アハハハハ~…」
アヤメの必死なごまかし笑いに、精霊を名乗る男の子は察するように頷き愛想笑い。
「アハハハハ~……で…話し続けても大丈夫?」
「え?あ、う、うん」
「なら聞くよ。ボクを覚えているかい?」
一拍おき、アヤメは首を横に振る。
「じゃあ君の名前は?」
「え…か、萱島アヤメですけど…」
「そっか…わかったよ、ありがと。やっぱり記憶までは残されていないんだね…」
「記憶?」
「ううん、何でもないよ。ちなみにボクは【ナック】。光の精霊なんだ」
「ナック…?光の…せー…れー?」
「そしてここは【"外郭の大地"アースランド】と【"地核の大地"マザーランド】の狭間、【"刻の大海"クロックエンド】」
「は…はい?…」
「極論から説明すると、君の本当の名前は【エルセナ=ミリアード】で、1000年前に生きていた【霊召士】なんだ」
「…へ…?」
30秒にも満たない間の会話で、既にアヤメの頭はフリーズ状態。連続する意味不明な単語。今おかれた理解不能な状況に展開。しばらくフリーズ状態で【ナック】と名乗った男の子見つめ……
「やっぱ天国…?」
戻った。
これにはさすがにナックも古典的なズッコケをみせる。
「いやだからここはディメルクーロなんだって」
「で…でめ…きん?」
「ディメルクーロ!」
プツン――…っとアヤメの頭の中で何かが切れた。
「あぁーっ!もうどこの何でもいいから順を追って説明してよ!!いきなり意味不明な単語並べられてもわかんないってばーっ!!」
イラ立ちの最高潮を迎えたアヤメは叫ぶなり頭を掻きむしり、浮いたナックの体を両手で掴むと己の顔に引き寄せた。
その突然の行動にナックは掴まれながらも体を硬直させる。
「まず質問ッ!!」
「はっ、はい!」
「ここは天国じゃなくて私は死んでないぃ!?」
「はい!!」
「アースなんちゃらって何ぃ!?」
「アースランドは地球です!!」
「マザーなんとかは何ぃ!?」
「マザーランドは地球の内側にあるもう1つの世界です!!」
「そしてここはァ!?」
「その2つの世界を分ける空間です!!」
「なんじゃそらァーっ!!」
再び怒り全開で掴んだナックを空に放り投げるアヤメ。ナックは焦りながらもクルっと回転しアヤメの前に戻る。
「何!?何なの!?地球の他に?内側に?世界があって、その間にある空間がここ?そんなメルヘンチックなおとぎ話を信じろっていうの?」
「落ち着いてってばマスター」
「私は喫茶店でもバーのマスターでもないわよ!ただの高校生よ!!あなたも精霊とか言ってどうせCGで偽物!幻覚なんでしょ⁉︎」
「幻覚って…さっきボクを掴んだだろ?触れたでしょ?」
「え?触ったわよ!ガっちりと掴んだわよ!…って、触ってた…確かに…」
ハっとしたようにアヤメの熱がクールダウン。その様子に、ナックが頷き口を開く。
「とにかく君は生きている。もちろん君の巻き込まれた事故で誰も死んじゃいない」
「え?本当に誰も?…おじさんも?トラックの人も?」
頷くナックに不思議と力が抜け、アヤメはその場に座り込む。実際この目で確認はしてはいないが、言われただけでも不思議と安心感はあった。
「よかった…」
「もちろん君の世界に帰る事だって出来る」
「えっ、ホントに!?」
「うん。でも1つだけお願いがあるんだ」
「何?そのお願いを聞けば家に帰れるの?」
するとナックは少し押し黙り、小さく頷いた。その姿に多少の違和感を感じつつも、帰れるならば聞くだけ聞こう。
「どんなお願いなの?」
「ボクと一緒にもう1つの世界、マザーランドに来てほしい」
「マザー…ランドに?」
「うん。そしてめい――…」
ナックが何かを言いかけた瞬間、突然2人のいる空間が大きく揺れはじめたのだ。身動きもとれぬ程の揺れに、アヤメは地面…いや水面にしがみつくように這いつくばった。
「えっ⁉︎えっ⁉︎何よこれ⁉︎」
慌てるアヤメを他所に、ナックは険しい顔付きで水平線の先を睨み、
「ここまで来たか…くそっ…」
呟きアヤメに向き直る。そしてアヤメの額に小さな手を当てた。
「ごめん。全部説明したいけど、どうやら時間が無くなったみたいだ」
「えっ?時間って?」
「今から君をマザーランドに送るよ」
「へ?ちょっ、ちょっとまだ行くって言ってないってば!」
「今は時間が無いんだ!実体が完全転送出来るまでは少し時間があるから、君は何もしなくてもいいよ。そして一時的に名前を【アルシェン・サン・ヘザフェルト】と名乗って」
「あ、あるし…?」
「アルシェン!」
「アルシェン…?」
「そう!じゃあ送るよ!」
頷きナックが言うと、大きく揺れる水面が渦を巻きはじめて、アヤメの所だけに真っ暗な穴が開く。
「っ!?」
「大丈夫。君の体…マザーなら耐えられるよ。どっから落ちても」
「落ちっ――…って、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
言葉切るように一気に穴へ落下していくアヤメの体。
揺れ続けるクロックエンド。既にアヤメの落下した穴は無い。そこに佇むナックは、ため息にも似た大きな息を1つ。
「やれやれ…説明の時間もくれないんだね…」