この歌はしばらく聴けない
放課後、陽の光が当たらない屋上前の踊り場。
梅雨真っ只中ということもあってか、空気が質量を持って肌を覆っている気がする。
それなのに不快感が少ないのは、今日は少し温度が低かったおかげだろう。
だけど、さすがに夕方にもなると肌寒い。
周りに誰もいないことを良いことに、スカートを少し引っ張って、足を包み込んだ。
両耳に挿したイヤホンから、これまでに何度も聴いたお気に入りの歌が流れ、ダイレクトに鼓膜を震わせる。
右手でスマホを持ち、パズルゲームをプレイする。
スコアはそこまで高くないけど、別にそれでも構わない。ただの暇つぶしだから。
ゲームオーバーになる度に、足元に置いてある紙コップのジュースを一口飲む。
炭酸が口の中で弾けた。
「なんで帰らなかったんだろ、私」
胸に渦巻く靄を吐き出すように、呟いた。
そう、別にこんな時間まで残っている義理なんてなかった。
ただ、彼女に『一緒に帰ろ。待ってて』と言われたという理由だけで、校舎に人気を感じられなくなるまで待ち続けている。
今日もまた、いつもと同じ、好きな男の子の話をされるのに。
それに対し、私もいつも通り、友達の恋路を応援する女子高生のフリをしなくちゃいけない。
削り取られるように心を痛めながら。
そんなことわかってる。それなのに、一緒に帰ろうと言われたとき、嬉しくなって、「待ってるね」なんて声を弾ませた。
そんな小一時間前の自分を呪う。
どんなに嬉しくったって、その後に辛い思いをするのはわかりきっているのだから、先に帰った方が良かったんだ。
それでも待ち続けているのは、きっと私がもう彼女に負けているから。
『ねえ、なに聴いてるの?』
ふいに晴れやかな声で尋ねられる。同時に左耳のイヤホンが抜き取られた。
『この歌、好きだね~』
イヤホンを抜き取ったあなたは、自分の右耳に入れると、私がいつもと同じ歌を聴いていることに白い歯を見せて笑った。
その笑みと、イヤホンをシェアできるくらいの距離にあなたがいることに、私の胸は大きく高鳴る。
歌声に、私の鼓動音が混じる。
「好きだからいいでしょ。文句あるなら聴かないで」
顔が熱い。赤くなっているかもしれない。それを見られたくなくて、顔を背けながら素っ気なく答えた。
『別に文句なんてないよ。私も好きだし』
知ってるよ。だって、あなたが教えてくれた歌なんだから。何年か前に、今と同じようにイヤホンを分け合って聴かせてくれた歌だもん。忘れるわけないよ。
そう伝えたかった。
でも、この気持ちは重すぎる気がして、言葉にできなかった。
『ていうか、今日寒いね。手貸して』
あなたは、許可なんて待たずに私の左手を両手で包むように握った。すごく冷えていて、私の指先が無意識にぴくりと動いた。その冷たさが手を握られたことをより実感させて、痛みを覚えるくらい鳩尾の辺りが締め付けられる。
『あったか~』
あなたはそう独り言を呟いて、手に軽く力を込めた。
握り返して良いのかわからない。
ただ、手汗をかきませんように、と心の中で唱えながら「冷え性なんじゃない?」と平常心を装うことしかできない。
握られた手の熱が、あなたに奪われて二人の体温が近づく。
それにつれて私たちの境界が曖昧になっていく。
少しずつ、溶け合うように。
でも、そのことに思わず息をするのを忘れそうになるくらい、ドキドキしているのは私だけだ。
あなたはいつも通り。
その事実に、胸の奥が軋んだ。
『ねえ聞いて!』
あなたは、一段と明るい声を上げた。
私は身構える。
聞きたくない。
できることなら、イヤホンを奪い返して歌の世界に没頭したい。
だけど、私の左手はあなたに握られたまま。
『あのね。付き合うことになったの』
その言葉に右手で持っていたスマホを落としかける。
右耳で聴いていた歌がサビに入り、ドラムが大きく響いた。
その瞬間、心の奥で何かが弾けた。
飛び散ったものが胸の内側に触れ、遅れて鋭い痛みに変わる。
そこからじわりと広がって、冷たくなっていく。
昨日までは付き合うとか、その段階じゃなかった。
だから、少しずつ私も気持ちの整理をしていこうと思っていた。
それなのに、急展開すぎて心が追いつかない。
『それで今度の日曜日ね、二人で遊びに行くことになったの』
やめてよ、なんて悲鳴を上げることもできない。
あなたは嬉々として続ける。
誰のことかなんてわざわざ言わなくてもわかる。
「そうなんだ、良かったじゃん」
内心ぐちゃぐちゃなのに、表面上は取り繕う。
いつの間にか上手になってしまった、笑顔の仮面を張り付けて、あなたと同じトーンではしゃぐ。
反面、私は心に鍵をかけて閉じこめる。
これ以上、傷つかない為の自己防衛。
本当は聞きたくない。
でも、あなたから「彼のことが気になっている」と初めて相談されたときから、数え切れないくらい悩みを聞いた。
今更、その話聞きたくないとも言えない。
あなたは『どんな服着よう』とか『朝からだから、お弁当作ったりも良いかな。いや、初めてでそれは重いか』と浮かれている。
私はそれに、テンションを合わせて当たり障りの無い相槌を打つ。
それ以上のアドバイスを送ってあげないことが、せめてもの抵抗だった。
カップの中の氷が溶けて、カランと音を立てた。
視線をジュースに向ける。
氷が動いた振動で小さな気泡が無数にでき、弾けて消えていく。
その様子に、私のこの想いも消えてくれないかと願った。それなら苦しまずに済むのに。
廊下の蛍光灯がやけに眩しい。それで随分遅い時間になっていることに気付く。
「そろそろ帰ろっか」
あなたが話し続けるのを遮るように、そう言って立ち上がった。
あなたは何の疑問も持たずに『そうだね』と続く。
いつの間にか、あなたの耳から外されていたイヤホンが宙ぶらりんに垂れた。
まるで、今の私の気持ちみたいだ。
右耳からは、相変わらず同じ歌がリピートされ流れ続けていた。
先に階段を降りはじめたあなたの後ろに続きながら、私も右耳に挿したイヤホンを外して、停止を押す。
あなたの歩き方が普段より弾んで見える。
オレンジ色の空気を纏っているようで、幸せそうだ。
その後ろ姿を見ながら、私は「しばらく、この歌聴けないな」と心の中で声にした。
この歌を聴くと、どうしたって今日のこの胸の痛みを思い出してしまうから。
いつまで聴けないのだろう。
それはたぶん、あなたへの気持ちが思い出に変わったときまで。
だから、どうか聞こえないで。
私はそう願いながら、唇を動かした。
「好き」
その輪郭を持たない呟きは、明滅する蛍光灯の光にすら遮られ、梅雨の空気に溶けて消えていった。




