初めてのお出掛け
夜遅くまで舞踏会があって体がどんなにヘトヘトになっていたとしても次の日は日課のようにバルコニーで朝焼け前の空を眺めていた。
もしかしたら昨日のあの煌びやかな時間は全て夢だったのでは無いかと思ってしまうほど、現実離れした数時間だった。
舞踏会を終えフレッドと踊った後、緊張や体の力が抜けたのか、一気に疲れが押し寄せた。ほとんど意識の無い状態で入浴を済ませ、夢との狭間をフワフワと彷徨いながら廊下を歩いていた。その時に偶然すれ違ったフレッドに支えられる形で部屋に入り、泥のように眠った。それに関しても断片的な記憶があるだけで、ほとんど覚えていない。
後でその事のお礼も言わないといけない。もしかしたら覚えていないだけで他にも迷惑を掛けていたかもしれない。
昨夜の事を思い返していると背後からガラスの扉を開ける音がする。もしかして昨日の朝に続いて今朝もフレッドが来たのだろうか。もう少し休んでいれば良かったのに。だが予想とは裏腹に、振り返るとそこに立っていたのはフレッドではなく、まだ寝間着姿のお母様だった。
「アンリ、おはよう。今日も早いわね」
「おはよう。…あれ?今日もって事は私がここに来ていた事を知っていたの?」
「もちろん知っていたわ。昨日だってここでフレッドと二人でお話していたでしょう?今日は一人だったのね」
「昨日はたまたまフレッドが来てくれたの」
「そう」
今更だが、こうしてお母様と二人っきりになるのは初めてで、なんだかソワソワする。母親という存在と二人きりになる事に慣れていない上に、お母様とは昨日、フレッドと踊った後に顔を合わせたのが最後だ。まさかこんな朝にわざわざ会いに来るほど、何か大切な用事があったのだろうか。
「昨日のダンス、とても素敵だったわ。お父様も感動していたのよ」
「ありがとう」
「貴方にダンスを教えたのはあの子、フレッドでしょう?」
「え?うん、でもどうして?」
「あの子のダンスにはちょっとした癖のようなものがあるのよ。知らない人が見ても気がつかないような、本当にちょっとした事なのだけど」
「そうなの?お母様はフレッドの踊りを見たことがあったんだ」
「えぇ、とは言っても何年も前の話よ。…実はね、アンリが舞踏会でファーストダンスを踊るって決まってお父様とダンスのレッスンはどうしようかって話していたの。学園生活も始まったばかりだし、融通が利く先生に来てもらおうかって」
そんな話は初耳だった。それに実際、この一週間で一度もダンスの先生は来ていない。
「でも私はフレッドから教えてもらったよ?」
「それはね、私がアンリ様に教えますってあの子が自ら申し出てきたからよ」
「フレッドが?」
「えぇ、丁度舞踏会の一週間前だったかしら。彼にそんな提案をされて、アンリも幼い頃からダンスのレッスンは受けていたでしょう?だからある程度は踊れるはずだし、なによりフレッドなら大丈夫だろうってその場でお願いしたの」
舞踏会の一週間前…。それは丁度私がこの世界に来た日だ。あの日、フレッドにダンスなんて出来ないと言った。そして先日「貴族は幼い頃からダンスの練習をしている」ともフレッドは言っていた。
きっと事情を知らないダンスの先生に来てもらったら、本来ある程度踊れるはずのご令嬢がなぜか全く踊れない事がバレてしまう。そうすれば疑問に思った先生から両親へ話が回っていき、最悪の場合アンリの正体がバレてしまうかもしれない。そんな最悪の事態を防ぐためにフレッドはきっとアンリの知らないところで掛け合ってくれていたんだ。
改めてフレッドが側に居てくれて良かったと思う。きっとフレッドが居てくれなければ、この世界での生活をこんなにも安心して過ごす事が出来なかった。
「あのね、アンリ」
「なに?お母様」
「あの子はあの子で色々な事を考えているんだと思うの。だから貴方は彼の側に居てあげてね」
「え?」
いまいちお母様がどういう意味でその言葉を言ったのか分からない。が、どんなに聞き返しても、それ以上は何も教えてくれなかった。
ただ、お母様の表情から何の意味も無く言った事だとは思えなかった。
気がつくと既に太陽が昇り、空は薄水色に変わっていた。
モヤついた気持ちのままお母様と別れ自室に戻るとスッキリとしない気持ちのまま布団に潜った。不思議と今は外界との繋がりを断ちたかったのだ。
これまでの十数年、ずっと繰り返されるだけで代わり映えも無い日々を送ってきた。そんなアンリにはこの一週間はあまりに濃すぎて頭が痛くなりそうだ。
しばらくして気持ちが落ち着いた頃、布団から顔を出して時計を見ると、いつもフレッドがやって来る時間になっていた。だが部屋には誰一人として訪れる気配は無い。
今日も学園は休みだし、もしかしたら昨日の今日でフレッドも疲れて眠っているのかもしれない。そう思いつつも結局布団を抜け出した。
ひとまず食堂に向かうが食堂にその姿は無く、厨房にもシーズとルエが休憩しているだけでフレッドの姿はない。
「お嬢様、おはようございます。朝食になさりますか?」
「それより、フレッドがどこに居るか知りませんか?」
「フレッドさんなら先程、書庫に行くと仰っていましたが、そろそろ戻ってくる頃だと思いますよ」
「そうですか」
「こちらでお待ちになりますか?」
そんな風に聞かれて甘えることにした。とりあえずフレッドの存在を聞けただけで満足だ。なによりアンリが書庫に赴いて邪魔をしてしまうのは本望じゃない。アンリはシーズの入れてくれた紅茶とルエが分けてくれたクッキーを食べながらフレッドを待つことにした。
が、アンリが目を離した隙にシーズがこっそりルエに耳打ちすると、ルエは静かに厨房を後にした。
「昨日はお疲れ様でした。よく眠れましたか?」
「はい、気がついた時にはぐっすり眠ってました」
「そうですか、体を休められたのなら良かったです」
そんな事を話していると、いつの間にかどこかへ行っていたルエが戻ってきた。その後ろにはフレッドが立っている。もしかしてルエが呼びに行ってくれたのだろうか。それならせっかくの休憩中だったのに申し訳ない。
「アンリ様、おはようございます。私を探していたと聞きましたが、何かございましたか?」
「今朝はいつものようにお部屋に来なかったから少し不安になってしまったの。でもごめんね、用も無いのに急に来てもらっちゃって」
「良いんですよ。昨日の疲れもあって今朝はごゆっくり寝られるかと思っていたので、私は書庫で暇つぶしをしていたんです。ですが起きられたのなら朝食にしましょうか」
厨房から出て席に着くと、すぐに厨房から朝食のプレートを持ってきてくれて、新しく紅茶も注いでくれる。
「いただきます」
しばらくフォークを進めている時だった。フレッドに「アンリ様」と呼ばれて一度フォークを持つ手を止めた。
「本日は街まで買い出しに行こうと思うのですが、アンリ様はいかが…」
「行きたい!」
フレッドが話を最後まで言い終える前に発したアンリの勢いの良い返事にも、初めから返答が分かっていたかのようにフレッドは頷いく。
「そう仰ると思っていました。ですが念のためにも旦那様に相談した方が良いかもしれませんね」
「分かった!すぐに聞いてくる!」
お行儀が悪い事を自覚しながらもお皿に残っていた朝食を一気に口に含むと紅茶でそれらを流し込み、勢いよく食堂を飛び出してお父様の書斎に走った。背後では偶然厨房から出てきたルエが「アンリ様!?」と驚いている声や、フレッドの笑い声も聞こえたがアンリは振り返ることなく一直線に走って行った。
お父様の書斎をノックすると、すぐに中から「どうぞ」と声が返ってくる。お父様の書斎はフレッドに聞いていた通り、お母様と共同で使っているようで、二人分のデスクやテーブルなんかも置かれている。
お父様はデスクの前で書類に目を落としていたが、顔を出したのがアンリだと分かると目を通していた書類を閉じて迎え入れてくれる。
「どうした?アンリがここに来るなんて珍しいな。お母様なら外の庭園だが」
「ううん、お母様じゃ無くてお父様にお願いがあって来たの」
「なんだい?私に出来ることなら話してごらん」
「今日フレッドと一緒に街に出掛けたいのだけど、行ってきても良い?」
「街にかい?何か必要な物があるなら私から頼むが…」
「ううん、そういうわけじゃ無いの。ただ街を見に行きたいなって」
「そうか、そういう事なら行っておいで」
「本当?ありがとう、お父様」
「その前にこっちにおいで」
手招きするお父様のデスクに近づくと、お父様は引き出しから小ぶりな巾着を取り出す。
「これを持って行きなさい」
差し出された巾着を受け取ると見た目は軽そうだったのに、手にするとズッシリと重さがあってガチャガチャと何か小さな物がたくさん入っているのが分かる。
「これは?」
「開けてみなさい」
言われるがままに巾着を開けてみると中にはたくさんの金色に輝くコインが入っている。これはこっちの世界で使われる通貨なのだろうか。
「昨夜の舞踏会を頑張っていたご褒美だよ。本当は何か贈り物を渡すつもりだったんだが、中々アンリの欲しいものが分からなくてな。せっかくなら自分の好きな物を買ってきなさい。余った分もアンリが好きなように使えば良いから」
「でも…」
「こういう時は遠慮せずに受け取りなさい。ね?」
「うん、お父様ありがとう!行ってきます!」
「気を付けて楽しんでおいで」
笑顔を浮かべるお父様にもう一度お礼を告げると、巾着を抱えてフレッドのもとに戻った。フレッドは何も言わなくてもアンリの言いたい事が分かるようで、アンリを見ると微笑んだ。
「どうやら許可が出たみたいですね。良かったです」
「うん!実はね、昨日頑張ったご褒美にお父様がこれをくれたの」
「金貨ですね!ざっと見たところ、二十枚ほどですかね。よっぽどアンリ様のダンスを気に入られたようですね。倹約家の旦那様がこんなにも奮発しているのは初めて見ました」
フレッドのそんな言葉に浮かれていた心はたじろぐ。今更過ぎるがアンリはフェマリー国での通貨の感覚が分からない。何も考えずに受け取ってしまったけど、この巾着の中身って…
「フェマリー国の通貨って?」
「主に使われるのは銅貨、銀貨、金貨の三種類で、銅貨一枚でパンが一つ、銀貨でパンが十個買えます。金貨だと一枚でパンが…、百個ほどですかね」
パン一個を百円だと考えるとして、銅貨で千円、金貨で…一万円。この巾着には金貨が二十枚ほど入っているから、一万掛ける二十…
「…!!やっぱりこれ、返してきた方が…」
「良いんですよ。きっと昨日のアンリ様を見ていて旦那様にも思う事があったのでしょう。ですから今はそんなご厚意をありがたく受け取るべきかと」
そんな風に言われても大金を持っていると意識したら手が震えてしまう。そんな簡単に受け取って良いものだったのだろうか。
あぁダメだ、日本円に変換して考えないようにしよう。
「さぁ早速準備をしたら買い物に出掛けましょう」
部屋に戻ると急いで服を着替え、髪をとかした。楽な事にサラサラな髪は櫛で梳かすだけで綺麗にまとまってくれる。おかげで、一日で感じるストレスがかなり減った。その後は廊下を歩いていたメイドを捕まえて軽くメイクもしてもらった。
本当はこんな気合いを入れる必要はない。でも学園以外で外出するのは初めてで気分が上がっていた。
「着きましたよ」
今日の外出は家の馬車では無く、いわゆるタクシーのような形で運用されている民用馬車にフレッドと二人、向かい合うように座っていた。
と言うのも本来は屋敷ごとに御者が雇われ、どこかへ行っても主人が戻るまで御者が責任を持って馬車を見ているのだが、今のオーリン家には御者がいない。どうやらアンリがこの世界に来る少し前までは専属の御者が雇われていたようだが歳を取り、思うように体が動かなくなったため仕事を辞め田舎へ帰ったらしく、新たな御者を雇うまでの期間、アンリの外出の際にはフレッドが御者の代わりとして馬車の運転をしていたらしい。
フレッドは屋敷の馬車で行けない事を何度も謝っていたが、アンリからしたら移動中に話し相手が居てくれるのは素直に嬉しい。それに何ともないような顔をしているが、昨日朝から一日ずっと動き回ってくれていたフレッドには少しでも休んで欲しかった。だからこうして民用馬車で出掛けられて良かったと改めて思う。
目的地に到着すると御者がドアを開けてくれる。フレッドはアンリの手を取り、馬車から降ろすと御者にお金を支払う。
「わぁ素敵」
馬車を降りた先にはレンガ造りのブティックがたくさん並んでいる。服屋だけで無く、装飾品店や本屋、カフェやレストランなんかが並んでいて、通りにはオシャレをした令嬢、執事と歩くシルクハットを被った紳士が優雅に歩いている。
「せっかくの機会ですし、色々と見て回りましょう」
「うん!」
「まずはどこから見ますか?」
「うーん…、この辺りってすごく高そうな雰囲気のお店ばかりだよね」
どこを見ても店構えからして、明らかに高級店ばかりだ。学園に行く途中、馬車の中から見えるお店とは雰囲気が違う。だからこそ見た目は貴族でも心は庶民のアンリには簡単に足を踏み入れづらい。
「ここら辺の店舗は貴族の方をターゲットにされているからだと思いますよ」
「そうなの?」
「えぇ、そもそも貴族の方が自ら買い物に出掛けるのは、自身の装飾品を買いに行かれる時や外食を楽しまれる時くらいです。ですから貴族の方がお出かけになる店舗は手間が掛からないように、なるべく周辺に集められているんです」
中々どの店舗に入るのかを決められないアンリにフレッドは「百貨店に入ってみますか?」と提案した。
白と青のレンガ造りの大きな建物が百貨店だった。百貨店と言われて日本で全国展開されているようなショッピングセンターや駅前のデパートを想像していたアンリは外観の豪華さに驚く。
円形に設計された店内に入ると中央は吹き抜けで天井のドームにはステンドグラスが張り巡らされ、カラフルな光が降り注いでいる。
一階は主に化粧品や香水の専門店が並び、ドレスを着た同じ年頃のご令嬢が吟味している。上階には衣服や装飾品、小物類が売られる店舗が並んでいるようだ。




