フェマリー国での日々
まだ太陽も昇っていない夜明け前、スッと目が覚めた。悪い夢を見たとか、寝付きが悪かったと言うわけでもなく、本当に自然と心地良く瞼が開いたのだ。
ぼんやりと薄暗い部屋に目が慣れてくるとひとまずホッとした。
もし昨日の出来事が全て夢で、目が覚めた時に沢木暗璃に戻っていたらと思うと不安で仕方がなかったのだ。それでも見えてきたのはまだ見慣れない広い部屋とフカフカのベッドだった。
しばらくベッドの上に座って頭がスッキリした頃、物音が鳴らないように細心の注意を払って自室を出た。自室のすぐ近くにはバルコニーがあり、大きなガラスの扉を押すと心地良い風が足下を通っていく。外に出ると空は綺麗な濃い青色をしていて、丁度ブルーアワーと言われる空だ。
昔から朝の空は不思議と心を落ち着けてくれる。まだ人が活動を始める前の時間の空を独り占めして、少しずつ刻々と姿を変えていく空はいくら見ていても飽きない。それに昨日は学園や屋敷の中で過ごしてばかりで、こうしてゆっくりと景色を見ることが出来なかった。
ジャンミリー領を治める名家だと言われるだけあってオーリン家の敷地は広く、屋敷以外にも様々な植物を育てている温室や馬車を引く馬が暮らす厩舎がある。庭園には噴水があり、主にお母様主催でお茶会を定期的に開いているらしい。
アンリは太陽が昇り空が完全に水色に変わるまでバルコニーで過ごした。自室に戻ると薄暗かった室内はすっかり明るくなっていた。きっとフレッドが部屋に来るまで、まだ時間はあると思う。それでも二度寝をするのは勿体ない気がして窓際のソファーに向かう。
何をするわけでもなく、ただ座る。こっちの世界に来る前は暇さえあればスマホで動画ばかり見ていたが、こんな風に何をするでも無く朝の時間を過ごすこの時間がなによりも贅沢な時間のような気さえしてくる。
しばらくして外から馬車が走る音が頻繁に聞こえるようになった頃、部屋を控えめにノックする音が響いた。物音が響かないように細心の注意を払ってドアを開けたフレッドはアンリが既にベッドから出ていることに一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔を向けた。
「おはようございます。本日はお早いお目覚めですね」
「おはよう、フレッド」
「下では既に朝食の支度は整っておりますよ。お着替えを済ませたら食堂にお一人で向かわれる事は出来ますか?」
「うん、大丈夫だよ」
「ではネクタイは後ほど私が結びますので、お着替えができ次第、食堂にお越し下さい」
フレッドはジャケットやスカートの掛けられているラックに真っ白なワイシャツを掛けると、部屋を後にした。
アンリは腰を上げラックの元に向かうと着ていた寝間着を脱ぎ、昨日と同じように制服に腕を通す。脱いだ寝間着は畳んでベッドの上に置くと、ネクタイとサッチェルバッグを持ち自室を出た。
今朝は昨日と違い、食堂の八人掛けのテーブルには二人分の朝食が用意されていた。どうやらフレッドはアンリと一緒に朝食を食べるために、先に食べずにいてくれたらしい。
「さぁどうぞ、こちらにおかけ下さい」
「ありがとう、私の我儘を聞いてくれて」
「良いんですよ。私も実のところを言うと、一人で朝食を済ませるより昨日アンリ様とアフタヌーンティをご一緒した時の方が楽しかったので。あっ、今言ったことは他の者には秘密ですよ?」
「ふふ、うん!じゃあ、いただきます」
二人で向かい合って食べる朝食は何倍も美味しい上に、楽しい。それに昨日に比べてフレッドと少しは打ち解けられてきているのではないかと思うと素直に嬉しかった。
***
馬車が学園の前に停まると、馬車の窓から校門の前に昨日仲良くなったばかりの三人が揃っているのが見える。周りの通行人や学生はそんな彼らを二度見して行く。そりゃあそうだ。顔面偏差値が高い三人がああして揃っているのだから。
ミンスはザックに絡んでいるようだが、クイニーとは真っ直ぐ目が合っている。あれはアンリ待ちという事だろうか。
サッチェルバッグを持ち、フレッドに手を引かれ馬車を降りる。
「では本日もお帰りの際は、こちらまでお迎えに参りますね」
「うん、ありがとう」
フレッドに笑いかけている間にも、クイニーからの視線が背中にグサグサと刺さっている気がする。あれは間違いなく、完全にアンリ待ちだ。
足早に三人の元に向かうとそれぞれ第一声は全く違った。
「遅い」
「アンリちゃん、おはよ〜。今日も可愛いね」
「おはようございます」
クイニーの言ってきた事は無視するとして、とりあえず「おはよう」と返す。ミンスに関しては、貴方の方が今日もフワフワしていて私よりも何倍も可愛いです、と心で思いながら。
「私の事、待っててくれたの?」
「そうだよ~」
「今朝ミンスと二人で登校したのですが、二人との集合場所を決めていなかった事を思い出しまして…」
「この学園は広いし敷地内で見つけるのは大変でしょ?だからここで待ってたら登校してきた二人をすぐに見つけられるんじゃないかなって思って」
「そっか、ありがとう。待っててくれて」
元の世界で暮らしていた頃、高校までなら自分の所属するクラスがあって、決められた教室があった。でもここでは授業ごとに教室は変わるし、レベルごとの組み分けがあってもクラスという枠組みはない。どちらかと言えば大学と似ている。
だがこの世界にはメールや電話のような手軽に使える連絡手段が無い。スマホがあれば一瞬で連絡を取り合って集合場所を決める事も出来たけど、この世界では口約束をしていないと、顔を合わせるのも一苦労だろう。
「ほら、立ち話は良いから行くぞ」
「あぁそうだな」
「アンリちゃん、行こ~」
アンリ達は自然と二列になって歩き出す。前をクイニーとザックが歩き、後ろにアンリとミンスがついていく形だ。ミンスはずっとアンリの腕にくっついて歩いているが、その姿が子犬のようで振り払うなんて絶対に出来ない。
昨日も思った事だが、この学園はやはり広い。普段基本的に授業を行なうのは本館だが、本館以外にも大講堂や別館、他にもいくつか建物が建っているのだ。これはどこに何の部屋があるのか覚えるのに相当な時間が掛かりそうだ。
そんな風に思っているにもかかわらず、前を歩く二人は迷う素振りすら見せずにスタスタと歩いて行く。
「二人はよく迷わないよね。こんなに広いのに」
そう言うと共感するように腕にくっついていたミンスが頷く。
「だよね!僕もすごいなって思う」
「慣れるまではすぐに迷子になっちゃいそうだよね」
「そうだね。でも、ザックが居れば絶対に大丈夫だよ」
そんな風に共感し合っていると、前から呆れたような溜息が聞こえてくる。
「ミンスは昔からそんな事ばかり言ってるから、すぐに迷子になるんだぞ」
「だって道を覚えるのってパズルみたいで苦手なんだもん」
「アンリだって同じだからな」
「私は方向音痴なの。だから仕方ないでしょう」
「仕方なくない。はぁ、よりによってすぐ迷子になる二人が同じレベルだなんて」
「ほんとだな。って事は今までと違って、ミンスは私についてくることは出来ないと言う事だな」
「えぇ無理無理」
「無理って言ったって仕方ないだろ?別の科なんだから」
「え~、じゃあさ…」
「私はいちいちミンスを教室に送り届けてから自分の教室に向かうなんて勘弁だからな?」
「もぉ、まだ何も言ってないのに」
「ミンスの考えていることなんて、言われなくても分かる」
「まぁせいぜい二人で頑張るんだな」
唯一頼りになる二人から完全に突き放されてしまった。クイニーもザックも、絶望するアンリ達の様子を見て面白がっているのか、揃って口角を上げている。
「アンリちゃん、どうしよう。僕達やっていけるのかなぁ」
「うーん、でもほら一人じゃないし…」
「確かに!アンリちゃんも居てくれれば怖くないや。なんだか僕、やっていける気がする!」
「はぁ、どうなることやら…」
途端にポジティブになる二人をクイニーとザックは呆れたような目で見る。が、まぁきっとどうにかなるだろう。森に放たれたわけでもないし、聞こうと思えば誰かに道を聞くことも出来る。
今日は四人とも午前中は何かしら授業に出席しないといけない。そのため次は昼休憩に中央広場の噴水前に集合する事になり、本館に入ると二手に別れるのだった。
そして二人と別れてすぐ、アンリとミンスはいきなり迷い始めていた。
「うーん、僕はこっちだと思うな~」
「じゃあそっちに行ってみよう」
そんな適当な勘で向かった先は、目的地とは真逆だった。目的の教室が無い事に気がつくと急いで目的の教室を探す。想像以上にアンリとミンスの方向音痴は酷いのかもしれない。
時間ギリギリになって目的の教室に到着すると、昨日のガイダンスで見た顔が既にほとんど揃っていた。アンリとミンスは空いていた一番前の席に並んで座ると、男女問わずに何人かの学生からの視線を感じる気がするが、気のせいだろうか。確認をしようにもアンリには背後を振り向く勇気はない。
数分もするとチャイムが鳴り響き、先生らしき人物の足音が聞こえる。アンリはミンスと話していた顔を前に向けると口がポカーンと開いてしまう。
教卓に立つ先生は綺麗な茶髪に青い瞳。お母様だった。
どうしてお母様が居るのかと混乱するアンリにお母様は笑いかけている。
「…ちゃん、アンリちゃんってば」
「え?あ、ごめん。どうしたの?」
「あの先生ってアンリちゃんの…」
「うん…」
「やっぱりそうだよね」
「ミンスくんは私のお母様の事を知っているの?」
「うん、前に社交の場でオーリン伯爵の側に居たのを見ていたから。こうして改めて見ると、本当に綺麗な方だよね」
アンリの動揺をよそに教卓に立つお母様…いや、先生は話を始める。
「みなさん、初めまして。私はこの時間の授業を担当するオーリンです。今日は初めての授業なので、触り程度で終わりにしますが、次回からはしっかり授業を初めて行きますので忘れ物のないようにお願いしますね」
そんな挨拶と共に、授業についての説明がされた。色々と言い方は違うものの、簡単に言ってしまえばお母様の担当する授業は数学だ。ある程度の説明を終わらせると、お母様は今日の授業を閉じるのだった。
授業が終わるとそれぞれが教室を去ったり、その場でお喋りを始める中、アンリの足は真っ直ぐにお母様の元に向かった。後ろにはミンスもついてきてくれている。
アンリが近づくと先程まで真剣だったお母様の表情はパッと笑顔に変わる。それが無邪気な少女のようで、母親だというのに可愛いと思ったのは秘密だ。
「アンリ、昨日ぶりね。どう、ビックリした?」
「うん、まさかお母様が授業するなんて思ってなかった」
「じゃあ作戦成功ね」
「作戦?」
「お父様とね、アンリを驚かせようって秘密にしていたのよ」
「お父様と?」
「えぇ、貴方には黙っていたのだけど実はお父様、ここの学園の理事長なのよ」
「えぇ!!」
まさかお母様が先生だっただけでなく、お父様が学園の理事長だなんて。そういえば特に気にしていなかったが、今朝も早い時間に二人揃って家を出ていった。きっとアンリより一足先に学園へ向かっていたのだろう。
「あら、そちらの子はアンリのお友達かしら」
そう言うとお母様はそれまでアンリの後ろで静かにしていたミンスに視線を向ける。
「うん、ミンスくんって言うの」
「ミンス・シェパードと申します」
「シェパード子爵のお家の子ね。アンリをよろしくね」
「はい!僕では頼りないかもしれませんが、他にしっかり者の二人もいますので心配ご無用です」
「あらあら、それは頼もしいわね。ぜひ今度、そのお友達も一緒に屋敷に遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます!」
さすがの二人はあっという間に打ち解けてしまった。
アンリ達と会話する時はユルく、のんびりしていて可愛さの塊のミンスだが、さすがの貴族と言う事もあって、お母様を前にすると紳士の顔を見せた。
そんなこんなで会話を弾ませていると、いつの間にか時間はあっという間に過ぎていた。既に誰もいなくなっていた教室に慌てると、お母様から次の授業が行なわれる教室の場所への道のりを聞くと急いで次の教室に走り出す。
周りの目も気にせずに二人で全力疾走すると、なんとか授業が始まる前に教室に着いた。一限目は一番前の席に座ったが今度は一番後ろに並んで座ったため、初老のお爺ちゃん先生が自己紹介をしている間、ひっそりとお喋りする。
「そう言えば私達って理系なの?」
「ううん、違うよ。忘れちゃったの?」
笑いながら誤魔化すと、ミンスは何も疑わずにいてくれる。
「僕達はベーシックレベルだよ」
「ベーシック…って事は基礎?」
「うん、貴族階級の大半の学生はベーシックレベルかな。それでベーシックレベルよりも下のエントリーレベルは労働者階級の学生が学ぶんだよ」
「んー、じゃあ勉強はそこまで難しくないのかな」
昨日この世界で目覚めたばかりのアンリにはこの国の歴史はもちろん知らないし、その他の授業でも何かと分からない事だらけだろう。あまり難しいことを扱われても、さすがに困る。
「うーん、大丈夫だと思うよ。それにアドバンスレベルって言うベーシックレベルより上があるからね」
「そうなの?」
「ほら、僕達は理系文系関係なく基本的に広く浅く学ぶって感じでしょ?でもアドバンスレベルはそれぞれ一つの学問を究めていくの。その中でも一番難しいって言われてるのが理系科だよ」
「理系科?」
「ほら、ザックとクイニーがそうだよ」
「え!」
「アンリちゃん、声が大きいよ」
「あ、ごめん」
授業中だと言うことも忘れ、あまりの驚きに大声を出してしまう。でも幸い、こちらを気にしている人は居なさそうだからギリギリセーフだ。
何にしても、あの二人がそんなに頭がよかったなんて知らなかった。まぁザックは振る舞いから頭が良いんだろうと予想はついていたが、まさかあのクイニーが勉強できる側の人間だとは思わなかった。
そんな事を話している間に教卓に立つ先生は自己紹介と授業についての軽い説明を終えていたようで、初回はガイダンスのみで終わりにすると言うと早々に教室を出ていった。ちなみに話に夢中で、何も聞いていなかったのは言うまでもない。
二限目が終わると、長い休憩時間が始まるため、教室内は一気に騒がしくなった。そんな中、アンリとミンスは朝に約束していた中央広場の噴水前に向かう為に教室には留まらずに廊下へ出た。二人であっち、こっちと言い合いながら歩いていると、いつの間にか本来二限の終わる時間になっていたらしく、廊下も騒がしくなる。
なんとか途中で再びすれ違ったお母様に中央広場までの道順を教えてもらい、無事に約束の場所に到着。中央広場は本館の建物に囲まれるような場所にあり、ベンチやパラソル付きのテーブルも置かれている。
昼休憩という事もあって今の時間はある程度の学生が中央広場に集まっているが、楽しそうに過ごす女学生の大半は友人と話しながらも、チラチラと噴水の方に意識を向けている。それでも視線が集まる本人達は気にする素振りも見せずに話し込んでいる。
「ねぇねぇアンリちゃん」
「ん?どうしたの?」
「さっきの授業が終わった後にも思ったことなんだけど、アンリちゃんのお母様ってとっても優しい人なんだね」
「うん、私もそう思う。優しくて温かい」
「きっとアンリちゃんが優しいのはお母様譲りなのかもしれないね。あ、でもオーリン伯爵も優しい方だから、アンリちゃんは二人の優しさをたくさん受け継いだんだね」
「ありがとう」
そんな風に言ってくれる事がとても嬉しくて、アンリの口角は自然と上がっていた。
噴水前に立つクイニーとザックの元へ到着すると、方向音痴の二人だけでも約束の場所に辿り着けた事に安堵したのか、ザックは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「ちゃんとたどり着けたようで良かった」
「ほらね、僕達二人でも心配しなくて大丈夫って言ったでしょ?」
ミンスは胸を張り堂々と言うが、すぐに横やりが飛んでくる。
「でも一限と二限の間の移動時間、二人揃って全力疾走してただろ。あれって迷ってたからじゃねぇの?」
「見てたの?」
「見てたというより、二人が俺たちの居る教室の前を駆けていったんだろ」
「確かに走ったけど…」
「まぁまぁ良いじゃないか。二人ともこうして、たどり着けたわけだし」
そんな三人の会話を聞きながら、中央広場に来るまでにお母様から道を聞いていた事は黙っておこうとアンリは決意するのだった。
昼休憩になったものの朝食をしっかり食べていたからか、特にお腹も空いていない。カフェテリアやラウンジに行けば食事を取れるが、クイニー達もお腹は空いていないという事で、そういった場所には行かずに、このまま中央広場で過ごす事にした。ちなみに詳しくは分からないが、ラウンジは貴族階級の学生にのみ出入りが許されている本館の最上階にあるらしい。そして事前に申請を出せば、貸し切りにすることも可能らしい。
***
「お疲れ様です。アンリ様」
午後の予定も全て済ませ、迎えに来てくれた馬車に乗って屋敷に帰った。フレッドと共に屋敷に入ると、屋敷全体に甘い匂いが漂っている。香水とかの甘さではなく、焼きたてのお菓子のような…そんな香りだ。
「良い匂いがするね」
「厨房ではシーズさんとルエさんが舞踏会で提供する軽食の試作をしているようですよ」
「へー、舞踏会って軽食も出すんだ」
「えぇ、舞踏会当日ホールは踊る場として使いますが、隣のコンサバトリーでは軽食を取ったり、ゆっくりと会話を楽しむことが出来るように開放する予定です」
「そっか、じゃあ私もダンスの練習、頑張らないとだね」
「そうですね。では一度、お部屋でお着替えをしてから練習にしましょうか。練習が終わり次第、昨日同様にアフタヌーンティということで」
「うん!」
一人で自室に戻ると、恐らくフレッドが準備してくれていたのであろうラックに掛けられていたワンピースに腕を通し、すぐにダンスの練習部屋に向かった。練習部屋では既にフレッドが蓄音機の調整をしてアンリを待っている。
「お待たせ」
「お早かったですね。ではそうですね…今日は昨日のおさらいをして、その後に音楽を流してみましょうか」
「分かった」
昨日の練習と同じように流れるように踊るフレッドのカウントに合わせて、アンリもタイミングを合わせて足を動かす。昨日は一歩一歩考えながら動いていたし、緊張もあって体もガチガチだったが、一晩経って時間を置いたからなのか、今日は昨日より頭が澄んでいる。時々、分からなくなって躓く事があっても、それでもかなり自然と動けているんじゃないだろうか。そんなアンリに鏡越しに目の合ったフレッドはカウントをしながらも笑いかけてくれる。
「昨日よりも自然と動けていましたし、かなり良かったですよ」
「ほんと?」
「えぇ、これなら音楽を流してテンポが速くなっても大丈夫かと思います」
一度目の練習が終わった。昨日の練習もそうだったが、アンリが何をしてもフレッドは褒めてくれる。おかげで元々自己肯定感なんて皆無だったアンリでも自信を無くさずに済む。それがフレッドの気遣いなのか、根っからの優しさなのかは分からないが、なんだったとしても素直に嬉しいのだ。
「では音楽を流してみましょう。おそらく今までのカウントよりもペースアップしますが、初めは出来なくて当たり前だと思って、やってみましょう」
グランドピアノ横のすでにセットされていた蓄音機から昨日一度だけ聞いた音楽が静かに流れ出す。音楽に合わせ踊り始めるフレッドの隣でそれを真似してみるが、音楽無しの練習に比べて明らかにテンポが速い。
踊り終わる頃には何テンポもズレているし、足はもつれ優雅さの欠片もなかった。それと同時に、たった一週間しか無い練習期間でもフレッドのように踊れる様になれるのかも、なんて浮かれていた気持ちは一気に萎んだ。
「そんなに落ち込まなくて大丈夫ですよ」
「でも…」
「今日初めて音楽に合わせたのですから、出来なくて当たり前です。それに何テンポか遅れたとしても次に足をどう動かすのか、しっかり覚えていたじゃないですか。練習二日目でそこまで出来れば十分過ぎる程ですよ」
そんな励ましに、沈んでいた気持ちをなんとか取り戻す。そしてその後もフレッドの励ましや褒め言葉によって、モチベーションを保ちながら練習を続けるのだった。
練習を終えるとフレッドには自室で待っているように言われたが、共に食堂へと向かう。フレッドに次いで厨房に入ると厨房内ではコックコートを着るシーズとルエが忙しなく動き回っていた。そんな二人もフレッドとアンリの存在に気がつくと一度手を止める。
「フレッドさんにお嬢様、お二人揃ってどうなさいましたか?」
「私はお茶菓子を取りに来たのですが、アンリ様はどうしても厨房に来たいと仰るので…」
邪魔になるだろうし、困らせてしまうかもしれないという事も分かっていた。それでも初めて会った日以降、どうしても彼と一度でも話をしてみたかったのだ。
「ルエさんとお話してみたくて…」
「ルエとですか?」
「やっぱり迷惑でしたか?」
「いえいえ、そんな事は」
そう言って微笑むとシーズは優しく「ルエ」と振り返る。名前を呼ばれ一気に視線が集まったルエは、どうしたら良いのか分からないといった表情だ。
「ほら、お嬢様がお話したいそうだ。行っておいで」
「でも仕事が…」
「丁度オーブンにパン生地を入れた所だっただろう?焼き終わるまで時間はあるし、少し休憩しておいで」
「はい……」
小さな声で頷くと恐る恐るといった感じでルエは近づいてくる。フレッドはそんなアンリとルエに隣の食堂を使うように提案してくれる。その言葉に甘えるように厨房を出ると、八人掛けの椅子に並んで座る。肝心のルエは事前に人見知りだと聞いていたとおり、椅子に小さく座るとずっと自分の拳を見つめている。
「あの…一体何のご用でしょうか…」
「えっとね、これと言って用事があったわけじゃないんだけど…、お話してみたかったの」
「僕なんかとですか…?」
「ルエさんだからだよ。あのね、貴方の作ってくれたパンやお菓子、今まで食べたものの中で一番美味しかったの」
「ほんと…、ですか?」
「うん!今までパンとか何も考えずに食べてたんだけど、ルエさんが焼いてくれたパンは甘くて優しい味でとっても美味しかった」
「…嬉しいです、そう言って貰えて」
そして出会って初めて、ちゃんとルエの顔を見られた。照れたように頬を染めて、口の端を少し上げて笑う顔は可愛らしい。
「ルエさんの瞳って綺麗だね」
「そんな、じっくり見ないで下さいよ…。あとルエって呼び捨てで良いです」
「ほんと?じゃあこれからはルエって呼ぶね。ねぇ、またこうしてルエとお話しに来てもいい?」
「…はい、僕なんかで良いなら」
「ほんと?ありがとう」
ルエとの話はそこで終わった。きっとまだ警戒されているだろうし、いきなり仲良くなるのは難しいかもしれないが、これから先ゆっくりお話出来るようになれば良いなと思う。
そしてそれからの毎日は学園に通い、ミンスと授業を受けたり休み時間や放課後にはクイニーやザックも加わり三人で過ごす。お屋敷に帰ってからはダンスの練習をした後、フレッドと共にアフタヌーンティを嗜み、夜には両親と揃って夕食を食べる日々を繰り返すのだった。
***
ついに舞踏会前日。今日は学園もお休みだ。そのためフレッドに無茶を言って朝からずっとダンスの練習に付き合ってもらっていた。
「今回はかなり良かったと思いますよ」
「だよね、今まで躓いていたところも出来るようになったし」
「では次は少し手法を変えてみましょうか」
「え、今から?」
「本番は今までの練習のように一人で踊るわけじゃありませんから。本来、パートナーの方と踊るんです」
「あ、そっか」
今までずっと横並びで練習していたからすっかり忘れてたが、明日は誰かと一緒に踊らないといけないんだ。だが今から練習して明日に間に合うのだろうかと一抹の不安を覚える。
フレッドはそんな不安を汲み取ってか、アンリを安心させるように「大丈夫ですよ」とより一層、柔らかい口調で声を出す。
「誰かと一緒に踊るからといって何か特別な動作が増えるわけじゃありません。口で説明するより、実際にやってみましょうか」
そう言うとフレッドはアンリの真っ正面に向き合うように立つ。二人の間にはおよそ三歩分くらいしか距離は空いてない。
「右手は手を繋ぐようにして、肩より少し上に上げます。左手はお互いの腰に添えるように…。やってみましょうか」
フレッドは優しくアンリの右手を取ると、もう一方の手は腰に当てる。フレッドの接触により、さっきよりもかなりの近距離で向き合っている。少しでも動けば、体が触れ合ってしまいそうだ。
普段ミンスが腕にくっ付いてくる事があっても、それに対しては可愛いと思うだけで変に緊張することは無い。だが改めて男の子とこんな至近距離で向き合うとアンリの心臓はバクバクと変な音を立て始める。
そしてそんな緊張を隠すように恐る恐る左手をフレッドの腰に当てると、フレッドはおかしそうに笑う。
「アンリ様、ガチガチですよ。緊張しているのですか?」
「そりゃあ緊張するよ。こうして男の子に触れたこと無いし…」
「そうでしたか。ではまずリラックスしましょう」
「リラックスなんて出来ないよ。それに踊る時もこの距離、なんだよね?」
「えぇ、そうですよ」
「もし途中で相手の足を踏んじゃったらどうしよう」
「ふふ、心配なさらなくて大丈夫です。基本的に貴族の方は幼い頃からダンスの練習をしていますから。きっとアンリ様のお相手の方もリードしてくれると思いますよ。それにもし練習で私の足を踏む分には全く問題はありませんから」
「練習でもダメだよ、絶対に踏まない。私のせいで怪我させちゃったら嫌だもん」
「アンリ様はお優しいですね。さぁ、では練習の続きを始めましょう」
***
舞踏会当日の朝。アンリはいつものように日も昇っていない時間に目が覚め、静かに自室を抜け出すとバルコニーに来ていた。最初に来て以降、ここで朝焼けを見るのがすっかり日課のようになっていた。
今の空は淡い紫色から少しずつピンク色にグラデーションしている。そんな空を眺めていると、後ろから控えめにガラス戸を押す音がした。アンリが振り向くとそこには身支度を既に終えモーニングコートに身を包むフレッドが立っている。
「おはようございます」
「おはよう。…こんな早い時間にどうしたの?」
「いえ、特に用事があったわけでは無いんです。ただ毎朝の様にアンリ様が眺められている景色を私も見たくなったんです」
「私が毎朝ここにいたこと、知ってたんだ」
「えぇ」
そんな会話を境に自然と二人の間には静寂が漂い、無言のまま揃って空がピンク色からオレンジ色へと静かに変化していくのを眺めている。太陽が一番眩しい瞬間を過ぎると、上の方の空から淡い水色に変わる。そして空全体の変化が落ち着き始めた頃、それまで無言だった空間にようやく声が響く。
「アンリ様は緊張していますか?」
「ううん、なぜか落ち着いているの」
ここ数日、特にこの二、三日はどこにいても何をしていても緊張していた。昨日の夜はホットミルクを用意してもらって、それでようやく眠れたくらいだ。それなのに今朝目覚めると、それまで胸の中で渦巻いていた緊張が嘘のように消えて心はすっかり澄んでいた。
「そうですか、良かったです」
そう言っているフレッドの声はどこか震えていて、表情も硬い。そんな余裕の無さそうな彼を見るのは初めてで、どうしたのかと驚いてしまう。フレッドは眉を下げて笑うと視線を下げる。
「不思議なんです。今朝から私の方が緊張してしまって…」
「緊張?」
「あ、別にアンリ様が失敗しないか不安で緊張しているわけではありませんよ。ただ、なんでしょうね…。私にも分からないんです」
「フレッドでも、そんな風に緊張する事ってあるんだね」
「ダメですね。私がこんな状態では」
頭をかきながら苦笑いするフレッドはまるで自分を責めているように見えて、少し心が苦しくなる。だからなのか、アンリは気がつくと勢いのままに彼の手を握りしめていた。その手は昨日握ったときは温かかったというのに、すっかり冷え切って微かに震えている。アンリの突然の行動に驚いたフレッドは目を見開くと、アンリの心理を探ろうとアンリの瞳の奥を見つめる。
「大丈夫、大丈夫」
「アンリ様…?」
「フレッドに私の元気をあげる。だから私が踊ってるところ、ちゃんと見ててね」
「…ありがとうございます。もちろん、ちゃんと見ていますよ」
「フレッドが見てくれてたら私も頑張れる」
「ふふ、昨日は私と手を握ってあんなにも緊張していたのに、今は自分から私の手を握ってくれるなんて。不思議ですね」
フレッドの震えて冷たかった手は、次第に温かさを取り戻すと同時に緊張した面持ちも消え、いつも通りのフレッドに戻った。
お屋敷では夕方から始まる舞踏会に向けて総出で準備が進められた。厨房ではシーズとルエを中心に数々の料理が作られ、執事長であるジーヤを中心にフレッドやメイド達がメイン会場であるホールとコンサバトリーの準備を進める。ホールの大理石の床はいつも以上に綺麗に磨かれ、階段や装飾の上にも一切の埃すらない。ガラス張りで外の様子がよく見えるコンサバトリーはゆっくり座れるように椅子やテーブルが並べられる。
フレッドの話では舞踏会は生演奏で行なわれるようで、昼過ぎになると楽器を抱えた人達が到着した。軽く挨拶をすると、何か出来ることは無いかと屋敷中を歩き回った。だが、どこに顔を出しても「夜に向けて、今は休んで下さい」と言われてしまう。そのため今朝からずっと暇なのだ。
この一週間、お屋敷で過ごしてみて分かったのは、このお屋敷に居る人はみんな優しいと言うことだ。
お父様にお母様、フレッドはもちろん。ジーヤにディルベーネ、他のメイド達も話してみると心優しい人ばかりだった。
初めて厨房でルエと話して以降、ルエやシーズの居る厨房にはよく顔を出すようになった。ルエは初めて話したあの日以降、日を追うごとに少しずつ打ち解けてくれてるのか、顔を見てちょっとずつ喋ってくれたり笑顔を見せてくれるようになった。最近ではアンリが厨房に顔を出すと二人はこっそりと試作品を試食させてくれたりもする。
でも周りの人達が優しい人ばかりだからこそ、手持ち無沙汰で何もしていないと罪悪感が出てきてしまうのだ。とりあえず何もせずに時間が過ぎるのを待つのは勿体ないし、ひとまずダンスの練習でもしてこようか。
いつもは二人で並ぶ練習部屋に今日は一人だ。それでもこの一週間の練習をひたすら思い出して踊る。
この一週間、かなりの練習をしてきた。元々運動が苦手な分、それを補うように、ただひたすら踊って踊って、踊り続けた。こんなに一つのことを諦めずに練習し続けたのは生まれて初めてだった。
そして何度目かの音楽の途中、コンコンと扉をノックする音が部屋に響く。
「お嬢様、今よろしいですか?」
そんな声と共にひょっこりと顔を出したのは、さっきまでコンサバトリーの準備を進めていたメイドの一人だった。
「そろそろお嬢様の身支度を整えたいと思うのですが、まだ取り込み中でしょうか」
「いえ、もう平気」
「ではすでに他のメイドがドレスルームで待機しているので行きましょうか」
メイドと練習部屋を出ると、すぐ近くの部屋に案内された。室内にはたくさんのドレスが綺麗に並べられ、奥の化粧台では見たこともないような数の化粧品が並べられている。いわゆる衣装部屋だ。
室内には既に二人のメイドが待機していて、すっかり準備万端のようだ。
「ではお着替えの前にお化粧をしましょう。お嬢様、こちらに座って下さい」
メイドの一人に案内されるままに椅子に座る。すると既に担当を決めていたのか、一人がメイク、もう一人がヘアセット、そしてここまでアンリを案内してくれたメイドが二人の介助をするらしい。
「あの、今まで化粧なんてした事無いんだけど…」
「お嬢様は肌がとても綺麗ですからね」
「本当に羨ましいです」
「えぇ、このお肌なら厚化粧よりも、あえて薄めの化粧にして瞳のブルーを際立たせた方が良いんじゃないかしら」
「そうね、そうしましょう」
「…全てお任せで、お願いします」
三人の手によって鏡に映るアンリはどんどん変身していく。顔には今まで使ったことがないクリームやパウダー類が乗せられ、普段とは違った色味が付いてくる。
髪は綺麗に二つの三つ編みが作られ、それを逆側にそれぞれまとめる形でピンで留められていく。いつもは下ろしっぱなしの髪がまとめられ、久しぶりに首元がスースーする。最後、綺麗に整えられた髪に小さなドライフラワーが一つ一つ丁寧に挿された。
三人は本当に手際が良く、あっという間にヘアメイクは完成した。鏡に映るアンリはまるで別人で、そんな自分の姿を見ていると不思議と胸が高鳴った。そのままの勢いでドレスも着付けてもらう。
「出来ましたよ」
「まぁとっても素敵!」
アンリが着たのはフリル生地で膝丈ほどのドレスだ。本来舞踏会のような場では、くるぶしまで隠れるドレスが選ばれることが多いようだが、お母様が初めての舞踏会で踊るアンリを気遣ってドレスの裾で足がもつれないようにと、わざわざ用意してくれたらしい。そんな気遣いが嬉しく、少しくすぐったくも感じた。
ドレスはアンリが動くたびに少し遅れてなびき、それがまた可愛いらしい。肩口もふんわりとしていて、ウエストは普通の服より締め付けられる感覚があっても着ていられないほど苦しいわけじゃ無い。
最初は初めての化粧に初めてのドレス。どうなるんだろうと思っていたが、三人に任せて正解だった。
「ありがとう、とっても素敵」
「いえいえ、こちらこそ。こんな風にお嬢様の身支度を調えさせて貰えて私達も幸せです」
三人にお礼を済ませるとアンリは早歩きで屋敷中を回った。
ホールに温室に厨房、どこを見ても目的の人物の姿が無い。厨房でルエにも声を掛けてみたが、見かけていないと言われてしまった。庭園に居るのかもしれないと思ったが、外を覗いても誰かが居るように思えなかった。
仕方ない、諦めよう。そう思いながら自室に向かう。そしてドアノブを握るが、ふと手を止めた。
何を思うわけでもなくバルコニーに向かうと、ガラス越しに探していた人物の後ろ姿が見える。
そしてなぜか分からないが静かにガラスの扉を開けた。どれだけ静かに開けたつもりでも、微かな音は聞こえていたようで振り返ったフレッドはアンリを視界に入れると目を見張る。
「とてもお似合いですね。素敵です」
「ありがとう」
「でもなぜ少し息が切れているのですか?」
そう言って小さく笑う。確かにおかしな話だ。ドレスにメイクをして綺麗にしてもらったのに、早歩きとは言え、さっきまで屋敷中を歩き回っていたから息は切れているし足はフラフラだ。
「フレッドの事を探してたの」
「それは、申し訳ありませんでした。何か御用でしたか?」
「用って言うか…、一番に見て欲しいなって思ってたから」
「私にですか?」
「だってこうしてドレスを着たりお化粧したのも初めてだったから。それにこんな風に堂々と立っていられるのはフレッドのおかげだもん」
「私のおかげ、ですか?」
「この一週間、ダンスだけじゃ無くて色々な事を教えてくれたでしょう?おかげでこうして自信を持っていられる。だから着たばかりで着崩していない姿を一番に見てもらおうって思ったんだけど…」
ドレスに着終え、鏡に映る姿を確認すると不意にフレッドの顔が脳内に浮かぶと同時に、この姿を一番に見て欲しいと思ったのだ。
「ありがとうございます。その気持ち、とても嬉しいです」
「あ、でもさっきルエと会ったからフレッドが一番に見た相手じゃなくなっちゃった」
「ふふ、ルエさんに負けてしまいましたか」
「だってこんな所にいると思わなかったんだもん」
「それはすいません。ですが早く手直ししないとですね。そろそろお客様がお見えになりますし」
「わ、大変。どうしよう」
「簡単な手直しで済むでしょうし、私が致しましょうか」
「本当?ありがとう」
自室に戻りドレッサーの前に座るとフレッドの手によって、髪やドレスがあっという間に整えられた。
手直しを終えると、アンリはフレッドと共にホールに降りるため、階段に向かった。階段上からホールを見渡すと、既に老若男女問わず何人かのお客様が集まっているのが見える。
あの人達の前でこれから踊るのだと思うと、今さら引き返せないのに心臓がイヤな音を立て始める。
「アンリ様、私がエスコート致します。お手をこちらに」
差し出されたフレッドの掌にアンリの小刻みに震える手を乗せる。恐らくフレッドもアンリの震えている手に気づいているだろうが、わざわざ指摘はしてこない。優しくアンリの手を握るとフレッドはアンリが躓かないようにゆっくり階段を降りていく。
ホールまで降りると自然とその場の注目がアンリに集まる。男のなめ回すような視線、女のつま先から頭のてっぺんまでチェックする瞳、そんな彼らの両親だと思われる大人からはまるで品定めでもするかのような目を向けられる。
やはり人の視線を集めるのは苦手だ。どうせこの後は馬鹿にするように笑うか、悪口を囁かれるかと相場は決まっている。出来ることならば、今すぐにでも透明になってしまいたい。
だが予想とは裏腹に、アンリへと向けられたのは息をのむ音や言葉を失った表情。それまで活気があったホール内は一瞬のうちに静まり返っていた。
「あの、これは一体…」
「アンリ様、一度あちらに行きましょう」
アンリの問いに被せるようにフレッドはそう言う。アンリはエスコートされるまま、一度ホールから出る。フレッドが扉を閉める直前、静まり返っていたホール内が一気に騒がしくなったが、ギリギリ何を話していたのかまでは聞き取れなかった。
連れられるままに食堂に入るとルエが丁度焼き上がったばかりの食パンを運んで来るが、アンリと少し焦った表情のフレッドが揃って食堂に入ってきた事に驚いている。
「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと避難を」
「避難?よく分からないですけど…、紅茶でも淹れましょうか?」
「いえ、ルエさんはお忙しいところでしょう?私が行ってきます」
そう言うとフレッドは厨房の中に入っていった。
「あの…」
「うん、なに?」
「厨房は今スペースが空いてなくて…、ここで最後の仕上げをしようと思ったんですけど良いですか?」
「うん、もちろん」
ルエは手に持っていた食パンをテーブルに置くと、手際よくパン切り包丁で食パンを切っていく。まだ焼けたばかりで温かいパンの甘い香りが部屋中に漂って、自然と緊張していた心は落ち着いてくる。
「それってこの前、試作品を食べさせてくれたサンドイッチ?」
「そうです。それと一緒にアンリ様が仰っていたフルーツサンドというものも作ってみようかと思ってます」
というのも数日前。厨房に遊びに行くとルエが今日のためにサンドイッチの試作をしていた。
その時に味見をさせてもらい、好みの具材も聞かれた。そこで実際に食べたことは無いがフルーツサンドを食べてみたいと話したのだが、どうやらこの世界にフルーツサンドと呼ばれる食べ物は存在しないらしい。ルエは初めはピンとこない様子だったが、大まかに概要を説明すると何となくどんなモノか理解してくれたようだ。
「わーい、楽しみ。後で無くなる前に食べに行こっと」
「良ければ今、少し食べますか?」
「え、いいの?」
「元はと言えばアンリ様からのリクエストですし。僕は一番に食べてもらいたいです」
「じゃあ食べたい!」
勢いよく頷くと小さく笑ったルエは食パンを二枚手に取る。テーブルの上にはサンドイッチ用の色々な食材が用意されていて、その中からボールに準備されていた生クリームとミカンや苺のスライスを取ると食パンの上に大量の生クリームを乗せ、フルーツのスライスもたくさん乗せる。
出来上がったサンドイッチを四等分に切り分けると、あっという間にお店に並んでもおかしくないレベルのフルーツサンドが出来上がった。
「すごい!私ずっと食べてみたかったんだ」
「それにしても面白いサンドイッチですよね。よく思いつきましたね」
その言葉には笑い返すことしか出来なかった。さすがに元いた世界で一時期、流行っていたから、なんて事は口が滑っても言えない。
にしても本当に美味しそうだ。今までずっと食べてみたいと思いながらも、そういうお店にはオシャレな女の子ばかりで入りづらい雰囲気に押され食べられず仕舞いだった。
ルエは出来上がったそれをお皿に載せてアンリの前に置く。と、丁度そのタイミングで紅茶のセットを持ったフレッドも戻ってきた。
「二人も一緒に食べようよ」
「え?でも僕なんかが…」
「えぇ、せっかくですしご一緒しましょう。ルエさんも時間があるようなら、ご一緒にどうです?」
そう声を掛けてくれたおかげで、渋々という感じもありながらルエも一緒に食べてくれることになった。
フレッドはアンリが一人でご飯やお菓子を食べるのが好きじゃないと理由まで詳しく話していないが、分かってくれている。おかげで初めの頃は戸惑いながらだったが、最近はアンリが誘うと快く受け入れてくれるようになった。
三人でお茶やサンドイッチを楽しんでいると、いつの間にか舞踏会の開催の時間になっていた。最後にルエに感謝を伝えて食堂を後にする。
ホールはさっきよりも人が集まっているようで、フレッドの後を歩いてホールの正面まで向かうとお母様とお父様が誰かと楽しげに話していた。その相手は背中を向けていてアンリからは顔まで見えないが、赤い髪の長身の男だ。
「あらアンリ、来たのね。そのドレス、とっても素敵よ」
「丁度良かった。そろそろ始めるからな」
「アンリのダンス、楽しみにしているわ」
そこまで言われてようやく気がついた。そう言えば散々ダンスの練習はしてきたが、一体誰と踊るんだろう。
「お父様、私が一緒に踊る相手って…」
「あぁ言っていなかったか。クイニー君だよ」
そうして今まで背を向けるように立っていた赤髪が振り返ると予想していたとおり、クイニーだった。でもまさか一緒に踊る相手がクイニーだったなんて。クイニーからもこの一週間、何度も顔を合わせたが、そんな話は聞いていない。
今日のクイニーは黒い燕尾服に身を包み、いつもより落ち着いた雰囲気だ。それでもアンリのあまりの驚き具合に眉をひそめている。
「何か不満か?」
「不満じゃ無くて、予想外だったって言うか…。でもクイニーが相手って言うなら気楽かも」
「それ、どういう意味だ」
「別に悪い意味じゃ無いよ」
クイニーと言葉を交わしているとお父様はアンリとクイニーの背中にトンと静かに触れた後、一歩前へ出て来客に向けて話を始めた。
いつの間にか、隣に居たはずのフレッドは居なくなっている。
「本日は当家の舞踏会にお越し頂きありがとうございます。今宵はコンサバトリーにて厨房自慢の軽食も用意しております。時間が許す限り、ぜひお楽しみ下さい。そして今宵のファーストダンスは娘のアンリが社交界デビューも兼ねましてソアラ伯爵のご子息、クイニー君と披露致します」
お父様の挨拶が行なわれる中、辺りには聞こえないほどの声で「行くぞ」と声を掛けられ、クイニーと二人、ホールの中心に向かっていく。アンリとクイニーが歩くと自然と周囲の人達は避けていき、ホールの中心には円状の空間が出来上がる。
フレッド曰く、お父様の話が終わり次第、演奏が始まり、それに合わせて踊り始める。場所や周囲の雰囲気、観客の有無が変わるだけで、やることは今までの練習と同じだ。何度も自分に言い聞かせるが、どうしても視界の端にドレスや燕尾服を身に纏った煌びやかな人達が目に入ってきてしまう。
落ち着け、落ち着け…。私なら大丈夫…。
ひたすら深呼吸するが心臓がドクドクとうるさい。そして一度、気になってしまえば次々に不安が溢れてくる。もし失敗なんてしたらどうしよう。こんな大勢の前で転んだり、途中で頭が真っ白になったら…。
次から次に溢れ出す不安によって、それまで笑顔を心がけていた頬がピクピクと震え出してしまうものだから一度、目をつぶる。どうにかして、すぐにこの緊張をほぐさないと。
不安と共に焦りが沸いてきたとき、正面から小さな、けれどハッキリとした声が耳に入る。
「アンリ、堂々と踊れ。俺がアンリに合わせる」
そんな声に落としていた視線を上げると、普段は素直に笑顔を見せないクイニーが微笑んでいた。そんな表情を見ていると、不思議とそれまでの緊張や焦りはどこかに消えていた。
「…うん、ありがとう」
そう笑い返すと同時に演奏が始まった。




