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君の事を何も知らなかった

 この国にやって来たばかりの頃、季節は春のような過ごしやすさだったというのに、あっという間に汗ばむ季節がやってきて最近ではそんな暑さもようやく収まってきた。そんな休日の朝、アンリは今朝も食堂でフレッドと二人、のんびりと朝食を取っていた。


 そんな中、何の前触れも無く背後から扉を開く音がして、アンリとフレッドの間にあった会話も自然と止まった。フレッドはドアを開けた人物を見ると目を見開き、顔を強張らせる。フレッドの視線の先に一足遅れてアンリも目線を向けると扉を開けた人物の正体はお父様とお母様だった。


「旦那様、申し訳ありません」


 フレッドはただ謝ると席を慌ただしく立ち上がり、自分のまだ食べ終わっていない食器をまとめだす。そんな姿にアンリは必死になって言葉を探す。


「フレッドは悪くないの。私が無理を言って、一緒に食べているだけだから」

「いえ、アンリ様のせいではありません。私の気の緩みが原因です」


 二人で必死にそんな事を言っているとお父様達は怒るどころか、二人揃ってより一層優しい笑みを浮かべ、口を開く。


「フレッド、その片付けようとしているお皿を置きなさい」

「そうよ。貴方がアンリと朝食を一緒に取ってはダメなんて、一度も言ったことは無いわ」

「ですが…」

「アンリには普段私達の仕事の都合上、一人で朝食を取らせてしまっているんだもの。ご飯を食べる時はやっぱり一人で食べるより誰かと一緒に楽しんで食べる方が良いわ」

「ほら、分かったら席に座りなさい」

「…はい」


 フレッドは迷いながらも手に持っていたお皿をテーブルに戻し、席に着く。そんな様子を確認すると二人は何をするわけでも無く、そのまま食堂を後にする。それでも何かを思いだしたのか、お母様だけが食堂に戻ってくるとフレッドに声を掛ける。


「フレッド、後で私達のお部屋にいらっしゃい」


 その一言だけを言うとお母様も食堂を出ていった。


 お父様達に咎められなかった事、なにより二人がフレッドの事を認めてくれていると改めて知ることが出来て安心だ。だが急な出来事に気を張った分、なんだか朝から疲れた。

 そんなアンリと違い、フレッドは食事が終わるまで一向に黙り続けた。その表情は一向に変わる事は無いまま、アンリには彼が何を考えているのか、全く想像も付かない。



 今日は前々から一日書庫で過ごすことを決めていた。とは言っても特にやる事があるわけでは無い。ただ久しぶりにゆっくり読書をしたい気分だったのだ。


 朝食の後、いまいち感情の読めないフレッドが気になりながらも「書庫に行ってくるね」と声を掛けた。もちろん初めはフレッドも一緒にと誘ったが、今日はやるべき仕事が溜まっているらしく断られてしまった。


 書庫内はフレッドのお気に入りの場所であり、丁寧に手入れや掃除をしているから埃一つすら漂っていない。


 今日はどんな本を読もうか。ゆっくりと本棚を見て回ると、フレッドがいつも読んでいる書物が集められている本棚の辺りも通り掛かるが、どれも背表紙のタイトルからして難しいモノばかり。


 一応アンリは学園に通って日々授業を受けているし、フレッドよりも一つ年上だ。それでもフレッドの方が断然頭が良いし、時々アンリの勉強の面倒を見てくれる事もある。それはもちろん地頭が良いという要因もあるのだろうが、それ以上に彼自身が努力している姿をアンリは見ている。


 しばらく悩んだ後、ようやく一冊の本に決めた。本当ならこの国の歴史や文化を学べる本を読んで、少しでも知識を吸収するべきなのかもしれないが、やっぱり自分がお話の主人公として知らない世界を疑似体験できる小説が大好きだ。

 窓から入る陽に照らされた席に着くと本の世界にしばらくの間、旅立つ。


 どれくらいの時間、本の世界に居たのだろう。一度にキリの良いところまで読み進めた為、体はガチガチだ。休憩がてら、少し散歩でもしようか。


 書庫を出ると特に目的地も考えずに歩き回る。キッチンに入って新作の焼き菓子を作るルエに会いに行く。

 ルエはいつも通り、焼き菓子が焼き上がると温かい状態のモノを一つ分けてくれる。シーズもそんなアンリとルエの様子を時々遠くから眺めては微笑ましそうに笑う。

 その後も外で洗濯物を干しているメイドの手伝いをしてみたり、庭園にある温室で植物と触れ合ってみたり、厩舎でのんびりと水を飲む馬を眺めたり…。

 そんな風に過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていく。


 そろそろ本の続きでも読もうか、そんな気持ちが湧いて書庫に向かって歩いていると、お父様達の書斎の扉が少しだけ開いていて中から話し声が聞こえる。


「本当にこのままで良いの?」


 どうやらお母様が誰かと話しているらしい。本当は立ち聞きなんて無礼な真似をするつもりなんて無かったし、すぐに通り過ぎるつもりだったが、お母様の声のトーンがいつもと違う気がして足を止めてしまう。


「来年になれば、貴方も爵位を継げるようになるのよ?」

「私は…」


 お母様の声と一緒に聞こえたのはフレッドの声だ。

 でもどうしてか、それ以上は勝手に聞いてはいけない気がして早足に書庫に向かっていた。


 二人のそれまでの会話を聞いていたわけじゃない。だからどんな話の流れなのかなんて分からない。けどお母様は確かにフレッドに「爵位を継げる」と言っていた。一体何の話だったのだろう…。


 その後、お母様はもちろんのこと、フレッドもまるで何も無かったかのようにいつも通り過ごしていた。そんな姿にアンリも何も聞くことが出来なかった。


 だが、この時なにも聞かなかった事をすぐに後悔する事になるなんて、その時のアンリは思ってもみなかった。


      ***


 次の日の朝、いつもフレッドが部屋にやって来る時間になっても、その姿が現れる気配が無い。不思議に思いながら一人で食堂に向かってもその姿は無く、厨房に居るルエやシーズに聞いてみても、今日はまだフレッドには会っていないと言う。


 なんだか胸の奥がザワザワと嫌な音を立て始める。

 大人しく座って待つ事も出来ないアンリは厨房を出ると、足早に階段を登る。使用人達の部屋が並ぶ三階に初めて足を踏み入れると、ルエに教えてもらっていたフレッドの部屋に真っ直ぐに向かう。


 ドアをコンコンと遠慮がちにノックしてみるが、いくら待ってみても返事が無い。勝手に人の部屋のドアを開けても良いのかと悩むも、仕方ないと言い聞かせドアを開ける。


 フレッドの部屋は机とベッドがあるだけで、とてもシンプルな部屋だった。だが、結局肝心のフレッドは居ない。布団もピシッと整えられ皺一つ無い。まるでこの部屋で初めから誰も生活していなかったかのように。


 その後、書庫にも顔を出してみたがやはり誰も居ない。一階、二階と全ての部屋を回ったり、ワインセラーや食料保管庫のある地下にも行ってみたが、やはりどこにも姿が見当たらない。途中ですれ違うメイド達に聞いても誰一人、彼の行方を知る人は居なかった。


 これまでずっと側に居たはずなのに、アンリはフレッドの事をほとんど知らない。それはフレッドが聞き上手でいつもアンリの話を聞いてくれるあまり、彼の話を聞けていなかったからだ。


 唯一、心当たりがあるとすれば昨日のお母様とフレッドがしていた会話だ。どうしてあの時、最後まで話を聞いておかなかったのだろう。

 いくら後悔しても時間は戻ってくれない。急いでお父様とお母様の書斎に歩みを進めた。


 ノックを忘れてドアを開けると今日はお父様の姿が見えず、お母様が一人、椅子に座り頭を抱えていた。お母様のそんな姿を見るのは初めてで、声を掛けても良いものかと迷っているうちにお母様はアンリの存在に気がついた。


「お母様、私聞きたい事が…」

「アンリ、外の空気が吸いたいわ。付き合ってくれる?」


 まるでアンリの言葉を遮るように言ったお母様は、返事を聞く前に部屋を出て行く。

 それ以降、何も話そうとしないお母様の一歩後ろを着いて歩くと、お母様が向かったのはアンリが毎朝の様に訪れているバルコニーだった。


 外に出るとお母様は大きな深呼吸を一つ、こぼす。


「それでお母様…」

「聞きたい事って言うのはあの子、フレッドの事でしょう?」

「え?うん、どこを探してもフレッドが居ないの」


 そう言うと驚く表情も一切見せず、まるで事情を知ってるのか「ごめんなさい」とお母様はただ謝る。どうして謝るのか、お母様は何を知っているのか、アンリには見当もつかない。


「フレッドが居なくなってしまったのは、私のせいかもしれないわ」

「それって昨日、お母様がフレッドと二人で話していた事と関係があるの?」

「あら、聞いていたの?」

「偶然廊下を通り掛かった時に二人で話しているのが聞こえてしまったの。でも全部は聞いて無くて…、お母様が爵位がどうのって話しているのだけ…」

「…そうね。こうなってしまった以上、貴方にも話しておかないといけないわね」

「話すって…、何を?」

「あの子と私達の過去の話よ」

「それが今、フレッドが居なくなってしまった事と関係があるの?」

「えぇ、おそらく」

「お願いお母様、聞かせてちょうだい」

 

 そしてお母様から聞かされた過去というのは、アンリの想像をはるかに超えた内容のモノだった。


「私には昔、姉がいたの。とても優秀で、それでいて誰に対しても優しい人だった。だから自然と誰からも好かれていたの」

「…どうして過去形で話すの?」

「私の姉は十年前、屋敷の火事で亡くなったのよ」

「え…」

「その火事で亡くなったのは姉夫婦と屋敷に仕えていた人達の大半よ。姉夫婦のお屋敷が建っていたのは、この辺りと違ってかなり田舎の地方だったの。だから火事だと気がついても、すぐに消火活動なんてまともに出来なかった。私は姉が亡くなったという知らせを受けてお父様と共に姉の住んでいた地方まで向かったわ。そして悲しんでいる暇も無く、彼女たちのお葬式に参列した。周りには姉夫婦と親交が深かった大勢の参列客がいて、皆揃って涙を流していたわ。…だけどね、ただ一人、まだ十歳にも満たない幼い男の子は涙を押し殺していた。その男の子の事は、顔を合わせたことが無くてもすぐに姉のご子息だと分かったわ。…貴方もここまで聞けば、その男の子が誰か想像がつくでしょう?」

「…その生き残った男の子がフレッド…なの?」

「えぇ、そうよ。あの子の静かに震える背中を見たとき、あの子のことは姉に変わって私達がしっかりと育てると誓ったの」

「…え、でもお母様のお姉様って事はフレッドも貴族の息子でしょう?だけど今のフレッドは…」


 フレッドはアンリの側で仕えてくれている。初めてこの世界で目を覚ましたとき、フレッドはアンリのお世話をメインにしている執事だと確かに名乗っていた。


「えぇそうね。…お葬式が終わった後、私達はあの子に話しかけたの。そしたらそれまで黙っていた彼は静かに『父上や母上が亡くなったのは僕を助けたからです。僕が居なければ二人とも助かっていたのに』と言ったの…。だけどきっと姉夫婦からしてみればあの子だけでも生き残ってくれたこと、喜んでいるはずよ。そんな風に言ってみても小さな彼は一向に話なんて聞こうとしてくれない。それどころかあの子は、これからはオーリン家の使用人として働かせて下さいって言い出すの」


 十年前と言うことはアンリですら十歳に満たない年齢だ。そんな幼いフレッドが一度に両親や使用人を亡くし、子供らしく泣き喚くわけでも無く、ただ一人お葬式でそんな風に言っている姿を想像すると、胸が締め付けられるように苦しくなる。


「もちろん初めは断ったし、お父様もあの子には貴族教育をアンリと共に受けさせようとしたわ。だけどあの子は自分の決めた信念は絶対に曲げない性格だから、私達の話も聞かずに洗濯やら掃除、料理までしようとした。そんな姿に私達は彼の気が済むまで、好きな様にさせようと決めたの。その代わり、子供が家事をこなすのは危ない事もあったし、アンリの事をお願いしたの。とは言っても、アンリの遊び相手になってくれれば良い、それ位にしか考えていなかったわ。…だけどあの子は執事として貴方に関わるようになった。でもそれを本人も望んでいるようだったし、火事であの子が受けたショックは私達も計りきれない。だからこそ、強引に止めることが出来なかった」

「じゃあ昨日の話は…?」

「アンリはこの国の貴族制度、特に爵位の受け継ぎについて知ってるかしら」

「ううん、分からない」

「この国ではね、学園に入学できる年齢にならないと爵位を受け継ぐことが出来ないの。だけどあの子も来年になれば爵位を受け継ぐことが出来る。何よりあの子は昔から勉強する事が好きだったし、私達は当然爵位を受け継いでアンリと同じ学園に入学すると思っていたの。その件で昨日はあの子を呼んだのだけど、あの子は学園には入学しないし、爵位も放棄すると言ってきて…。理由を聞いても詳しくは教えてくれなかったけど、やはり火事のことを今でも引きずってしまっているみたい。それでももう一度考え直して欲しいと伝えたのだけど…、あの子には負担を感じさせてしまったのかもしれないわ」

「どうして今まで教えてくれなかったの…?」

「あの子に口外しないように言われていたの。それを正直に守っていた私達が正しかったのかと聞かれたら、私にも分からないわ。ごめんなさいね、アンリにもこうして迷惑を掛ける形になってしまって…」


 今までお母様がフレッドに向ける表情や言葉が、ただの使用人に向けるモノでは無いと違和感を感じることがあった。特に舞踏会が終わってアンリとフレッドが二人で踊った時や、昨日フレッドと二人で朝食を取っていた時もそう。アンリとフレッドが仲良くしていると、お母様はいつも頬を緩めていた。


 きっとお母様やお父様はフレッドにのびのびと自由に過ごして欲しかったんだ。それでもフレッド本人の意思を尊重するとなると、二人にとっても色々と難しかったのだろう。


「…お母様、私はどうすれば良い?」

「私にも分からないわ。今、お父様が色々な場所に駆け寄ってくれているけど、あの子には身寄りも他に無いはずだし、どこに居るのか見当も付かない…」

「そう…」

「でももしあの子が帰ってきたら、貴方はあの子の側に居てあげてね」


 その日は一日、屋敷の中でいつものように喋り声や笑い声が響くことは無かった。みんな口には出さないが、当たり前の様に毎日一緒に過ごしていた人の消失にそれぞれ思うことがあるのだ。


 アンリも一日、フレッドがいつ帰ってきても良いように玄関の前に座り込んでフレッドの帰りを待ち続けた。時々、時間が空いたルエが横に並んで一緒に待ってくれたりもしたが、肝心の彼が帰ることは無かった。

 

 次の日は学園を休み、フレッドの手掛かりを探すため、ほとんど眠っていない体のまま街中を歩き回った。だがそれまで一人で外を出歩く事の無かったアンリには土地勘があるわけじゃないし、なにより方向音痴のアンリには遠くまで行くことも出来ず収穫はゼロだった。


 そしてフレッドが居なくなって三日目。こんな状態で呑気に学園に行く気にはなれず、今日も昨日に続き自主休講した。そのことについてお母様やお父様は何も言わない。むしろ、ほとんど食事や睡眠を取ろうとしないアンリを心配しているようだ。


 今日も何が出来るわけでも無く、ただ玄関の前で丸くなって座る。

 さすがにこれだけ寝ていないと昼間でも眠くなってくる。眠気に負けてウトウトと首を振っていると、突然ドアが開く。そんな音に一瞬で目が覚めて、目の前に立つシンプルなシャツにジャケット姿の人物の顔を見ると泣きそうになる。


「うそ、本物…?」

「もちろん本物ですよ。…それより、どうしてこんな所に座り込んでいるのですか?」

「そんなの、貴方をずっと待っていたから…」

「申し訳ありません。急に姿を消してしまい…」

「ううん、戻ってきてくれてありがとう」

「私はダメですね。アンリ様にそのような表情をさせてしまうなんて…」

「そんなこと無いよ」


 この三日間、ずっと溢れ出しそうになっていた涙が堰を切ったように溢れ出す。ずっとずっと会いたくて、顔を見たくて、一緒に喋って笑いたかった人が目の前に帰ってきた。

 涙なんて拭わずに、目の前に立つフレッドをもう二度と離さないように力強く抱きしめる。


「アンリ様…?」

「私、お母様からフレッドの事全部聞いたの。過去の事も全て」

「そうですか…。今まで迷惑を掛けないようにと、黙って貰っていたのですが…」

「話してよ」

「え…?」

「勝手に私の迷惑になるだなんて、決めつけないで」

「アンリ様…?」

「私、この三日間ずっと後悔してた。今まで私は自分の話ばっかりで、ろくにフレッドの事を知らなかったんだって。私はあんなにも貴方に助けて貰っていたのに…」


 涙声で声を震わしながら一気にこの三日間ずっと後悔していた事を話すと、黙って聞いていたフレッドはアンリの頭に手を乗せてゆっくりと、優しく撫でる。


「ごめんなさい。私の勝手なエゴでアンリ様を巻き込まないようにと思っていたのですが、そのエゴが逆にアンリ様を苦しめていたのですね…」

「ねぇ、フレッドも来年から学園に通えるのでしょう?」

「えぇ、一応。そうですね」

「じゃあ一緒に通おうよ。フレッドは勉強するのが好きなんでしょう?」

「ですが私には執事としてのお仕事が…」

「私は執事としてフレッドに側に居て欲しいわけじゃないんだよ?ただ、側で一緒に笑っていたいの。それに貴方の将来を私のために諦めるなんて言って欲しくない!なによりフレッドが爵位を継いで学園に通ってこそ、出来る事だってあるでしょう?」


 フレッドはアンリがそこまで言うと押し黙った。そしてしばらく何かを考えるように宙を見つめた後、一つ深呼吸すると再びアンリに向き直った。


「一度、旦那様や奥様と話をしてきます。三日間、屋敷を空けてしまった事も謝らなければなりませんし」

「うん、二人とも心配してたから会ってあげて」


 抱きしめていた腕を名残惜しくも放すと、フレッドは一度お礼を言うと早足にお父様達のいる部屋に向かっていった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。自室で待っていると、顔を出したフレッドの表情は明るかった。

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