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感謝してもしきれない

「ザックくん」


 皆が寝静まった後、ぼんやりとした光を頼りに読書している時だった。それまで一定の間隔で寝息が聞こえるだけの静かな空間に小さく、でも確かに名前が呼ばれた。まるで心臓が飛び出るのでは無いかと思うほど驚きながらも、平静を装って声の聞こえた方向に視線を向けると、そこには枕を抱きしめるアンリが立っていた。


 怖い夢を見たと言うアンリにはひとまず座っているように促し、お茶を淹れるために本を置いて立ち上がる。


 それにしても、先程からアンリは無理に話題を見つけては話を続けようとする。まるで無言の時間を怖がるように。

 余程怖い夢だったのだろうか。先程、席を立つときに一瞬目に入ったアンリの目元には薄らと涙が溜まっていたように見えた。


 しばらく話をしていると詳しくは話そうとしないが、大まかな夢の内容を打ち明けてくれた。それを聞いただけで、これだけ怯えてしまうのが納得出来てしまう様な嫌な夢だ。


「うん…。その夢はもちろん怖かったし、何より世界に私の味方は誰一人居ないんじゃ無いかって…」


 そう言いながら、アンリは枕を抱きしめる力を無意識に強める。


 ザックはアンリを大して知っているわけでは無い。これまで社交界に出ることの無かったアンリを噂で聞くことがあっても、実際にどんな人物なのかを知る機会は無かった。


 学園に入学しアンリと実際に関わるようになって、アンリの幼馴染であるクイニーや学園内で常に行動を共にするミンスに比べたら、まだまだ知らない事だらけだが、それでも彼女が努力家の頑張り屋で、今まで見てきた誰よりも優しい人だというのは分かっている。そしてその優しさ故に、時に自己犠牲に走る事があると言うことも。


 それにアンリがどんな幼少期を過ごし成長し、何を思い、何を感じ、何を考えながら生きてきたのか、ザックには知ることも想像することもできない。だが、それでも分かることはある。


「…じゃあアンリ様は今もこの世界に独りぼっちだと感じるか?」

「ううん。だって今はザックくんが居てくれるから」

「そうか、それなら良かった」

「それにクイニーやミンスくん、屋敷に帰ればお父様にお母様、フレッドやルエも居るもん」

「あぁ、アンリ様には味方がたくさん居る。楽しいことを共有するのはもちろん、怖い想いをしている時に守るのも私達の役目だ」

「私、いっつも守られてばかりだね」

「そんな事はない。みんな、いつもアンリ様には助けられている」

「でも私、何もしてないよ?」

「何か特別な事をしなくても、そこに居てくれる。それだけで大きな支えになってくれていることもあるんだよ」

「そっか、それなら良いな。私にはみんなを物理的に守れる力は無いから」


 そう言いながら枕を抱えていた腕の力を緩めると安心したのか、ようやく強張っていた体の力も抜けたようだ。


 だが、それでも一人で眠るのは怖いのか、ソファーで睡眠を取ろうとする。さすがにご令嬢をこんな場所で寝かせるわけにいかないが、それを断ると今度は寝室の明かりを付けて眠ると言い出す。だがどちらにしても、疲れは十分に取れないだろう。

 なんて、普段あまり睡眠を好んで取ろうとしないザックに言われても、説得力は無いかも知れないが。


「仕方ない。今日は特別に寝かしつけてやるか。それなら怖くないだろう?」


 本来ならいくら寝かしつけるだけとは言っても、同じ寝室に男女がいるのは好ましい状況では無いのは分かっている。だが、このままではアンリは大人しく眠ってくれないだろう。それにあくまでアンリが眠りにつくまでだ。


 暗闇の中、アンリが布団に入ったことを確認すると邪魔にならない程度の場所に腰掛ける。


「ザックくん、ちゃんと居る?」


 ようやく目が慣れてきた頃、少し不安そうな声を出すアンリを見るとザックがどこに居るのか分かっていないのか、キョロキョロと辺りを見渡している。


「あぁ、ここに居る。…まだ目が慣れないのか?」

「うん。お願いだから、私が眠るまでどこにも行かないでね」

「分かっている。ほら、ゆっくりと目をつぶって」

「…ねぇ、背中トントンして欲しい」

「背中?ほんとアンリ様はミンスにそっくりだな」


 ほんと、ミンスにそっくりだ。

 幼馴染だったミンスとは互いの屋敷が近かったこともあり、幼い頃から二人で良く遊んだりお泊りをしていた。と言っても、大抵はミンスが勝手に泊まりに来る事がほとんどだったのだが。


 二人で並んで眠りにつくと、ミンスは良くない夢を見るたび、決まってザックを起こし泣きながら夢の内容を話すのだ。そして再び眠りにつく時は背中をトントンするように頼まれるまでがお決まりだ。


 ゆったりとしたテンポで布団越しにトントンと振動を与える。それが落ち着くのか、次第に顔をほころばせると、すぐに小さな寝息が聞こえ始める。


「…もう寝たのか?今度は良い夢が見られると良いな」


 経験上、眠りについた直後に背中をトントンしていた手を止めると目を覚ます可能性がある。しばらく手を動かし続けると本格的に深い眠りに入ったのか、何か寝言を発している。その声はあまりに小さく聞き取れないが、表情からして悪い夢では無いらしい。それが分かれば、ひとまず安心だ。


 アンリは先程、あんな風に言っていたがザックは彼女に対し、本当に色々な事で感謝している。特にミンスの事を大切にしてくれている事に関しては感謝してもしきれない。


 初めてミンスに出会ってからというものミンスはザックにべったりで、どんな時でも常に二人一緒に居るのが当たり前だった。にも関わらず学園に入学が決まるとザックはアドバンスレベル、ミンスはベーシックレベルと互いに別のレベルに入学する事になった。つまりそれは強制的に離れる時間が増える、ということ。


 ミンスは昔から誰とでも話せる奴だったし、その面で心配することは無かったが、人を信じやすい分、傷ついてしまう姿を何度も見てきた。それによって一時期は塞ぎ込んでいたこともある。だからこそ、ミンスの側にはミンスの事を絶対に傷付けない人に居て欲しかった。


 そしてやって来た入学の日、ミンスは新しい友達が出来たと嬉しそうな顔でアンリを連れてきた。正直、初めはまさかオーリン伯爵のご令嬢を連れてきた事実に驚いたが、その後交わした会話や表情でアンリが悪い人では無いと確信し、それと同時に安心したのだ。


 アンリはミンスを始め、クイニーやザックの事を大切にしてくれている。それは関わっていれば十分伝わってくる。だからこそ、彼女のことを大切にしたいと思うし、少しでも力になりたいと思わせるのだ。

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