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忘れられない記憶

「ねぇお母さん。これ、どっちがいいと思う?」

「…」

「ねぇってば」

「うるさいわね、そんなのどっちでも良いじゃない!それくらい自分で決めなさい!貴方の優柔不断なところ、本当に悪いところよ」


 グサリと胸の辺りに透明の刃が突き刺さる。そんな痛みを無視し、持っていたスマホを力強く握りしめると、適当な笑みを浮かべて自室に戻っていく。


 マンションのくせに壁が薄いこの家では自室に居てもリビングの声なんて丸聞こえだ。さっきまであんな罵声をあげていたお母さんと妹が楽しそうに喋る声もバッチリ聞こえる。


「ねぇお母さん。見てみて、私の好きなグループが写真集を出すんだって」

「誕生日は来週でしょ?その時にお願いすれば良いじゃない」

「ダメだよ。誕生日には新しいゲームを買って貰うんだから」

「もう、仕方ない子ね。分かったわ、お母さんの方からお父さんに、さり気なく伝えてみるわ」

「わーい、ありがとう」


 なんで?どうして同じ姉妹なのに、こんなにもお母さんの対応が違うの?


 あの優しい声が暗璃に向けられたのはいつだろう。それすらも思い出せない。

 何が悪かったんだろう。今までずっとお母さん達の機嫌を損ねないようにワガママも言ったことが無いし、反抗だって一度もした事がないのに。


 声が無くなれば良いのに。聴力が無くなれば良いのに。

 声が無ければ無性に話を聞いて欲しいと思うことも無くなるし、聴力が無くなれば妹とお母さんの会話を聞いてこんなにもモヤつく事も無いのに。


 それか感情そのものが無くなれば楽なのだろうか。いちいち苦しむことも、悩むことも無くなりそうだ。

 どうしてこの世界はこんなにも生きづらいのだろう。


「あぁダメだ」


 こんなに部屋にこもっていても、どんどんマイナス思考になるだけ。確か今日は半年間待ち続けた漫画の最新刊が発売される日だ。いちいち着替えて駅前に向かうのは面倒だけど、家に居るよりマシだ。


 急いで身支度を調えると最低限の荷物をまとめて廊下を出る。玄関で靴を履いていると、偶然リビングから出てきてしまった妹が暗璃にゴミを見るような視線を向ける。


「うざ」

 

 そんな幼稚な悪口を廊下に残すと、妹は自分の部屋に入っていく。


 一体どうして暗璃の姿を見ただけで、そんな発言が出てくるのか理解できないが、そんなの今さら考える方が無駄だ。


 暗璃と妹は姉妹なのに、どこも似ていない。顔の作りや雰囲気、性格や考え方だって正反対。何をとっても妹の方が今の世の中で得をする。


 溜息を一つ落として家を出ると、汚いドロドロとした感情を吐き出そうと深呼吸してみる。


「よし、もう大丈夫」


 だがその後も暗璃には悪い事ばかりが降りかかる。


 住宅街の細い道を歩いていると向かい側から女子高生三人組が道の端から端まで広がって歩いてくる。内心では邪魔だなと思いつつも、仕方なく壁に肩が擦れるほどまで避けた。にもかかわらず「邪魔なんだけど」とそれまで笑っていた女子高生はジロッと睨んでくる。


 なんとか駅前に辿り着くと駅前では金髪に染めた派手な格好の陽キャ達が周りの目なんて気にせずに大声で騒いでいる。うるさいなと思いつつも、存在を消して近くを通り過ぎる。にも関わらずその集団は暗璃を指さすと、まっすぐに近づいてきて揶揄うような口調で話しかけてくる。


「ねぇねぇ、君高校生だよね?こんな昼間からそんなネガティブオーラ全開で歩かれると気になるんだけど」

「ってか、この辺りの高校生って顔面偏差値が高いイメージだったんだけど」

「あはは、確かに」


 明らかに馬鹿にしている。そんな彼らに言われなくても自分が可愛くない事くらい、ずっと前から自覚している。


 とりあえずひたすら無視。こういう人間は何か反応をしてしまえば、余計に調子になるんだ。

 そんな風に自分に言い聞かせると暗璃はスタスタと目的地の書店まで足を動かす。が、どうしても暗璃より足の長い彼らは簡単に追い掛けてくる。


 あぁもう、どうして私なんかに構うのかな。可愛くないと思うなら、放って置けば良いのに。


「君、つれないねぇ」

「君みたいな陰キャは人の言う事を聞いて過ごしていれば良いんだよ。俺らの引き立て役以外に君みたいな子が役に立つ場面なんて無いんだから」


 無視無視、何も聞こえない。ただただ無表情で足を動かし続ける。こんな事ならイヤホンでも持って来れば良かった。


 あまりに無視を続ける暗璃にさすがに嫌気が差したのか男達は「チッ」っと舌打ちすると強引に腕を掴んでくる。男の無駄に長い爪が腕に食い込んで痛い。


 暗璃は足を止めて腕を掴んでいる男を睨む。するとそれが悪かったのか、余計に機嫌を悪くした男は「来い!」と腕を引っ張るとそのまま暗璃を引きずって歩く。どんなに抵抗しようにも、力の無い暗璃が男の力に叶うはずもない。


 周りはそんな光景に気がついているはずなのに、誰一人助けに来るどころか、みんなして見て見ぬふり。


 腕を引かれるまま駅前の人通りの多い空間から猫一匹すら居ない静かな路地裏に連れ込まれてしまった。

 そろそろ本気でまずいかもしれない。そう心の中で分かっていても、心臓が嫌なリズムで鼓動を打つだけで声も出なければ打開策なんて何も思いつかない。


 そしてついに路地裏の奥、行き止まりに辿り着くとかなり古いバーのドアに体を強く押し付けられる。男達は暗璃が逃げられないように立つとニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべる。そんな不気味な笑みに背筋に寒気が走る。


「お、ようやく君も怖くなってきたのかな。せっかく俺たちが話しかけてあげたのに、無視する君が悪いんだからね?」

「でもこの子の顔、本当に微妙だよな。せっかくここまで連れてきたのに」

「だな。でもだからこそ、男慣れしてねぇんじゃね?ほら、俺らに囲まれただけで固まって声も出ねぇみたいだし」

「あはは、ウケる」


 閑散とした路地裏に下品な男の笑い声が響き渡る。

 考えたくもないが、一体どうなってしまうんだろうか…。


 そんな風に思っているときだった。丁度男が暗璃の肩に手を乗せようとしたタイミングで背後のドアがギィと錆び付いた音を立てる。ドアを開けたのは白髪が綺麗に整えられたお爺さんだ。


 お爺さんは暗璃の置かれている状況をすぐに察したのか「おい、君たち!」と見た目に似合わない声を上げる。すると驚きで静止していた男達は「やべっ」と声を出すと慌てたように一目散に逃げていく。


「待ちなさい!」


 男達に解放されて安心したのか一気に足の力が抜けてしまう。するとそれまで怒りの声を出していたお爺さんが目の前にしゃがみ込む。


「君、大丈夫だったかい?」


 お爺さんの優しい声が心に染みたのか、目には涙が溜まり、喉からはヒューヒューと空気が通る音が鳴りだし、体にも全く力が入らない。


「もう大丈夫だから、落ち着きなさい。ほら、ゆっくりと私の真似をして呼吸してごらん」

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