表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/31

三章 抱いた気持ち


(1)


 久世の配属から二ヶ月が経ち、以前私が担当していたクライアントの引き続きも終わり、久世自身が獲得してきた新規企業への訪問も順調に見られるようになった。提案や成約に至るペースもすでに新人とは思えないものがあり、とはいえキーマンとの商談や詰めの打ち合わせの際など必要な場面では抜かりなく私の同行を求める。忙しいとどうにも疎かになりがちな訪問内容をしたためる日報も、久世は欠かすことなく提出していた。


 マジで仕事出来てマジで助かる。

 この頃ともなると、私は素直にそれを認め彼が出来るところは任せて、彼の指導やサポートに割いていた時間を減らしていた他のメンバーへのフォローと自分自身の営業活動に充てるようになった。


「寂しいです」


 と、ストレートに不満を訴えてきた久世には、週に一度どこかで必ずランチを一緒にして話をする時間を設けることを提案するとあっさり解消された。これはもちろん業務に必要なことで、トータル削られた時間はランチ一回と比べるまでもないはずだが、納得してもらえたのなら言うことはない。

 

 けれど──。

 久世自身は出来るやつでも、周りはそうとは限らない。これまで彼を巡って起きたトラブルの原因を忘れていた私が愚かだったのだ。


「は? 日程間違えてた?」


 私から久世に引き継いで担当変更となった電子機器メーカーは、久世の担当しているクライアントの中でも取引額がかなり大きな重要顧客という位置づけだった。私が長らく担当していたが、信頼関係も良好でうちの親会社も経営面でのコンサルティングで深い関わりがあるから、早々落ちるような心配もない。

 先方にはチーム体制の強化と告げ、窓口を久世として、後ろに下がった私も関与しながら緩やかな移行を目指すことにしたのである。


 慎重になるにはわけがあった。

 向こうの担当者と私の折り合いがぶっちゃけよろしくない。先方の窓口であり意思決定のキーマンでもある剣持氏は、身なりが良くて高級スーツに高級時計と高そうな靴で常に身を固める仕事の出来そうな御仁だが、かなりの女好きのようで、登場してきた二年ほど前から私をやたらとプライベートに誘ってくる。こちらとしてもなるべく独りで打ち合わせにいかない、谷原さんを出す、携帯端末の番号を教えないといった対策は取ったものの攻勢は止まず、取引内容も複雑だったためにおいそれと誰かに引き継ぐことも出来ずにいた。


 あまりにしつこいから、一度だけ彼の前任で私と仲の良かった女性担当者も一緒ならと食事に応じたものの、それをきっかけに冗長させてしまった。気があって個人的も連絡を取り合うようになった女性担当者からは「羽多野さんマジでタゲられてます、気をつけて」と言われ、ありがたくも彼女が社内で色々とカバーに動いてくれていたが、その彼女もこの春から産休に入ったために、私もいよいよ担当としては手を引くことを考えたのだ。


 統括の谷原さんもこの件には賛成で、どうせなら久世にどうだと言ってくれ、他のチームに託すよりは確かにいいと私も判断した。久世なら取引内容もきちと把握してとり回せるし、社内の関係調整も問題なさそうで、ついでに剣持相手にも堂々として引けを取らない。


 この時期、先方社内ではうちの講師が出張って管理職向けの研修をいくつか行うことが通例となっている。内容は例年通りとあって、顔なじみの講師も同席だからとこの一連の打ち合わせに私は参加しなかった。やり取りのメールには全てCCで入って目を通していたし、久世の報告にも問題はなく、講師の田仲先生からも「久世くん、かなり優秀ね」とお墨付きをもらった。

 先週、ひとつ目の研修が恙無く終了し、私は完全に油断していた。


「剣持さんが、明後日予定のコーチング研修を明日の日付で告知してたそうで、内容も昨年と一緒では了承出来ないから変えて欲しいと──」


 剣持から久世宛に届いたというメールを私は見ていない。

 野本さん担当のクライアント事由で起きたトラブルのカバーで、私は昨日から福岡と大阪に飛んでおり、久世にも名古屋に向かってもらってなんとか解決し、共に先ほどオフィスに戻ったばかりだ。こっちで出来る限り奔走してくれた野本さんと解決を喜ぶ間もなく、久世からもたらされたその報告に、私は一瞬頭が白くなった。時刻はすでに昼を過ぎている。


「やられた……これだけ細かいやり取りしておいて、あの人がそんな凡ミスするわけない。私を宛先に入れてないのもわざとでしょ」


 すぐさま久世から剣持に電話をさせると、向こうはいくらもしないうちに私に代わるよう言ってきた。


「お電話代わりました、羽多野です。剣持さん、これはどういう」

『羽多野さん、本当に申し訳ない。完全に私のミスです。部下が社内へ伝達する際にコーチングの日程だけ誤って伝わってしまっていたようで、なんとお詫びしたらいいか』


 過剰なほどの取り乱した口調で剣持は謝罪を口にした。


「恐縮ですが、ご参加予定の方に、予定通りの日程に変更する旨のご連絡をしていただくわけにはいきませんか?」

『今となってそれは難しい。遠方の支社から参加される方も複数名いて、すでに前泊の手配もして頂いている。それを前日になって今更一日後ろに倒してもらうことがどういう混乱と損益を産むか、羽多野さんなら汲んでくださるはずだ』

「……であれば、せめてプログラムは例年通りそのままということには?」

『メールにも書きましたが昨年振り返りをした際、色々とブラッシュアップしたい点をお話したじゃないですか。明日は弊社の人事部長も見学にくる予定なんです。去年、ご挨拶させて頂きましたよね。部長も御社には期待と信頼を寄せている。それなのに毎年同じ内容では能がないと思われてしまうでしょう。プログラムの改定費用なら予算を調整して用意出来ましたから、できる限り間に合わせてください』

「ですが、明日となると」

『久世さんにも改定の件は伝えていましたよ。曖昧な言い方になってしまったかもしれないが、確認が漏れたのは彼の落ち度でしょう。彼とはどうも意思疎通がスムーズにいかないようだ。新人のくせに羽多野さんを打ち合わせに同席させないというのは自分の能力を過信されているのでは?』

「打ち合わせには講師の田仲が同席しております」

『もちろん、田仲先生のことは頼りにしています。でも実務面を取りまわすのは彼なんですよね? あまりにも素敵な方だ。先日研修にいらした際は弊社内でちょっとした騒ぎになりましてね。おそらく明日の見学者も多くなるでしょう。弊社の業務や研修運営に支障が出るようなら、契約継続に当たっては担当をまた羽多野さんに戻して頂くことを要求しますよ。私はあなたのことは信用していますから、個人的にも』

「……一時間だけ時間をください。明日の実施が可能なよう社内調整のうえ、改めてご連絡申し上げます」


 電話を切り、ため息と共に両手で顔を覆って目頭を抑える。そうでもしないと舌打ちをこぼしそうだった。


「羽多野さん……すみません、僕が」

「ダメ。断じて久世のせいじゃないから謝る必要はない。むしろ──私のせいだよ。去年の実施した後、確かにいくつかブラッシュアップしたいみたいな議論をした」

「それは引き継ぎのメモにありましたから僕も承知してますし、打ち合わせの時に話もしました。でも、プログラム改定に費用がかかるなら今年は見送ると剣持さんは言ってて、講師の田仲先生だってそれは聞いていたはずです」

「向こうとしては、部長の手前やらなきゃいけないって流れにしたいんでしょ。何が曖昧な言い方になってしまったかも、だ。予算さえ都合がつけばすぐにでもとか、必ずやりたいみたいなことボヤいてなかった?」

「……それは、確かにそういう独り言みたいなことは言ってた気が」

「私が打ち合わせに来ないことについてはなんか言ってた?」

「はい……毎回、羽多野さんがいないことネチネチ言って。羽多野さんとは個人的な付き合いもあるのに、とか。田仲先生がうまくいなしてくださっていて、訪問記録には必要ない部分だと判断して記載していませんでした」

「判断としては正しいし、聞きたくもないことだけど。向こうがヤバイこと言ってるっていうのは都度報告してほしい。こっちから担当変更を求める切り札になるから」

「すみません」


 陰険クソ野郎め。

 忌々しい顔つきが思い起こされるが、そんなことをしている場合ではない。


「羽多野さん……」

「田仲先生って、明日まで仙台だよね」

「はい」


 社内の管理ツールで他に講師として宛に出来そうな人がいないかスケジュールを確認したが、都合がつきそうでしかも今から内容変更に耐えられそうな人は残念ながら見当たらない。


「……久世、明日の予定は?」

「午前中に一件、訪問があって、他は資料作成と研修の準備に宛てる予定でした」

「悪いけど、その訪問リスケして。私も空ける」


 明日は野本さんと水野くんの案件に同行の予定だった。彼らに目を向ければ、ふたりともすぐに「ひとりで行けます」と頷いてくれる。


「ありがとう。──久世」

「はい!」

「明日の研修は私たちでやる。上等でしょう。向こうの凡ミスはこっちのチャンス。上手いことやって、この先三年の契約くらいは約束してもらおうじゃあねぇの」

「はい! え、でも、講師は?」

「ここにいますよ」言って私は自分の胸を示す。「何年この仕事やってると思ってんだ、──任せな」


 頬を赤らめ惚ける久世を促して、すぐさま谷原統括マネージャーにことの次第を報告し了承を得る。

 講師予定だった田仲先生には久世から連絡を入れてもらい、次に、谷原さんも伴って研修部門の部長と情報を共有。プログラムの再調整に当たって必要な資料や情報を全面的に提供してもらえるよう話を取り付けたうえ、改定費は吹っかけることにした。


 あれこれやってギリギリ一時間後には、見積書とともに剣持からの要望を踏まえたプログラムの草案を提出することができた。剣持は見積金額にやや抵抗があったようだが、さすが決裁権を持つ相手とあって電話口で了承を告げた。


 ここから私と久世は、発注に向けた手続きと並行して、ミーティングルームに籠り、ひたすら研修の内容を詰めて提示するスライドや資料を作成する作業に時間を費やした。

 夜になって相田さんや喜田川が夕飯を差し入れてくれたし、心配した田仲先生は、わざわざ出張先のホテルからオンラインの会議システムにログインしてくれ、アドバイスと共に内容も遅くまでチェックしてくれた。


「真咲さーん! 印刷、全部終わりました!」

「やったー! えらーい! ヨシヨシしてやる、こい久世ッ!」

「へぇん、真咲さん大好き! 結婚しよ!」

「それについての返答は差し控えさせていただきます」

「ドライ!」


 ぶち上がるテンションのまま準備が終わったのは午前一時も過ぎたころ。ふたりともすでに目の疲労感が限界で、タクシーを拾って乗り込んでからはほぼ無言まで落ち込み、自宅マンションの前で先に降りた私は、後部座席のぼんやりする久世をドア越しに覗き込んだ。


「久世、とりあえず少しでも寝て、いつものバッチバチにイケてる顔作っておいてね」

「どのくらい……?」

「東京ドームで単独ライブ」

「え、がん……頑張ります……」

「うん。ふたりで頑張ろ。おやすみ」

「おやすみなさ……あ、あの! 真咲さん!」

「どした?」

「お、起きられるか心配です」

「じゃあ、とりあえず六時……いや、六時半に電話する。それでいい? というか、私から連絡なかったら久世が私のこと起こして。頼むぞ。我々は運命共同体だ」

「わかりました」


ようやく笑った久世に私も笑みを返し、走り出したタクシーを見送る。昨日まで出張だったから荷物が入ったバッグが重い。むくんだ足もまた鈍りのように重かった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ