(3)ヤバい男を牽制
(3)
ノリできたと豪語する田仲先生と久世のサプライズ登場に懇親会は大いに盛り上がった。二次会の誘いを断って田仲先生は私の代わりに谷原さんと予約してあるビジネスホテルに向かい、私は宛があるという久世と共に見慣れない繁華街をスマホの地図アプリを頼りに歩いた。そして到着した先は──
「ラブホかい!」
「はい。ここ清潔で設備もいいってレビューサイトにありました。手頃ですし、予約いらないしお風呂あって大きいベッドで眠れるし、俺と真咲さんはほくろの位置まで把握しあった入籍間近の恋人です。何か問題あります?」
「いやない。なんもないけど、ほくろの位置って?」
「とても深い仲であるという意味です。とはいえ真咲さんめっちゃえっちな場所にほくろあるから、後で教えてあげますね」
「いやいいよ!」
「まぁ俺だけが知ってるってのもアリか」
入る前にコンビニで久世の下着や替えのシャツを買い、不思議とドギマギしながらドアを開けたホテルの部屋は、シングルのビジネスホテルよりずっと広かった。
荷物を置いた途端、背中に感じた軽い衝撃と温もりに、忘れていた涙がまたじわりと滲む。私からしがみつくように抱きつくと、久世は綺麗な顔を苦しそうに歪めて口付けてきた。
「……航汰」
「泣かないで、真咲さん。もう大丈夫だから」
目の端にキスをされ、瞼を閉じれば眉間にも温かいものが優しく触れた。
「航汰……。私、すごく嫌だったし、腹が立って……でもそれ以上に、航汰が来てくれて本当に嬉しかった。本当に……」
「来るよ。守るって言ったでしょ?」
何度も頷いて、目元を拭う優しい手に頬を擦り寄せる。
「仕事はちゃんとやって来たんですよ。俺、朝からずっとイライラして落ち着かなくて、それでもいつもの外面貼り付けてやってたつもりだったんです。なのに、昼の休憩の時に、田仲先生に見抜かれて。あらそんなの行っちゃえばいいじゃない、わたしも行くわーって。そこからは俺も田仲先生もテンション上がりまくりで、講師もばっちりやってやりました」
「さすが」
「本当に来てよかった。真咲さんの声聞いた瞬間カッとなって、殴りかかるつもりだったんです、人なんて殴ったことないんですけど。でもその瞬間、田仲先生に思いっきり袖掴まれて我に返りました。あの場で殴っても俺に損しかない」
「うん。それが正解。あんな人殴って、航汰が傷つくなんてヤダよ。絶対やだ」
「谷原さんのことはあのやり手の魔女に任せましょう」
「ありがと、航汰」
唇を重ね、一度は離れたそれに私は自分からまた吸い付いた。キスを深めながらジャケットを脱がせネクタイを解くと、久世をベッドに押し倒す。
「疲れてるよね。明日だって早いんだし、このままお風呂入ってよく休んだ方がいいってわかってる。でも──航汰」
「真咲さん」
「私がするから、許して。いまは、航汰のことだけ考えてたい」
「俺も同じ。ふたりで愛し合わないと」
腕を引かれて私は久世の上に倒れ込み、貪るようにキスを交わした。
「愛してる、真咲さん」
「私も。航汰だけ」
何もかも乱れることも構わず交わって、わずかの微睡みの後、飛び乗った始発の新幹線で私たちは肩を寄せあい、終着までほとんど気絶するように眠った。
*
田仲先生のおかげか、谷原さんは急に大人しくなった。
私を呼びつける頻度も他の人と同じくらい、つまり以前と同様になり、いっそそっけないと感じるほどのもので、田仲先生に相当やり込められたか脅しをかけられたのだろうと察した。
落ち着いたのか何なのかいまひとつ腑に落ちないままだったが、その間に、私は両親に久世を結婚相手として紹介する機会を持った。
事前に何度か電話でやりとりした限りでは、急すぎるだの私のほうが年上であることなどを母からグチグチ言われたものの、久しぶりに訪れた実家の玄関先に立った久世を一目見た途端、輝きに言葉を失った彼らの姿は正直なところ痛快だった。ちなみに私も横で流れ弾を何度かくらい目が焼けた。
実の母とは幼いころに死に分かれており、父とは疎遠であるために両家の顔合わせは実現しないかもしれない。不義理を申し訳なく思うも、自分としては久世の姓に拘りはなく、ただただ羽多野真咲という女性と生涯を共にするために結婚の許しをいただきたい。翳りと覚悟と未来への期待をにじませ、俳優顔負けで切々と訴えた久世航汰を前に、否と言える親などどこにいよう。
ともかくもこれで、入籍にあたる私側の問題はすべてクリアした。
残るは久世側。疎遠とはいえ、父親とまったくの没交渉というわけでもないようで、私は久世さえよければ挨拶だけでもさせてほしいと伝えてあった。父親について話す久世を見ている限り、その存在から逃れたいとか嫌悪しているようには見えなかった。
「たぶん、結婚しますといっても、好きにしろって言われるだけだと思います。関係ないからって」
諦めている──彼が父に抱いている感覚は、言葉にするならそれに近い。
私に聖人を気取るつもりはないから、これを機にお父様と航汰との仲を少しでも和らげることができたら、などとは思っていない。なぜなら当人にその気がないのに、同じことを私がされたら大きなお世話だと思うからだ。
あちらの親御さんとご挨拶もしないだなんて、と普通にこだわる私の親は憂いを帯びた久世の顔ひとつで黙らせることができるとわかったから、久世が躊躇うようであれば彼の父へは事後報告で構わないとも告げた。
入籍へのステップがひとつ進み、谷原さんが大人しくなって、その状況が私に少しの隙を生んだ。
その日、久世は帰りがけにいくつか秘密の予定があると言うので、喜田川が送ってくれることになっていた。
──真咲さんのこと喜ばせたいので内容は秘密なんですけど、言わないと不安だと思うので秘密の予定がふたつあるってことだけ伝えておきます。そのうち秘密一のほうは、家帰ったらすぐ報告しますね!
久世はそんなことを言っていた。秘密二はいつ明かされるのかよくわからなかったが、とりあえず律儀な男である。
谷原さんも大人しくなったのだし、この送り迎え制度も終わらせていいのではないかと思っていた。朝はともかく、帰りの時間を誰かと合わせなくてはならないというのは、結構調整がいることで、私に突発的な残業が発生したりすると近くのカフェで待っていてもらったりと何やら申し訳ない気になるのだ。
定時から間もなくオフィスを後にした久世を見送って、しばらく残業した後、喜田川と揃って癒えることのない眼精疲労に唸りながら、オフィスの入るビルを出た。
「なぁ、飯食って帰ろうぜ。そのくらいの寄り道許されんだろ?」
「うん、いいよ。連絡ないから航──、久世の予定まだ終わらないみたいだし」
「ほおん? 真咲ちゃん、プライベートだと久世のことなんて呼んでんのかおせーて?」
「……航汰」
「……ちと、俺のことも名前で呼んでくんね」
「飯行こうぜ、タモツ」
何かが違ったようで喜田川は首を傾げながら「別にこれもいいか」と自分ひとりで納得した。
「つーかさ、最近新たなうまい店を発見した」
「何系?」
「中華」
よし行こうと返したところで喜田川のスマホが着信を告げた。
「げ、んだよこの時間に……」
「ここで待ってるから出てきなよ」
軽い謝罪と共に片手を上げて、喜田川は機体を耳に当てた。通りを行きかう車の音が雑音になるのか、喜田川は背中を向けて少しだけビルの影に入る。肩を叩かれたのはその時だった。
「お疲れさま、羽多野」