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新たなる夜明けへの道  作者: 冷やし中華はじめました


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新たなる夜明けへの道

プロローグ:終わりの始まり

 その日、帝都イスカンダルの空は、鉛を流したような重い灰色に覆われていた。  皇帝宮殿の「碧玉の間」。  豪奢な天蓋付きの寝台に、皇帝ヴァレリアン三世の遺体が横たわっている。その顔は穏やかだったが、痩せこけた頬は、彼が背負ってきた帝国の重圧を物語っていた。


 オクタヴィアン、セバスチャン、アウレリアの三人は、父の冷たくなった手を握りしめ、言葉もなく立ち尽くしていた。  涙は枯れていた。彼らに哀悼の時間は許されていなかったからだ。


 ゴォォォォォォン……。  ゴォォォォォォン……。


 帝都中の鐘楼が、一斉に鳴り響いている。  それは皇帝の崩御を悼む弔鐘ではない。  敵襲を告げる、非常呼集の警鐘だった。


「……来たか」  オクタヴィアンが低く呟き、窓へと歩み寄った。  眼下に広がる帝都の北、地平線の彼方が黒く染まっている。  雨雲ではない。  土煙だ。数万の軍靴が大地を叩き、巨大な鉄の奔流となって帝都へ押し寄せているのだ。


 ガリア総督マクシムス率いる、反乱軍五万。  対する帝都防衛軍は、昨夜の混乱と疲労で満身創痍のわずか五千。  十倍の兵力差。  それは戦争と呼ぶにはあまりに一方的な、帝国の処刑執行人の行進だった。

第一章:絶望の方程式

 宮殿の地下にある作戦会議室。  かつては世界地図を広げ、侵略の計画を立てていたこの場所は今、生存のための最後の砦となっていた。  巨大な円卓を囲むのは、三人の皇族と宰相マルクス、そして特別に同席を許された革命家カシウスである。


「状況は絶望的だ」  近衛軍団の参謀が、震える手で戦況図に駒を置いた。 「敵の前衛部隊はすでに北門から十キロの地点に到達。本隊も夕刻には到着します。完全に包囲されました」


 重苦しい沈黙が部屋を支配する。  第一皇子オクタヴィアンが、ドンッ!と拳を机に叩きつけた。 「城壁にこもって耐えるしかない! 帝都の城壁は三重だ。兵糧攻めに持ち込めば……」


「持ちませんよ、兄上」  第二皇子セバスチャンが、冷ややかな声で遮った。 「昨夜、私が貴族から巻き上げた食料は、あくまで『市民の飢餓対策』です。長期の籠城戦を支えるだけの備蓄はありません。それに……」  セバスチャンはカシウスの方を見た。 「市民の士気も限界です。彼らはパンを得て落ち着きましたが、戦争となれば話は別だ。『マクシムスに降伏すれば助かるのではないか』という空気が蔓延すれば、内部から崩れます」


「ではどうしろと言うんだ!」オクタヴィアンが吠える。「座して死を待つか! それとも白旗を揚げて、マクシムスの靴を舐めるか!」


「……降伏勧告が来ています」  宰相マルクスが、一枚の書状を差し出した。  そこには、マクシムスの署名と共に、簡潔な条件が記されていた。


 一、皇帝位の廃止。  二、元老院および貴族院の解体。  三、全皇族の国外追放、もしくは処刑。


「ふざけるなッ!」  オクタヴィアンが書状を引き裂いた。「帝国の歴史を終わらせる気か! 奴は革命家気取りだが、やろうとしていることは単なる簒奪さんだつだ!」


「いいえ、兄上。マクシムスは本気です」  静かに口を開いたのは、第三皇女アウレリアだった。 「彼は、私たちが為し得なかった『腐敗の清算』を、暴力によって完遂しようとしているのです。彼にとって私たちは、病巣そのものなのですから」


 アウレリアの言葉に、カシウスが頷いた。 「民衆の一部は、マクシムスを英雄視している。彼が掲げる『地方の解放』と『貴族政治の打破』は、俺たちが訴えてきたことと同じだ。……皮肉な話だがな」


 カシウスは苦い顔をした。 「だが、奴のやり方は劇薬だ。帝都を焼き払い、古い血をすべて流し尽くすつもりだ。そうなれば、この国は今後百年、復興できない廃墟になる」


 武力でも勝てない。  大義名分でも分が悪い。  八方塞がりだった。誰もが口をつぐみ、死の足音を聞いていた。


 その時。  アウレリアが、ふと顔を上げた。その瞳に、閃光のような光が宿っていた。


「……大義名分」  彼女は呟いた。 「そうです。マクシムスの武器は、兵力だけではありません。『正義』です。『腐敗した帝都を討つ』という正義こそが、五万の兵を動かしているのです」


「それがどうした?」オクタヴィアンがいら立つ。


「逆転させるのです」アウレリアは立ち上がった。「もし、帝都がもう『腐敗していない』としたら? 私たちがすでに改革を成し遂げ、新しい国へと生まれ変わろうとしていることを証明できれば……彼の『正義』は消滅します」


「証明だと?」セバスチャンが眉をひそめる。「戦場の真ん中で、論文でも発表するつもりか?」


「いいえ」  アウレリアは、円卓の上に手を置いた。 「総力戦です。私たちが持つすべてのカードを切るのです」


 彼女はオクタヴィアンを見た。 「兄上、軍を率いて城壁を守り抜いてください。一歩も引かず、時間を稼いでください」


 次にセバスチャンを見た。 「セバスチャン兄様、あなたの交渉力と資金力で、敵の足元を崩してください。敵の胃袋を握っているのは誰か、ご存知のはずです」


 そして最後に、カシウスを見た。 「カシウス、私と一緒に死地へ向かってくれますか? 敵兵の心に、言葉の矢を放つのです」


 三人の男たちは、呆気にとられたようにアウレリアを見つめた。  無謀だ。あまりにも現実離れした理想論だ。  だが、その無謀な策だけが、唯一の「希望」に見えた。


 オクタヴィアンが、ニヤリと獰猛に笑った。 「……面白い。マクシムスの鼻を明かしてやるか。俺はまだ、昨日の泥試合の借りを返していないからな」


 セバスチャンが肩をすくめた。 「金のかかる作戦だ。成功した暁には、私の銅像を純金で建ててもらうぞ」


 カシウスは、愛おしそうにアウレリアを見つめ、短く頷いた。 「地獄の底まで付き合うさ、姫様」


 作戦は決まった。  帝国の命運を賭けた、最後の戦いが始まる。


第二章:鉄のカーテン

 午後。帝都北壁。  空を埋め尽くすような黒雲の下、マクシムス軍の投石機が唸りを上げた。


 ヒュンッ、ゴガァァァン!!


 巨大な石弾が城壁に直撃し、石屑が舞う。城壁の上では、兵士たちが悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。 「怯むなッ! 位置につけ!」  オクタヴィアンが剣を振るい、前線を駆け回る。


 眼下には、地平線を埋め尽くす敵兵の海。攻城塔が巨人のように迫り、梯子をかけた兵士たちが蟻のように壁を登ってくる。  近衛兵たちは勇敢だったが、数は圧倒的に不足していた。


「殿下! 東の塔が突破されそうです!」 「西門、持ちこたえられません!」


 報告は絶望的なものばかりだ。  オクタヴィアンは、自ら最激戦区である東の塔へと走った。 「退くな! 俺の背中を見ろ!」


 彼は先頭に立ち、梯子から登ってきた敵兵を次々と斬り伏せた。煌びやかな甲冑はもうない。兵士と同じ革鎧を着て、血と埃にまみれたその姿は、一人の戦士そのものだった。


 だが、敵の勢いは止まらない。  一人の敵兵が、オクタヴィアンの死角から槍を突き出した。 「殿下ッ!」  若い近衛兵が、オクタヴィアンの前に飛び出した。  ドスッ。  槍が兵士の胸を貫く。


「貴様ッ!」  オクタヴィアンは敵兵を斬り捨て、倒れた兵士を抱き起こした。昨日の決闘を見て、歓声を上げていた若者だった。 「しっかりしろ! なぜ飛び出した!」


 兵士は口から血を吐きながら、微かに笑った。 「殿下……あなたは、俺たちの……希望、です……。新しい……国を……」  ガクリと、兵士の首が落ちた。


 オクタヴィアンの喉の奥から、慟哭にも似た叫びが漏れた。  自分のために、誰かが死ぬ。それは皇族として当たり前のことだと思っていた。  だが今は違う。  この若者は、「皇帝」のために死んだのではない。「未来」のために、そして「オクタヴィアン」という一人の男を信じて死んだのだ。


「……許さん」


 オクタヴィアンが立ち上がる。その瞳には、鬼神のような闘志が宿っていた。 「よくも俺の部下を……俺の友を!」


 彼は城壁の縁に立ち、眼下の敵軍に向かって雷のような声で咆哮した。 「聞け、マクシムス軍! ここを通るなら、俺の屍を越えていけ! だが覚えておけ、俺は一歩も引かん! この壁はただの石ではない、帝都の意志だッ!」


 皇子の気迫に、登ってきていた敵兵が一瞬ひるんで足を止めた。  その背中を見た近衛兵たちの中に、爆発的な勇気が湧き上がる。 「殿下を守れ!」「死ぬな、殺せ!」


 崩れかけていた防衛線が、奇跡的に押し返された。  オクタヴィアンは、自らが「鉄のカーテン」となり、敵の波を一身に受け止めていた。  時間を稼ぐために。弟と妹の策が間に合う、その一瞬のために。


第三章:黄金の鎖

 戦場から離れた帝都の港湾地区。  そこには、戦火とは無縁の静けさがあった。だが、水面下では別の激戦が繰り広げられていた。


 アルタイア商会の支店。  豪奢な執務室で、支店長のナセトスはワイングラスを傾けていた。窓の外には、マクシムス軍への補給物資を満載した船が出港準備をしている。


「勝負あったな。マクシムス総督が勝てば、我々の利権はさらに拡大する」  ナセトスが含み笑いをした時、扉が開いた。


「おや、早すぎた祝杯ですか?」  入ってきたのは、第二皇子セバスチャンだった。護衛もつけず、手には分厚い鞄を持っている。


「セ、セバスチャン殿下!? なぜここに……」 「商談に来たのですよ、ナセトス殿」


 セバスチャンはソファに優雅に腰掛け、鞄を開いた。中には、目がくらむような量の金貨と、宝石の山が詰まっていた。 「手付金です」


「……何をさせようというのです?」ナセトスが警戒する。 「簡単なことです。あの船を止めていただきたい。マクシムス軍への兵糧、武器、すべての供給を今すぐストップするのです」


 ナセトスは鼻で笑った。 「ご冗談を。この金は魅力的ですが、マクシムス総督との契約は未来への投資です。敗北寸前の帝国に賭ける馬鹿はいませんよ」


「未来、ですか」  セバスチャンは冷ややかに微笑んだ。 「マクシムスの掲げる政策をご存知か? 『農本主義への回帰』と『国内産業の保護』です。彼が勝てば、まずやることは関税の引き上げと、外国商人の追放でしょうね。地方の農民を守るために」


 ナセトスの表情が強張った。 「……本当か?」 「彼は純粋な愛国者ですからね。あなたのようなハイエナを、最も嫌うタイプだ」


 セバスチャンは身を乗り出した。 「だが、我々は違う。私は約束しましょう。帝都の市場開放、関税の撤廃、そして……東方航路の独占権を」


「独占権……!」  商人の目が、金貨以上に輝いた。それは、帝国を売るに等しい条件だ。だが、セバスチャンに躊躇はない。


「マクシムスが作る閉ざされた理想郷か。我々が作る開かれた欲望の国か。……どちらが儲かるか、そろばんを弾くまでもありませんね?」


 長い沈黙の後。  ナセトスは震える手で、机の上のベルを鳴らした。 「……出港を中止させろ。積荷はすべて降ろせ」


 セバスチャンは満足げに鞄を閉じた。 「賢明な判断だ。……ああ、それと。降ろした食料はすべて私が買い取ります。城壁の守備隊に届けてください」


 港の動きが止まった。  マクシムス軍の胃袋へと続く血管は、黄金の鎖によって断ち切られたのだ。  セバスチャンは港を出て、北の空を見上げた。


「兄上、少しは楽になりましたか? ……金で買える勝利など空しいものですが、今日ばかりは悪くない」


第四章:真実は夜風に乗って

 夜が来た。  帝都を包囲するマクシムス軍の陣営には、重苦しい沈黙が漂っていた。  たった今、補給部隊からの報告が届いたのだ。「港からの輸送船団が来ない」と。  夕食の配給は半分に減らされた。勝利を確信していた兵士たちの間に、小さな動揺がさざ波のように広がり始めていた。


「おい、聞いたか? アルタイアの商人が裏切ったらしいぞ」 「帝都には山のような食料があるそうだ。昨日の暴動の後、皇族が貴族の倉庫を開放して、市民に振る舞ったって話だ」


 焚き火を囲む兵士たちが、ひそひそと噂話を交わす。  その噂の出処は、夕暮れ時に風に乗って飛んできた無数の「ビラ」だった。  カシウスの手下が、地下水道を使って城外へ出て、空に放ったものだ。そこには、帝都で行われた食料配給の事実と、『新しい国づくりへの参加求む』というメッセージが記されていた。


「嘘だろ。あの強欲な皇族どもが、民にパンを恵むなんて」 「だが、俺の従兄弟は帝都に住んでる。もし本当に改革が始まってるなら、俺たちは何のために戦ってるんだ?」


 兵士たちの多くは、ガリア属州の農民だ。彼らは帝都の搾取に怒り、マクシムスの「正義」を信じて剣を取った。  だが、その正義の前提が揺らぎ始めている。


 その時、城壁の上から、朗々とした男の声が響き渡った。  カシウスだ。彼は松明を掲げ、闇の中に浮かび上がっていた。


「ガリアの兄弟たちよ! 聞こえるか! 俺はカシウス! お前たちと同じ、帝国の圧政に抗ってきた革命家だ!」


 陣営がざわめく。「カシウスだと?」「あのお尋ね者か?」


「俺は昨日まで、そこの城壁の中にいる連中を殺すつもりだった。だが、止めた! なぜだと思う? 奴らが変わったからだ!」


 カシウスは隣に立つ小柄な人影を指し示した。 「俺の言葉が信じられないなら、この方の声を聞け! 俺が命を賭けて守る価値があると認めた、新しい指導者の声を!」


第五章:非武装の将軍

 カシウスに促され、アウレリアが一歩前に進み出た。  矢が届けば即死する距離だ。  オクタヴィアンが背後で盾を構えようとしたが、アウレリアはそれを制した。 「盾はいりません、兄上。私が彼らを信じていないと思われてしまいます」


 彼女は深呼吸をし、五万の敵兵を見下ろした。  闇の中に無数の殺気がある。だが不思議と恐怖はなかった。隣にはカシウスがいる。後ろには兄たちがいる。


「ガリアの兵士の皆さん!」  アウレリアの声は、夜気の中で澄み渡る鐘の音のように響いた。 「私は第三皇女アウレリア。あなた方が『打倒すべき敵』と呼ぶ者です!」


 ヒュッ!  一本の矢が飛んできて、アウレリアの足元の石壁に突き刺さった。  カシウスが短剣を抜こうとする。だが、アウレリアは微動だにしなかった。


「撃ちたいのなら、撃ちなさい! ですが、その前に聞きなさい!」


 彼女の気迫に、二の矢を継ごうとした兵士の手が止まる。


「あなた方は、なぜここにいるのですか? 故郷の家族を、重税と飢えから守るためでしょう? それは正しい! あなた方の怒りは正当です!」


 敵であるはずの皇女からの肯定。兵士たちが顔を見合わせる。


「ですが、見てください! あなた方の背後にある補給路は断たれました。明日には、あなた方も飢えることになる。……それでも戦いますか? 誰のために? マクシムス総督の野心のために、ここで死ぬのですか!」


 陣営の奥、指揮官用テントの前で、マクシムスが歯噛みしていた。 「撃て! あの女を黙らせろ!」  だが、命令されても弓兵たちは動けなかった。彼女の姿に、神々しいまでの覚悟を見てしまったからだ。


 アウレリアは続けた。 「古い帝国は死にました! 私たちが殺したのです! 今日ここにあるのは、民の声を聞き、民と共に歩む、生まれたばかりの国です。……あなた方も、その一部なのです!」


「嘘だ!」  闇の中から、兵士の叫び声が上がった。 「皇族なんて信じられるか! どうせ口先だけだ!」


 その罵声に対し、答えたのはアウレリアではなかった。  オクタヴィアンだ。  彼は兜を脱ぎ、ボロボロの鎧姿を晒した。


「嘘ではないッ!」  雷のような咆哮。 「俺を見ろ! 俺は第一皇子オクタヴィアンだ! だが今の俺は、兵士と共に泥水をすすり、同じ傷を負っている! 俺の剣は、もはや民を虐げるためのものではない。民を守るための盾だ!」


 続いて、セバスチャンが城壁の縁に立ち、大きな袋を逆さまにした。  バラバラと、大量の金貨と宝石が城壁の下に降り注ぐ。


「金もくれてやる!」セバスチャンが叫ぶ。「これは私が貴族から巻き上げた金だ! もはや我々は、特権階級の豚ではない。この国に必要なのは、血統ではなく実力だ。お前たちも、才能があるならここまで上がってこい! 私が雇ってやる!」


 武人オクタヴィアンの魂の叫び。  策士セバスチャンの破天荒な挑発。  そして、聖女アウレリアの祈り。


 三者三様の「変革の証」が、疑心暗鬼になっていた兵士たちの心に突き刺さった。


「……彼らは、本気だ」  最前線にいた老兵が、槍を下ろした。 「あんな皇族を、見たことがあるか? 泥まみれで、丸腰で、俺たち説得しようとする支配者を」


 カシラン、と槍が地面に落ちる音がした。  それは伝染した。  カシラン、カシラン、カシラン……。  次々と武器が捨てられる音が、波紋のように広がっていく。


 アウレリアは、その音を聞きながら、そっと胸を押さえた。 「届いた……」  膝から力が抜けそうになるのを、カシウスが背中から支えた。


「ああ、届いたぜ。……あんたの言葉は、どんな名将の矢よりも鋭く、奴らの心臓を射抜いたんだ」


 マクシムスの本陣。  総督マクシムスは、静まり返った自軍を見渡し、剣を鞘に納めた。  彼の周りから、兵士たちが離れていく。もはや、彼のために命を捨てる者はいない。


「……見事だ、ヴァレリアンの子らよ」  彼は敗北を悟った。だが、その顔に浮かんでいたのは屈辱ではなく、奇妙な安堵だった。


「私が悪役になることで、帝国がこれほど美しく生まれ変わるのなら……それもまた、一興か」


 東の空が白み始めていた。  長い、長い夜が明けようとしていた。  城門が、ゆっくりと開かれる。  決着の時が来た。


第六章:ルビコンの向こう側

 重厚な音が響き、帝都の正門がゆっくりと開かれた。  武装した軍隊が雪崩れ込んでくることはなかった。  逆に、城内から三人の人物が、徒歩でゆっくりと進み出てきたからだ。


 マクシムスは馬を降り、その光景をまじまじと見つめた。  第一皇子オクタヴィアン。  第二皇子セバスチャン。  第三皇女アウレリア。


 三人は武器を持たず、しかし皇帝の葬儀に際して着る純白の喪服を身に纏っていた。それは降伏の白旗ではなく、亡き父と、死にゆく古い時代への弔意を示していた。


 マクシムスの周りにいた側近たちが剣に手をかけるが、総督はそれを手で制した。 「……何のつもりだ。命乞いか?」


 マクシムスの問いに、オクタヴィアンが一歩前に出た。 「命乞い? 笑わせるな。俺たちがその気なら、お前と刺し違えることぐらい造作もない。だが、俺は剣を置いた。……お前という男を、殺すには惜しいと思ったからだ」


「私を評価すると?」マクシムスは鼻で笑った。「私は逆賊だぞ」


「逆賊だが、有能だ」  セバスチャンが口を挟む。 「ガリアでの行政手腕、そして五万の兵をここまで統率した指導力。殺して埋めるには、あまりにも資源の無駄遣いだ。……マクシムス総督、取引をしよう」


 セバスチャンは懐から一巻の羊皮紙を取り出した。 「ガリア属州の高度な自治権を認める。独自の徴税権もだ。その代わり、経済圏は統合したままだ。関税ゼロで、ガリアの農作物を帝都が高値で買い取る。……お前の望みは、故郷の民を豊かにすることだったはずだな?」


 マクシムスの目が揺れた。それは、彼が戦争で勝ち取りたかった条件そのものだった。いや、それ以上の条件だ。


「……条件はなんだ。私の首か?」


「いいえ」  アウレリアが、真っ直ぐにマクシムスを見つめた。 「あなたの『未来』です。マクシムス閣下、新設される『連邦議会』の最初の議員になってください。地方の代表として、中央政府の暴走を監視し、共に国を舵取りしてほしいのです」


 マクシムスは絶句した。 「……正気か。私の刃は、つい先程まで君たちの喉元にあったのだぞ」


「だからこそです」  アウレリアは微笑んだ。その笑顔は、夜明けの光のように柔らかく、そして強かった。 「昨日の敵を友と呼べぬような狭量な国なら、滅んだほうがマシです。私たちは、過去の恨みではなく、未来の利益で繋がる国を作りたい。……力を貸してください、マクシムス」


 オクタヴィアンが、太い腕を差し出した。  セバスチャンが、ニヤリと笑って頷いた。  アウレリアが、祈るように手を見つめている。


 マクシムスは天を仰いだ。  雲が切れ、朝陽が差し込んでくる。  彼は腰の剣を外し、地面に置いた。そして、ゆっくりと三人の前に膝をついた。


「……私の負けだ。剣でも、金でもなく……その『器』に負けた」


 マクシムスはオクタヴィアンの手を握り返した。 「微力ながら、この命、新生イスカンダルのために捧げよう」


 城壁の上から、そしてマクシムス軍の陣営から、地響きのような歓声が沸き起こった。  それは勝者の雄叫びではない。  内戦という悪夢からの目覚めを祝う、喜びの歌だった。



エピローグ:黄金の午後

 それから、十年――。


 かつて帝都と呼ばれた都市は、今や「イスカンダル連邦」の首都として、かつてない繁栄を謳歌していた。  しかし、その繁栄の質は、十年前とは明らかに異なっていた。  一部の特権階級だけが肥え太る歪な栄華ではなく、市民一人ひとりの活気が街を支えている。


 中央広場に面した議事堂。  そのバルコニーに、初老の紳士となったマクシムスの姿があった。彼はガリア州知事として、今日は連邦会議に出席していたのだ。 「相変わらず、ここは賑やかだな」 「ええ。議論が白熱しすぎて、昨日は灰皿が飛び交いましたよ」


 苦笑しながら隣に立ったのは、財務大臣となったセバスチャンだ。眉間の皺は深くなったが、その瞳には充実感が宿っている。 「君のところの農作物が安すぎて、帝都の農家から文句が出ている。関税を少しかけさせてもらうぞ」 「お断りだ。自由貿易の約束をお忘れか? ……守銭奴め」  二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


 その頃、郊外の練兵場では、国軍元帥オクタヴィアンが新兵たちを怒鳴りつけていた。 「たるんでいるぞ! 貴様らが守るのは皇帝ではない、市民の笑顔だ! それが分からん奴は、俺が直々に叩き直してやる!」  相変わらずの鬼教官ぶりだが、兵士を見る目は慈愛に満ちており、兵士たちも彼を「親父」と呼んで慕っていた。


 そして、宮殿の庭園。  かつてヴァレリアン皇帝が愛したこの場所は、今は市民に開放された公園となっていた。  ベンチに座り、子供たちが遊ぶ姿を眺めているアウレリア。彼女は今、連邦議会の議長として、多忙な日々を送っている。


「お疲れですか、議長」  背後から、温かいブランケットがかけられた。  教育大臣となったカシウスだ。かつての革命家の鋭さは、知的な落ち着きへと変わっているが、その情熱的な瞳は変わっていない。


「ありがとう、カシウス。……少し、昔のことを思い出していたの」 「昔?」カシウスは彼女の隣に座った。「路地裏を逃げ回ったあの夜のことか?」


「ええ。あの時、あなたが私の手を引いてくれなければ、今のこの国はなかった」  アウレリアは、カシウスの左手を取った。その薬指には、彼女とお揃いの銀の指輪が光っている。  皇族と平民。かつては許されなかったその結合は、新生連邦の「平等の象徴」として、国民から祝福されていた。


「俺の方こそだ。あんたが俺の心に火を点けてくれなければ、俺はただのテロリストとして死んでいただろう」  カシウスは彼女の手を優しく握り返した。


「見てくれ、アウレリア」  カシウスが指さした先。  夕陽が、街を黄金色に染めていた。  かつて父ヴァレリアンが「血の色」と恐れ、アウレリアたちが「夜明け」と信じたその光は今、確かな「平和の輝き」となって、人々を包み込んでいた。


「美しいわ……」 「ああ。そして、これはまだ始まりだ」


 二人は寄り添い、変わりゆく、しかし変わらぬ美しさを持つ街を見つめた。  瓦礫の中から生まれた新しい道は、遥か未来へと続いていく。  「新たなる夜明けへの道」は、ここにある。

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