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新たなる夜明けへの道  作者: 冷やし中華はじめました


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瓦礫の中の王道 - 試練の刻

第一章:鉄の味、泥の味

 帝都の北西、城壁の外に広がる荒野に、近衛軍団「鉄のアイアン・ウルフ」の駐屯地があった。  普段であれば、そこは規律正しい号令と、手入れの行き届いた武具が奏でる金属音に満ちているはずだった。だが今、そこに漂っているのは、腐った野菜のようなえた臭いと、爆発寸前の殺気だけだった。


「ふざけるな! 今日もスープだけか!」


 昼食の配給所で、怒号と共に大鍋がひっくり返された。泥水のような薄い麦粥が地面に広がり、湯気を立てる。  配給係の下士官が胸ぐらを掴み上げられていた。掴んでいるのは、熊のような巨躯を持つ古参の百人隊長、ガルバだ。顔には歴戦の傷跡が走り、その目は飢えと怒りで充血している。


「おい、説明してみろ。俺たちの給金は三ヶ月遅れている。その上、飯まで減らすのか? 俺たちは物乞いじゃねえ、帝国の誇り高き近衛兵だぞ!」


「お、お待ちくださいガルバ隊長! 兵站局から物資が届かないんです! これが精一杯で……」 「言い訳なんぞ食えるかッ!」


 ガルバの鉄拳が下士官の顔面を砕こうとした、その瞬間だった。


「――そこまでだ、野良犬ども」


 空気を切り裂くような冷たい声が響いた。  喧騒が凍りつく。兵士たちの視線が一斉に一点に集まった。  駐屯地の正門に、白馬に跨った第一皇子オクタヴィアンが立っていた。真紅のマントを風になびかせ、黄金の装飾が施された甲冑が、昼下がりの太陽を浴びて眩い輝きを放っている。


 オクタヴィアンは馬上から、汚物を見るような目で兵士たちを見下ろした。 「恥を知れ。貴様らの喚き声は、帝都の城壁を越えて宮殿まで聞こえているぞ。それでも精鋭『鉄の狼』か?」


 兵士たちの間に、畏怖と反発が混ざった重苦しい空気が流れる。だが、ガルバだけは怯まなかった。彼は地面に唾を吐き捨てると、不敵な笑みを浮かべて皇子を睨みつけた。


「へっ、これは驚いた。『軍神』オクタヴィアン殿下のお出ましとはな。だが殿下、そのピカピカの鎧の下で、腹の虫が鳴いたことはありますかい?」


 挑発的な言葉に、オクタヴィアンの側近たちが色めき立つ。 「無礼だぞ、ガルバ!」 「皇子に対し、口を慎め!」


 オクタヴィアンは片手で側近たちを制し、静かに馬から降りた。  彼がブーツを泥につけると、周囲の兵士たちが無意識に後ずさる。だがオクタヴィアンは止まらない。ガルバの目の前まで歩み寄り、その巨大な男を見上げた。


「腹の虫だと? そんなものは、忠誠心で黙らせろ」 「忠誠心じゃ腹は膨れねえんですよ、殿下!」


 ガルバが叫んだ。その声には、積年の恨みが籠もっていた。 「俺たちはガリアでも、東方戦線でも、あんたの命令で命がけで戦った! 友も死んだ! だのに、帝都に戻ってみればどうだ? 家族に送る金もねえ、今日の飯もねえ! 俺たちの誇りを泥にまみれさせたのは、あんたたち皇族だろうがッ!」


 ガルバの拳が震えていた。それは明確な反逆の言葉だった。  周囲の兵士たちも、息を呑んでオクタヴィアンの反応を待った。普段の彼なら、その場でガルバを斬り捨てていただろう。


 オクタヴィアンの手が、腰の剣に伸びた。  きらびやかな宝石が埋め込まれた、儀礼用の剣だ。  だが、その手が止まる。


 脳裏に、昨夜の父の言葉が蘇る。 『軍を抑えろ。暴発させるな』


(斬れば、終わる。こいつ一人を殺すのは容易い。だが……)


 オクタヴィアンは周囲を見渡した。数百、数千の兵士たちの目。そこにあるのは、かつての尊敬ではない。飢えた獣のような、絶望的な敵意だ。ここでガルバを斬れば、この駐屯地は血の海となり、帝都を守るべき盾が、帝都を焼く火種となる。


 オクタヴィアンは剣から手を離し、ゆっくりとマントの留め具を外した。  重厚な真紅のマントが、泥の上に落ちる。


「……いいだろう、ガルバ」


 オクタヴィアンは上着を脱ぎ捨て、鍛え上げられた上半身を晒した。貴族特有の白さではなく、戦場で焼けたブロンズ色の肌。そこには、数々の戦傷が刻まれている。 「忠誠心で腹が膨れぬなら、力で黙らせてやる。剣を抜け」


「……は?」ガルバが呆気にとられる。


「俺に勝てば、駐屯地の倉庫にある備蓄を好きにするがいい。俺の首もくれてやる。だが俺が勝てば、貴様らは泥水をすすってでも俺に従え。――『鉄の狼』の流儀は、言葉ではなく鉄で語ることだったはずだな?」


 駐屯地がどよめいた。皇子が、一介の百人隊長に決闘を申し込んだのだ。  ガルバの顔に、獰猛な笑みが戻った。 「面白え……! 後悔なさるなよ、殿下ッ!」


第二章:誇りの在処ありか

 即席の闘技場となった練兵場。  オクタヴィアンとガルバ、二人の男が対峙していた。武器は刃を潰した訓練用の鉄剣のみ。


「始めッ!」


 審判の号令と同時に、ガルバが突進した。  速い。巨体に似合わぬ俊敏さだ。丸太のような腕から繰り出される一撃は、訓練用の剣であっても骨を砕く威力がある。  オクタヴィアンは半身になってそれを躱すが、風圧だけで肌が粟立つのを感じた。


「どうした殿下! 逃げ回ってばかりか!」  ガルバの連撃が襲う。袈裟懸け、突き、横薙ぎ。暴力の嵐だ。  オクタヴィアンは防戦一方だった。足元の泥が踏ん張りを奪い、華麗な宮廷剣術のステップを封じる。


(くそッ、体が重い……!)


 オクタヴィアンは焦りを感じていた。昨夜の宴で飲んだワインがまだ残っているのか、それとも空腹の兵士たちの視線が突き刺さっているせいか。  一瞬の隙を突かれ、ガルバの蹴りが腹に入った。 「ぐぅッ!?」  肺の空気が強制的に吐き出され、オクタヴィアンは泥の中に無様に転がった。


「終わりだ!」  ガルバが追撃の剣を振り上げる。


 その瞬間、泥の冷たさがオクタヴィアンの頬を叩いた。  泥の味。鉄の味。  彼は思い出した。初めて戦場に立った日のことを。高価な鎧も、皇子の身分も関係なく、ただ泥にまみれて生き延びようとしたあの感覚を。


(そうだ。俺は皇子である前に、一人の戦士だったはずだ)


 オクタヴィアンの目が変わった。  振り下ろされる剣を、泥を蹴って転がるように回避する。同時に、相手の懐へと飛び込んだ。 「ぬうッ!?」  ガルバが驚愕する。オクタヴィアンは剣の柄頭つかがしらで、ガルバの顎を強打した。  巨人がよろめく。  オクタヴィアンは追撃の手を緩めない。泥だらけの顔で咆哮し、剣を捨て、素手でガルバの胴にタックルを決めた。二人はもつれ合いながら地面を転がる。  殴り合いだ。  皇族の品位など欠片もない。泥にまみれ、唾を飛ばし、互いの顔面を拳で殴り合う、ただの雄の戦い。


「俺はッ! 負けんッ!」  オクタヴィアンが馬乗りになり、拳を振り下ろす。 「俺が! お前たちを! 見捨てるものかッ!」


 ドスッ、という鈍い音と共に、ガルバの意識が飛んだ。  静寂が戻った。  オクタヴィアンは肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。顔は腫れ上がり、唇からは血が流れている。全身泥まみれのその姿は、きらびやかな皇子よりも、遥かに王者の風格を漂わせていた。


 彼は兵士たちを見渡した。もはや、嘲笑する者は誰もいない。  オクタヴィアンは、腰から外しておいた自身の佩剣はいけんを拾い上げた。皇帝から賜った、国宝級の装飾剣だ。  彼はそれを高く掲げると、躊躇なく近くの岩に叩きつけた。


 ガキンッ!


 宝石が砕け、黄金の鞘が歪む。兵士たちが息を呑む。 「こんなものは、屑鉄だ」  オクタヴィアンは、歪んだ剣と宝石の欠片を、配給係の下士官に投げ渡した。


「これを売れ。帝都中の宝石商を叩き起こしてでも金に換えろ。そして肉と酒を買え。今夜は宴会だ」


 どよめきが歓声に変わるまで、一秒もかからなかった。 「オクタヴィアン殿下万歳!」 「鉄の狼万歳!」


 オクタヴィアンは、意識を取り戻しつつあるガルバに手を差し伸べた。 「立て、ガルバ。いい拳だった」  ガルバは腫れ上がった目で皇子を見上げ、そして苦笑しながらその手を握り返した。 「……へっ、負けましたよ。あんた、泥の似合ういい男だ」


 オクタヴィアンは泥だらけの顔でニヤリと笑った。  腹の虫はまだ鳴っている。だが、胸のつかえは取れていた。  彼は初めて、「金」でも「権威」でもなく、自らの「魂」で部下を従えたのだ。


第三章:蛇の道を行く

 その頃。  帝都の高級住宅街、元老院議員グラックスの屋敷では、優雅なお茶会が開かれていた。  第二皇子セバスチャンは、豪奢なソファに腰掛け、最高級の紅茶の香りをかいでいた。


「いやはや、セバスチャン殿下。帝国の財政難は聞き及んでおりますが、我々貴族とて余裕があるわけではないのですよ」


 グラックス議員は、肥え太った腹を揺らしながら言った。周りに座る貴族たちも、鷹揚に頷く。 「そうですとも。今年の領地の収穫は悪く、これ以上の納税は破産を意味します」 「陛下には、我々の窮状をお伝えください」


 彼らの指には大粒の宝石が光り、テーブルには庶民が一生かかっても口にできない菓子が並んでいる。  セバスチャンは、愛想の良い笑みを崩さなかった。


「ええ、よく分かります。皆様も苦しい中、帝国を支えてくださっている。心から感謝しておりますよ」


 彼は紅茶を一口啜り、カップを音もなくソーサーに戻した。  そして、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「ところで、グラックス殿。あなたの領地からアルタイア国へ、月に三度も『空荷』の馬車が出ているようですが……不思議ですねぇ。帰りはなぜか、禁制品の香料で荷台がいっぱいになっているとか」


 グラックスの顔から、血の気が引いた。 「な、何を……」


「それから、そちらのルキウス男爵。あなたの別邸の地下には、帝国の法律で禁止されている賭博場があるそうですね。昨夜の売り上げは金貨五百枚でしたか?」


 セバスチャンの口調は変わらない。穏やかで、優しげだ。  だが、その目は爬虫類のように冷たく光っていた。


「ここにあるのは、皆様の『ささやかな秘密』のリストです。脱税、横領、密輸、愛人スキャンダル……。どれも興味深い物語ばかりだ。父上がこれをご覧になったら、あるいは民衆がこれを知ったら、どう思うでしょうね?」


 部屋の空気が凍りついた。  貴族たちの額から、脂汗が吹き出す。彼らは気づいたのだ。目の前にいるのは、都合の良い調整役の皇子ではない。宮廷の闇を知り尽くした、毒蛇だということに。


「ど、どうすれば……」グラックスが震える声で尋ねた。


 セバスチャンはにっこりと微笑み、羊皮紙をテーブルの上に置いた。 「簡単なことですよ。帝国の危機です。皆様の『愛国心』を示していただきたい。具体的には……そうですね、このリストに書かれた裏金の、八割ほどを国庫に寄付していただければ、この羊皮紙は暖炉の火にくべましょう」


「は、八割だと!?」 「おやおや、不服ですか? 全財産と名誉を失い、処刑台に登るよりは安いと思いますが」


 セバスチャンは立ち上がり、グラックスの肩に手を置いた。 「選びたまえ。帝国の礎となるか、それとも帝国の生贄となるか」


 数分後、セバスチャンは屋敷を後にした。  その手には、巨額の寄付を約束する誓約書が握られていた。  馬車の中で、彼は深いため息をついた。かつての友人であった貴族たちの、憎しみに満ちた目が脳裏に焼き付いている。


(これで私は、宮廷で最も嫌われる男になったな)


 セバスチャンは自嘲した。だが、後悔はなかった。  兄が泥にまみれて戦っているなら、自分は泥を被ってでも金を作る。それが、彼の戦い方だった。


第四章(序):蒼き月の邂逅かいこう

 夜。帝都の下町。  フードを目深に被った小柄な人影が、迷路のような路地を足早に進んでいた。  第三皇女アウレリアである。  護衛もつけず、召使いの服を着て変装した彼女は、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。


 これから会うのは、帝国の敵。革命家カシウス。  父の命令とはいえ、これはあまりに危険な賭けだ。だが、彼女の知的好奇心と、現状を打破したいという渇望が、彼女の足を前へ前へと動かしていた。


(見てみたいの。本に書かれた理想ではなく、生きた言葉を話すあの男を)


 彼女はまだ知らなかった。  その出会いが、帝国の運命だけでなく、彼女自身の人生をも激しく揺さぶることになる運命の恋の始まりであることを。


 路地の奥、廃教会の扉が、軋みながら開かれた。  そこには、ろうそくの明かりの下で地図を広げる、若き革命家の姿があった。


お待たせいたしました。【中編】の執筆を行います。


ここでは、第三皇女アウレリアと革命家カシウスの**「運命的な出会い」を描きます。 ご要望にあったロマンス要素として、単なる甘い恋ではなく、互いの信念をぶつけ合う激しい知的な応酬と、命の危険を共有することで生まれる「禁断の共鳴(吊り橋効果)」**を軸に展開します。


【エピソード2】瓦礫の中の王道 - 試練の刻

中編:蒼き月下の共鳴


第四章:硝子の塔の住人

 廃教会の礼拝堂。ステンドグラスは砕け散り、月明かりが床の瓦礫を青白く照らしていた。  カシウスは、音もなく入ってきた小柄な人影に、手元の短剣を隠し持ちながら問いかけた。


「……随分と無防備な使者だ。ここは帝都の掃き溜めだぞ。迷い込んだ猫なら、今すぐ帰るんだな」


 フードを被った人影――アウレリアは、怯むことなく歩みを進め、祭壇の前で足を止めた。そして、ゆっくりとフードを下ろした。  月光が、彼女の銀糸のようなプラチナブロンドの髪と、透き通るような白磁の肌を露わにする。  その場違いな美しさに、カシウスは息を呑んだ。


「迷い込んだのではありません。あなたに会いに来たのです、カシウス」 「……俺の名を知っているのか」 「ええ。帝都の影、民衆の声、そして『危険な扇動者』。……私はアウレリア。話をさせてください」


 カシウスの目が細められた。 「アウレリア……? まさか、第三皇女殿下か?」  彼は嘲笑するように鼻を鳴らした。 「ハッ、これは傑作だ! 深窓の姫君が、こんなドブ川の底まで何のご用だ? 貧民の暮らしを見学する『慈悲深いごっこ遊び』なら、よそでやってくれ」


 カシウスの言葉は鋭利な刃のようだった。だが、アウレリアは真っ直ぐに彼の瞳を見据え返した。


「ごっこ遊びではありません。私は、帝国の改革案を持ってきたのです」  アウレリアは懐から、一束の羊皮紙を取り出した。 「議会制度の導入、貴族への課税強化、そして言論統制の緩和。……私の兄たちは武力と金を信じていますが、私は『知性』による統治を信じています。あなた方の知識と、私の権限があれば、流血なしで国を変えられる」


 それは、彼女が寝る間も惜しんで書き上げた、完璧な理想国家の青写真だった。  カシウスは羊皮紙を受け取り、パラパラとめくった。そして、次の瞬間。  彼はそれを無造作に放り投げた。


 羊皮紙が、埃っぽい床に散らばる。


「なっ……!」アウレリアが絶句する。 「美しい論文だ。大学の講義なら満点だろうよ」  カシウスが距離を詰める。彼からは、インクと、そして安酒と汗の匂いがした。 「だがな、姫様。この紙切れ一枚で、今夜飢えて泣いている赤ん坊の腹が膨れるのか? あんたの言う『改革』とやらを議論している間に、何人が死ぬと思っている?」


「それは……しかし、秩序ある変革でなければ、国は崩壊します!」 「秩序?」カシウスが激昂して壁を叩いた。「その秩序が、俺たちを殺しているんだッ! あんたは何も見ていない。この壁一枚隔てた外にある地獄を、何一つ知らないくせに、安全な硝子の塔から指図するな!」


 アウレリアは唇を噛んだ。反論したい。けれど、彼の瞳に宿る悲痛な怒りが、言葉を封じた。  カシウスは、彼女の手首を強く掴んだ。 「来い」 「え……?」 「その綺麗な目で、現実を見ろ。それからだ、議論は」


第五章:路地裏の熱

 カシウスに引かれ、アウレリアは夜のスラム街へと足を踏み入れた。  そこは、宮殿からは決して見えない世界の裏側だった。  汚水が流れる通り。軒下で身を寄せ合い、寒さに震える老人たち。咳き込む子供を抱いて途方に暮れる母親。  腐臭と、死臭。


「これが帝国の足元だ」  カシウスが低く呟く。「パン一斤のために、女が体を売り、男が殺し合う。あんたの兄上がパレードで撒いた金貨の一枚があれば、ここの家族が一ヶ月生きられる」


 アウレリアは、足がすくんだ。  書物で読んでいた「貧困」という文字と、目の前の現実はあまりに違っていた。知識として知っていたことが、生々しい痛みとなって彼女の胸を刺す。  彼女は、咳き込む少女の前で立ち止まり、無意識に自分のショールを外してかけようとした。


「よせ!」  カシウスが彼女の手を止めた。「その上質な絹を見せびらかすな。ハイエナが集まってくるぞ」


 遅かった。  路地の闇から、ギラついた目をした数人の男たちが現れた。手には粗末なナイフや棍棒が握られている。 「おやおや、上玉がいるじゃねえか」 「その服、高く売れそうだなあ」


 アウレリアが息を呑む。  カシウスが素早く彼女の前に立ちふさがった。 「失せろ。俺の連れだ」 「カシウスか。へっ、革命家気取りが、いい女を囲ってやがる」


 男たちがにじり寄る。カシウスは懐の短剣に手をかけたが、多勢に無勢だ。  その時、リーダー格の男がアウレリアの腕を掴もうとした。


「触るなッ!」  カシウスが男の手を払い除け、その隙にアウレリアの肩を抱いて走り出した。 「走れ! 振り返るな!」


 二人は暗い迷路のような路地を疾走した。  背後から男たちの怒号と足音が迫る。  アウレリアのドレスの裾が泥に汚れ、呼吸が乱れる。だが、カシウスの温かい手が、強く彼女を引いていた。


 とっさにカシウスが、狭い隙間――建物と建物の間にある、人が一人やっと入れるほどの窪みに彼女を引き込んだ。 「しっ……! 声を出すな」


 二人は体を密着させて闇に溶け込んだ。  すぐ目の前を、追手の男たちが駆け抜けていく。 「どこ行った!」「あっちだ!」


 足音が遠ざかるまで、数分。  狭い空間で、二人の心臓の音だけが響いていた。  アウレリアの背中が冷たい壁に押し付けられ、目の前にはカシウスの胸がある。彼の乱れた呼吸が、彼女の額にかかるほどの距離。  アウレリアが見上げると、カシウスも彼女を見下ろしていた。


 月明かりが、二人の瞳をわずかに照らす。  敵同士。皇女と反逆者。  だが今、互いの体温を感じ合う距離で、アウレリアは不思議な感覚に囚われていた。恐怖よりも、もっと根源的な、魂が震えるような高揚感。


「……怖かったか」  カシウスが、先ほどまでの激昂とは違う、不器用な優しさを含んだ声で囁いた。


「……いいえ」  アウレリアは、自分でも驚くほどはっきりと答えた。 「怖くはありません。……ただ、悔しいのです」 「悔しい?」 「ええ。民を守るべき皇族でありながら、私は彼らに何もしてやれなかった。ショール一枚を与えることすら、偽善にしかならなかったことが」


 彼女の瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。  それは恐怖の涙ではなく、自らの無力さを恥じる、高潔な涙だった。


 カシウスは、息を呑んだ。  世間知らずの姫君だと思っていた。だが、泥に汚れ、命の危険に晒されながらも、彼女は自分の身ではなく、民のことを案じている。  その強さと気高さに、カシウスの胸の奥で、冷え切っていた何かが熱く灯るのを感じた。


 彼は無意識に手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙を、荒れた親指で拭った。  指先が触れ合う。  ビクリとアウレリアの肩が震えたが、彼女は拒まなかった。


「……あんたは、不思議な人だ」  カシウスは自嘲気味に笑った。「俺たちは敵同士だ。俺はいつか、あんたの家族を断頭台に送るかもしれない男だぞ」


「それでも」  アウレリアは、カシウスの手を――涙を拭ってくれたその手を、両手で包み込んだ。 「あなたは私を助けてくれました。そして、誰よりもこの国の未来を真剣に考えている。……方法が違うだけです。見ている先は、同じはず」


 カシウスの手の熱さが、アウレリアの冷えた手に伝わる。  互いの鼓動が重なる。  言葉は要らなかった。その一瞬、二人の間には、身分も思想も超えた、強烈な引力が生まれていた。  もし、時代が違えば。もし、立場が違えば。  カシウスが何かを言いかけた、その時だった。


 ゴォォォォン……!  ゴォォォォン……!


 不吉な半鐘の音が、夜空を引き裂いた。  一度ではない。乱打だ。


「……中央広場だ」  カシウスの表情が、革命家のそれに引き戻された。「暴動が始まったんだ。止めなければ、帝都は火の海になる」


 彼はアウレリアから離れた。失われた体温に、アウレリアは一瞬の寂しさを覚えたが、すぐに表情を引き締めた。


「行きましょう、カシウス。私がオクタヴィアン兄上を止めます。あなたは民衆を」 「……殺されるかもしれないぞ」 「覚悟の上です。私はもう、硝子の塔の住人ではありませんから」


 アウレリアは泥で汚れたドレスの裾を破り捨て、動きやすい丈にした。その足取りは、来る時よりも遥かに力強かった。  カシウスは、そんな彼女の背中を眩しそうに見つめ、ニヤリと笑った。


「ああ。……死なせるなよ、アウレリア」 「あなたこそ。……生き延びて、また議論をしましょう」


 二人は走り出した。  互いに違う道を、しかし同じ目的地に向かって。  夜明け前の帝都。運命の広場が彼らを待っていた。


第六章:広場の断頭台

 帝都中央広場は、巨大な火薬庫と化していた。  数千、いや数万の市民が松明や石を手に押し寄せ、広場を埋め尽くしている。その中心にある噴水台には、オクタヴィアン率いる近衛軍団が円陣を組み、盾を構えていた。


「引くなッ! 盾の列を崩すな!」  オクタヴィアンの咆哮が飛ぶ。  顔は泥と乾いた血で汚れ、あの煌びやかな鎧はない。粗末な革鎧を纏った皇子の姿に、兵士たちは決死の覚悟で従っていた。  だが、状況は絶望的だった。  市民の怒りは頂点に達している。「パンをよこせ!」「皇族を殺せ!」という怨嗟の声が、物理的な圧力となって軍団を押し潰そうとしていた。


「殿下、もう限界です! 抜刀許可を!」  副官が悲鳴を上げる。  オクタヴィアンは唇を噛み切りそうなほど強く食いしばった。 (抜けば、勝てる。だが、それは帝国の死だ。民を殺した軍隊になど、何の存在価値がある!)


「耐えろッ! 石礫いしつぶてくらい、蚊に刺された程度だと思え! 一歩も動くな!」


 その時、群衆の波が揺れた。  一人の男が、即席の演壇となっていた荷車の上に飛び乗ったのだ。カシウスだ。  その隣には、ボロボロになったドレスを着た小柄な女性――アウレリアが立っていた。


「同胞たちよ、聞けッ!」  カシウスの声が、不思議と広場の喧騒を貫いた。 「石を置け! その暴力は、我々の正義を曇らせる!」


「カシウスだ!」「裏切るのかカシウス!」  罵声が飛ぶ。だがカシウスは引かない。 「裏切りではない。見ろ、俺の隣にいる方を!」


 アウレリアが一歩前に出た。松明の灯りが、泥にまみれた彼女の決意に満ちた表情を照らし出す。  群衆がざわめいた。「あれは……第三皇女か?」「あんな汚れた格好で?」


 アウレリアは大きく息を吸い込んだ。喉が震える。足がすくむ。だが、路地裏で見た少女の涙が、彼女を支えていた。


「帝都の民よ!」  彼女の凛としたソプラノが響き渡った。 「あなたたちの怒りは正しい! 飢えも、絶望も、すべては私たち皇族の無知と傲慢が招いたものです。私は謝罪します。……許してくださいとは言いません。ただ、機会をください!」


「機会だと? 言葉で腹は膨れねえんだよ!」  男が石を投げた。それはアウレリアの額をかすめ、一筋の血が流れた。  オクタヴィアンが激昂して動き出そうとする。  だが、アウレリアは手でそれを制し、逃げなかった。血を拭いもせず、真っ直ぐに群衆を見据えた。


「ええ、言葉では腹は膨れません! ですが、死体になればパンを味わうこともできません! 今ここで兵士と殺し合って、何が残るのですか! 瓦礫と死体の山の上に、あなたたちは子供たちの未来を築くつもりですか!」


 彼女の悲痛な叫びが、広場の一瞬の静寂を生んだ。  その隙を、カシウスは見逃さなかった。 「彼女を信じろ! 彼女は自分の命を賭けて、たった一人で俺たちの前に立ったんだ! その覚悟に、俺たちは理性で応えるべきだろう!」


 群衆の熱狂が、迷いへと変わる。  だが、飢えという生理的な限界は、理性だけでは抑え込めない。 「……でもよぉ、腹が減ってるんだよ!」 「俺たちは明日をも知れねえんだ!」


 再び不穏な空気が流れ始めた、その時だった。  地響きのような音が、大通りの向こうから聞こえてきた。


 ゴゴゴゴゴ……!


「なんだ?」「軍の増援か!?」  人々が身構える。  現れたのは、軍隊ではなかった。    重厚な車輪の音を響かせて現れたのは、数十台にも及ぶ巨大な荷馬車の列だった。  先頭の馬車に、優雅に座っている男がいる。  第二皇子セバスチャンだ。


「おやまあ、随分と賑やかなパーティですねぇ」


 彼は広場の中心まで馬車を進めると、積荷を覆っていた布をバッと剥ぎ取った。  現れたのは、黄金色に輝く小麦の山。そして塩漬け肉の樽、ワインの瓶。


「小麦だ!」「肉だぞ!」  群衆から歓喜の悲鳴が上がる。


 セバスチャンは扇子を広げ、涼しい顔でオクタヴィアンとアウレリアの方を見た。 「遅れてすまないね。強欲な古狸どもから、これらを吐き出させるのに手間取ってね」


 彼は群衆に向かって、芝居がかった仕草で宣言した。 「さあ、諸君! これは皇帝陛下からの、そして我々三兄妹からの贈り物だ! 貴族の倉庫から徴収した最高級品だよ。存分に味わうがいい!」


 オクタヴィアンが剣を掲げ、兵士たちに命令を下した。 「総員、武装解除! 剣を置け! これより任務を変更する。市民への食料配給を支援せよ! 老人と子供を優先だ、列を作らせろ!」


「はっ!」  殺気立っていた兵士たちが、一斉に配給係へと変わる。  アウレリアはその光景を見て、へなへなとカシウスの肩に崩れ落ちた。


「……よかった……」 「ああ」カシウスが彼女の体を支え、小声で囁いた。「見事だったぜ、姫様。あんたの勝ちだ」


 広場は、暴動の坩堝るつぼから、巨大な宴会場へと変わっていた。  市民と兵士が入り乱れ、パンを分け合う。  その中心で、三人の皇子・皇女が初めて同じ場所に立っていた。


 泥だらけの武人オクタヴィアン。  冷徹な策士セバスチャン。  理想を掲げる聖女アウレリア。


 まるで噛み合わなかった三つの歯車が、帝国の危機という巨大な圧力の前で、奇跡的に噛み合い、回り始めた瞬間だった。


第七章:落日の病床

 早朝。宮殿。  暴動鎮圧の報告を携え、三人は皇帝の寝室へと急いでいた。  疲労困憊だが、その足取りは軽い。彼らは成し遂げたのだ。不可能と思われた和解と、秩序の回復を。


「父上! オクタヴィアンです!」 「セバスチャンです。資金の目処もつきました」 「アウレリアです。民との対話の道が開けました」


 三人が寝室に入ると、皇帝ヴァレリアンはベッドに上半身を起こして待っていた。  窓からは、安らかな朝の光が差し込んでいる。


「……おお、来たか」  皇帝の声は、昨日よりも遥かに弱々しかった。だが、その表情は穏やかだった。


「見事だ。……お前たちの声が、ここまで聞こえていたぞ。三つの音が重なり、美しい和音を奏でていた」  ヴァレリアンは震える手を伸ばし、三人の手を取らせ、重ね合わせた。


「忘れるな、この感触を。オクタヴィアンの剣、セバスチャンの金、アウレリアの知恵。どれか一つ欠けても、帝国は立ち行かぬ。……三人で、支え合うのだ」


「はい、父上!」オクタヴィアンが涙声で答える。 「必ずや」セバスチャンが頭を垂れる。 「約束します」アウレリアが父の手を握りしめる。


 皇帝は満足げに頷き、そして――  ふっ、と糸が切れたように力が抜けた。


「父上!?」「陛下!?」  重ね合わせた手が、力なくベッドに落ちる。  心拍が弱い。意識がない。  医師団が慌ただしく駆け込んでくる。 「陛下が意識不明の重体に! 蘇生措置を!」


 その喧騒の中、寝室の扉が乱暴に叩かれた。  またしても、伝令兵だ。しかし今度の男は、先日の比ではないほど蒼白だった。


「報告ッ!!」  伝令兵の絶叫が、病室の空気を凍りつかせた。


「ガリア総督マクシムスが……軍を動かしました! その数、五万! 『皇帝の退位と帝都の解放』を掲げ、ルビコン川を越えました! 破竹の勢いで南下中です!」


 オクタヴィアンが愕然と立ち尽くす。 「五万だと……? 我が軍は、昨夜の混乱で疲弊しきっている。それに北方の防衛線は……」


「突破されました! 味方の守備隊の多くが、マクシムス軍に寝返った模様です!」


 最悪のタイミングだった。  帝都の内部崩壊は食い止めた。だが、その傷が癒える間もなく、最強の外敵が喉元に刃を突きつけてきたのだ。  そして、統合の象徴である皇帝は、今まさに死の淵にいる。


 窓の外。  美しかった朝陽が、再び不吉な血の色に見え始めていた。  試練は終わっていなかった。  本当の戦争が、始まろうとしていた。

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