5◆図書館とアリドネアの菓子
夜に紛れアイザックが自分の部屋に戻ったのは隠し通路からだった。サザクード侯爵の娘に変わった様子はない。と、いうことはサザクード侯爵も動きはないということだ。ネズミ捕りに気付いた様子はない。
茶会の様子を少し聞いたが、ファレルに辛い思いをさせてしまったようだ。しかしそれを憂いる資格も自分にはないとアイザックは思う。
アイザックはネズミ捕りの仕掛けだ。王太子を名乗っているが、反対派を呼び込む餌である。
反対派は国民に都合のいい事を吹聴して回ってるが、海の利権を奪い取りたいだけだ。魚人を家畜のように働かせるのが当たり前の時代、サザクード家がその元締めをやっていた。それが時代が進むにつれ非人道的であるという活動が始まり、サザクード家は港の関連から名前を消した。
現王が魚人の自治区を認めたことにより、サザクード家への美味い蜜の供給が止まり、今ではあたかも国民の為という顔をして大騒ぎをしている。
ネズミ捕りはもうじき実行される。それと共に反対派に支持を受けていた現王太子は廃太子とされ、イシュマが王太子となるのだ。
アイザックは信頼関係に愛は関係ないと言った婚約者を思い出す。出会った初めに愛さないなどと言った相手と信頼関係を築こうとしてくれた。長く争って来た国から人質としてやってきた姫がどんな相手かと思っていたが。
「ファレルとなら…」
元敵国同士であっても、和平への道を歩くパートナーになれたのではないだろうか。
アイザックはそう思ったが、それは口にはしなかった。最初から存在しない未来である。
***
「悠久の国と謳われるアリドネアは長い歴史がございます。王家の一員になるのだから、その勉強をしたいのです」
そう言ったセイラ扮するファレル王女の希望により、王立図書館の特別室に入ることが許された。王家に伝わる歴史の書物については結婚するまでは見ることができないが、国家の重要機密とに相当するかなり詳しいことも書いてある本も見ることができる。学者や専門家なども使用の申請をして入る場所だ。
「アリドネアを学んでくれるとは有り難い」
「当然でございますわ」
アイザックに微笑まれ、セイラも微笑み返す。王立図書館の特別室の利用を認めさせろと言ったのはファレルなので、「ファレル王女がアリドネアを学ぶ意思がある」というのは事実である。
城の中も飽きて来たのでセイラとしても外出はしたい。早速セイラはファレルと共に王立図書館へ向かった。
特別室は「室」というよりも「棟」である。壁一面が書庫となっており、希望する本を言えばこの特別室の主と呼ばれる老人の司書が取ってきてくれるシステムらしい。
「魚人の歴史と港の土地所有者の記録、王家に縁ある貴族がわかる資料はございますでしょうか」
ファレルが司書に向かって「主人である王女が所望しております」という然で聞いているが、全部自分が見たいものである。その間セイラは窓辺の席で外を眺めていた。王家に縁のある貴族がわかる資料は自分も読んでおいた方が良さそうだとセイラは思う。きっと色々派閥もあるので、王太子妃となったファレルに仕えるのに必要になる知識だろう。しかし港の所有者と魚人の歴史は今の自分には必要ない。アリドネアの菓子のレシピ本などがあれば見てみたいので、あとで司書に聞いてみよう。
今日はファレルの気が済むまでこの特別室にいるのがセイラの仕事だ。ファレルが根を詰め過ぎたら喫茶室へ連れ出して休憩させよう。何事も夢中になったものには脇目もふらずに邁進してしまうファレルは、セイラのペースで無理矢理休憩させるくらいでちょうどいいのだ。
セイラは菓子の本を取ってきてもらうと、描かれている菓子の絵に夢中になった。
茶会や客間に用意される菓子は他国から来た王女を気遣ってかどちらの国にも広く食べられているものだった。しかしこうして本を読むと、見たことのない菓子があるようだ。本物の王女でもないのに城で用意するよう言いつけるのはいくら何でも厚かましいだろうと思い、今日の帰りにどこかで買って来てしまおうとセイラは一人静かに笑顔になった。
***
アイザックとファレルは婚約者同士である。なので親睦を深めるために一緒にお茶などしたりする。
図書館から借りて来た本に目を通したいとファレルが言うので侍女の仕事は休みとし、今日は別の侍女(同僚)を伴ってセイラはアイザックとのお茶の時間にやってきた。
「王立図書館はどうだった?」
「とても大きくて立派でございました。目移りしてしまいましたが、司書の方が希望する本をあっという間に持って来てくださいましたわ、すごいですわね」
「60年以上あそこに勤めている司書だ。知らないことはない」
「まあ、すごい。近くにあるお店にもとても詳しくていらっしゃいました」
そう言ってセイラは侍女に目をやると、図書館の帰りに買って来た菓子を用意する。
「昨日毒味は済ませてありますが、言葉で言っても不安でございますわよね。なのでこれは私と半分ずついただきましょう、アイザック様」
「私に買って来てくれたのか?」
「ちょっとしたお土産ですわ」
司書の老人に近くに菓子の店がないかと聞いてみると、さすが王立図書館の司書だけあって、この店なら国王に忠義がありどこからもおかしな息が掛かっていない、そして美味いと太鼓判を押した店を紹介してくれた。なんとも頼もしい。
侍女がアイザックの目の前で綺麗に半分にした菓子が大皿に並び、その中の一つをセイラが自分の皿に取る。
「母国で見たことがないお菓子ばかり選びましたの。まずはこちらを頂きますので、私の無事を確認したら、アイザック様も召しあがってくださいね」
ナッツが敷き詰められたたっぷりと甘い菓子は、昨日ファレルともこうして食べて気に入ったものだ。香辛料が強めなのは産地との取引が長いからだろう。
アイザックは菓子をあまり口にしないのだが、セイラが食べた菓子の残り半分に手を付ける。
「そうか、ファレルにはこれが珍しいんだな。アリドネアでは身分関係なく食べられているものだ」
「たっぷりナッツを使っていて贅沢なお菓子ですわね」
セイラはお菓子が大好きだ。王の妹に呼ばれた胸の悪くなる茶会も、替え玉で王女の振りをして元敵国の王太子とお茶をするのも、お菓子が美味しければなんとか乗り切ってしまえるくらいには好きである。機嫌よくニコニコとアリドネアの菓子を食べるセイラをアイザックはお茶を飲みながらじっと見ていた。
「ファレルは、休戦中の国へ嫁ぐのに不安はなかったのか?」
「不安、でございますか?」
ふと、アイザックは問う。聞いてから不安がないはずなどなく、おかしな質問をしたと思った。
セイラとしては本人の意見に迫るような話題はなるべくやめてもらいたいのだが、過ごす時間が増えるに連れだんだんパーソナルの部分に近付いていくのは仕方のないことだろうとも思う。結婚が決まった時のファレルを思い出すと「私の出番のようね」と不敵な笑みをしていたので、不安は別にないと思う。
セイラが考え込んでいるとアイザックは言葉を続ける。
「今は休戦しているが、いつこの状況が覆るか解らない」
「…それでも、役割は全うすべきでございますわ」
これなら自分にも答えられるとセイラは口を開く。セイラも侍女としてアリドネアへやって来るのなら、王女に何かがあった場合は自分も同じ道を辿る。ファレルの酔狂で自分だけが罪に問われるのは絶対に御免だが、シヴォレーとアリドネアの関係の悪化によって危険が身に迫るのであれば、それは覚悟をしている。
「違いまして?」
「いや…その通りだな」
目の前の人はその状況は解った上で笑顔でいるのだとアイザックは思った。清楚で大人しい印象の王女だと思ったが、芯が強いのだろう。愛さないと言ったのは自分なのに、婚約者を知るたびにアイザックの胸は痛む。
「このピンク色のお菓子、食べるのが楽しみだったんです。昨日は緑色のを食べましたのよ」
「ベリーの味かな」
「ふふふ、お待ちくださいね。私がまず味見をしますから」
そう言ってセイラはフォークで小さく切った菓子を口に入れる。思っていたより甘酸っぱく、自分好みで思わず嬉しさに目がパッと開く。
「気に入ったようだな」
「あら、どうしてわかりましたの?」
「ファレルはとてもわかりやすい」
アイザックは婚約者とのやり取りに自然と笑みがこぼれたが、それが更に自分を苦しくさせた。