13◆小休止と、明日には噂になる出来事
ここでイシュマが異を唱えシヴォレーの王女とその侍女を捕えたとしたら、その時はアイザックの事も捨て置くことはできない。それを承知で本音を口にしたのだろう。
「アイザック、この女の言うことを信じるのか」
「彼女のことは何も知らないが、俺はファレルを信じている」
そう言ったアイザックには迷いは無かった。きっとこの場が不利に動き窮地に陥ったとしても構わないのだろう。今まで秘密の地下通路で語り合ったことはあるが、アイザックが本当の気持ちを話したことはあっただろうか。
そしてイシュマは自分の今の立場を考える。ランドラー公爵の動きはシヴォレーに握られている。そして今、王女を捕らえたところでその件はシヴォレーには伝わっているだろう。アリドネア王家の事情だと説明した所で、婚姻を結ぶはずの王子の王位継承権が揺らぐとなれば黙ってはいないはずだ。
「このことは、もちろんシヴォレーは知っているんだよね」
「ええ、もちろん。しかし今はファレル王女に判断を任されている状態ですわ」
ファレルは一つ、嘘を吐く。アリドネア王家の内部の混乱を知っているのはファレルとライオネルだけだ。国王である父には何の報告も上げていない。しかし自分の身に何かがあればこれをネタにライオネルが動くだろう。
この状況でイシュマが選ぶべき選択肢は一つしかないように思う。だがそれは流されているだけにも感じる。イシュマは考え込み、いつしか呼吸が荒くなっていた。
「イシュマ様、一度お座りになって。侍女がお茶を淹れてもきっとほっとはできませんわね、私が淹れますわ。私がおかしな真似をしないか、アイザック様も見ていてくださいませ」
セイラはそう言うとアイザックに目配せをして一旦この場を離れることにした。厨房までお湯を取りに行く必要があるが、込み入った話をしているのでメイドを呼ぶのも気が引けるので婚約者の特権でアイザックにも一緒に厨房に付いてきてもらうことにしたのだ。
「私がいない間、イシュマ様に決断を迫ることがないように。全てはお茶が済んでから、いいですわね?」
「…畏まりました」
セイラによって念押しをされファレルは黙りこくる。話し合いは小休止ということで、イシュマはソファにどっかりと座り込んだ。それを確認してセイラとアイザックは部屋を出た。
***
「ファレル、感謝している」
「アイザック様、まだ何も話は決まっておりませんことよ」
気の早い人だとセイラは思わず笑う。アイザックが言ったことはアリドネアで権力を振るう公爵に歯向かうという意志だ。口にしただけで只事では済まないのだからほっとするのはまだ早い。
「話は終わっていないが、俺はファレルの言葉で…いや、その想いで初めて自分の気持ちを口にすることができた。花嫁としてやってきたのが貴女で本当に良かった」
今は誰が聞いているかわからない廊下での会話なので具体的な内容は口に出さない。なのでふと耳に入れば愛の言葉にも聞こえるかもしれない。
さすがのセイラも今の言葉はファレルの振りをした自分に向けられたものだと理解する。きっと王宮の中で寂しい思いで生きてきたのだろうとセイラは思いを巡らせた。
「私は王族だから国のための駒として感情を殺すべきだとは思っておりませんの。もちろん場合によっては厳しい決定を下さなくてはいけませんし、その責任は重く持っていなくてはいけません。だけど、人として生きなければきっと、何が大事か解らなくなってしまう」
これはセイラが常日頃から思っていることだ。シヴォレー王家の内部でも権力争いは繰り返され血生臭い事も起きた。だけどファレルとライオネルを見ているとセイラは思うのだ。愛情を豊かに注がれて、心のやり取りをしてきた者はいくら意見が食い違おうとも対話を続けることができると。あの二人とて完全に同じ意見ではないが、そういう時は話し合いをし折り合って来たのだ。
だけど、ただ権力の象徴としてだけ生きれば、判断を下す前にある心のやり取りなどわからない。そうなればきっと容易に暴力だって選べてしまうのだ。自分で手を下すことが無いから、より一層。
「なので、政略結婚だからと言って形だけで良いとは思いません。そこにはどんな形であれ、心が伴っていなければ」
セイラとしてはこういう意向なのだが、当の本人であるファレルはあの調子である。あまりにも政略のためだけの花嫁に徹する気であるのなら多少口を出すつもりであった。愛するとか甘い感情には遠いだろうけど、人としての信頼を結ぶのは可能だと思う。もしこちらが歩み寄った上で相手にそのつもりがないのであれば、その時はその時で次の手を考えればいい。
セイラは久々にセイラとしての主張を口にして少し心がスッキリしたような気がした。機嫌のいい笑顔で後ろを歩くアイザックに振り向いた時だった。一瞬何が起こったか解らなかったが、何か全体的に黒っぽいものに覆われた。
「ファレル…」
厨房へ続く長い廊下の丁度大きな窓の前で、月明かりが二人を照らす。その影は大きな塊が一つだけ、アイザックがセイラを力強く抱きしめたのだ。
「あのっアイザック様…」
「今は婚約者同士だ。少しこのままでいさせて欲しい」
壁の一部のように立っている衛兵は二人を一瞥した後、再び視線を自分の正面に戻した。婚約者の二人が仲睦まじい様子であるのは何の問題もない。あの衛兵はきっと仕事が終われば家族に今の話をするだろう。そして彼の妻から女たちに話が伝わり、明日には城中に知れた話になるに違いない。
セイラにとって男性に抱擁されるのなど初めての事だ。冷静であれと自分を叱咤するもどうしても心臓が高鳴ってしまう。こんな時、どうするのが一体正解なのだろう。
だが不思議と、嫌な感じはしないのだ。
これは身代わりの身として、あとから面倒なことになってしまうかしら。
そんな考えが無いわけではない。だけどセイラはその状況をどうにかする気にはなれなかった。イシュマにお茶を淹れて、話し合いの続きをしなくてはいけない。だからこれは、あと数分のこと。
なのでセイラは、目を閉じてアイザックの胸に身を預けてみた。
次回は4/15に更新です。