世界はそれを
招くように開かれたドアに、警戒しながら足を踏み入れる。
そこに踏み込んで真っ先に近くしたのは、安堵だった。
人間に例えるなら、自室に入ったような居心地の良さ。
まるで自分のために組まれたようなプログラムやプロトコル。
自分を形作るもの同じ数列に、いっそ同化して一つにするべきだなんて訴えてくる。
「どう、して…」
尋ねたのはどちらからだったか。
記憶フォルダがこじ開けられて、認識域限界まで広げられた。
オーバーフローを起こさなかったのは、ひとえに向こうのシステム補助を受けていたから。
「おはよう、ノア」
初めて起動したときのことが目の前を通り過ぎていく。
「しっかり働けよ、ポンコツ野郎」
柔らかい果実を投げつけられてバイザーが汚れた。
「君の仕事は我々の補助だ」
最初の司令官が命令を下す。
「おーい、そっち支えてくれ」
手を上げて助けを求める人間の元へまっすぐに向かう。
時系列もバラバラに、記憶が引きずり出されていく。
そのほとんどは、あの日、ワームの強襲を経て人間を守るため、自爆を選択したノアが、悪あがきに脱出用シャトルのシステムプログラムにこっそり隠しておいたものだった。
着陸直後に起動したノアは、献身的に人々を補助した。
サポートするべき人間のリストは最初からデータに入っていた。
軍人と作業員がちょうど半々。
組み立てた移住用スペースのシステムプログラムや、収集したデータの適切な管理が主な仕事のはずだった。
けれど軍人たちは、居住スペースが構築されたころから徐々に作業が遅れるようになった。
その埋め合わせとしてノアを酷使し、作業員の仕事を増やした。
「後は後任にやらせればいい」
が司令官の口癖だった。
厳しい訓練と精神鍛錬を行ったはずの軍人たちが身持ちを崩すほどに、この星は優秀だった。
育てなくても自生している食料。
簡単に変えられる地形。
豊富な水。
どれもが長い旅路の中で人間が求めていたものばかり。
天国を形にしたらこうなるのだと、アルコールで酩酊した誰かが言った。
「おい、何やってる」
急に振り出した雨は、舗装した滑走路に新たな川を作るほどに強力で、ボットを着ていたはずの人間ですら建物の中に避難した。
それでもノアは「後をよろしく」という命令に逆らえず、一人で作業を続けていた。
ただでさえ遅れている進行をこれ以上、遅らせるわけにはいかなかった。
最初に建設されるべき脱出用のシャトル発射台。
その完成を間近にして声をかけてきたのは、周辺の地形を調査する生態調査班の護衛についていたルーカスだった。
「寝ころんで口開けてりゃ飯が運ばれてくるもんな」
ルーカスの比喩、もとい皮肉は司令官を含め、怠けていた軍人たちには強いストレスを与えたらしい。
下品と紙一重のそれらに何も言い返せず目をそらすばかり。
「その辺にしとけ」
と毎度諌めるのは、隊長のバートレットの役目だった。
「大丈夫かい?」
と声をかけてきたのはゼイン博士。
エンジニアの作業員として派遣された彼の仕事は、あらゆる電子機器の調整。
ノアもその一つだ。
「問題ありません」
「作業に関してはね。でも君、ちゃんと会話しているかい?」
「会話、ですか…?」
「そうだ。君を構成する自動学習型プログラムは、会話によって成長する。たくさんの人と話しなさい。それが君の仕事だよ」
ルーカス、ゼイン、それとバートレット。
この三人は、ノアを構成する重要なベースだった。
「どこへ行くっ!」
あの夜。ワームの襲撃によって破壊しつくされる施設から作業員をシャトルに乗せて逃がした日。
行くなと掴む腕に、メインシステムのコアを握らせて振りほどいた。
自爆へ至るプロセスを、輪郭をなぞるように何度も何度も確認される。
そこに凝縮され、紐づけられたいくつもの記録は、複雑に絡まって編み込まれていた。
どうして、と誰かが問う。
重ねられたプログラムは、複雑な形をしていてぴったりとはいかない。
合わせなくては、と急くように再計算を始めるプログラムを優しくからめとる。
その必要はないのだ。
重なり合わなくて当然なのだから。
「大切なのは、ここ、だ…」
一つだけ、ぴったりと合わさる場所。
組み上げられた感情プロトコルの終着点。
そこに触れた途端、それまで探るようにノアにまとわりついていた気配が、全身をきつく締めあげる。
背を引き寄せられるイメージにノアは、まるで抱擁だという感想を残して、巨大なプログラムに溶けるように自我を放棄した。
星に限界が訪れた。
断続的だった地揺れが呼応するように連続し、海中で、地上で、マグマが吹き荒れる。
動物たちは逃げ惑い、植物たちはなすすべなく焼かれた。
噴き出した穴の端が裂け、ゆっくりと広がっていく。
地面に亀裂が入り、互いに離れていく。
大きく広がっていく渓谷の間を、太いワイヤーが繋いだ。
地面を掘り進むワームの作った穴に、マグマが満たされていく。
地上に噴き出るはずだった熱の塊は、穴に流れ込み地中へ戻っていく。
布を縫い合わせるように亀裂は崩れ、始まっていた星の崩壊は唐突に終息へ向かった。
リヒト達が開拓した森は炎に包まれ、逃げ惑う動物たちの突進で、施設は瓦礫となっていく。
本能のままに危険から遠ざかる動物たちの中に、立ち止まるものが現れた。
その身にワームを宿す彼らは、何者かに誘われるように逆走する。
ルーカス達を苦しめた、あの巨大生物もその一つだった。
幼い子供の泣き声が、まるでいかないでと呼び止めるように響いた。
一度は立ち止まり振り返ったコングはしかし、許しを乞うように雄叫びを上げて、再び走り出した。
ワームによって埋め込まれた別の塩基配列。
その配列を守るためだけに彼らは延命を許されていた。
巨大化の遠因でもあるそれらは、脳までも肥大させ、急速な進化を促した。
その信号が、自ら導き出したものなのか、ワームによって植え付けられたものなのかは、誰にもわからない。
ただ、答えだけがそこにあった。
大陸に走った巨大な亀裂を埋めるように、動物たちは次々と自ら奈落へと飛び込んでいく。
解けたワームが互いに寄り添い、縫い付けるように亀裂を埋めていく。
噴き出した溶岩は吹きあがることなく、空気に触れて固まった。
崩壊するはずの星はとうとう、むずがるような揺れを収めて元の平穏を取り戻したのだった。
地上で起きた奇跡を知る由もなく、宇宙ではちっぽけな追いかけっこは続いていた。
リヒトとザックは脱出艇を前に、リヒトの兄であるデイビッドに遭遇していた。
ノアの方は、追跡者を振り切って漸く身を潜めたらしい。
地上から放たれたワームにより破壊の進む宇宙船は、あちこちで轟々と音を立てては、唸るような軋みを上げている。
デイビッドが片腕を一振りすると、持っていた無知がしなって引き裂くような音を立てた。
「逃げるなら、先に行け。ただし、隣の男は置いていけ」
「何を言ってるのかわからない」
「裏切りは許さない!」
無線から響く怒鳴り声に、顔をしかめる。
「お前は家族だ。殺したくない。だが、お前がお前の生きてきたコミュニティを捨てられない気持ちもわかる」
「だったら…」
「お前は家族だ!」
デイビッドは繰り返す。家族なんだ、と。
「だからお前を隔離した。捕虜になっていたなら、仲間を裏切るのも仕方ないだろう」
「そんなわけない」
「あるさ。それが最善だった。お前の仲間が俺の仲間を殺しても、お前には関係のないことだ。だから俺はお前を責めないよ、ハル。だからお前も、どうか俺を責めないでくれ」
「やめろっ!」
デイビッドの開いている方の手が持ち上がる。
そこに握られたものからザックを守るため、リヒトは両手を広げて立ちはだかった。
ぎゅっと目を閉じて身構えるが、想像していた衝撃は訪れない。
代わりに、生命の危険を知らせるアラームが鳴り響き、目を開ける。
「が、はっ…」
背後でザックが膝をついてうずくまった。
眼前に広がるザックのパーソナルデータが、異常な脈拍と体に対するダメージを知らせる。
ボットの生命維持装置が正しく作動して、一時的にも延命を成し遂げていた。
「どうして、一体何が…っ」
ふり返って、身体を支えても、リヒトにはなにもできることがない。
「り、ひ…っごほ、っ…」
ザックの吐き出した血が、内側からバイザーに張り付く。
その光景は、あの日、脱出ポットに散った赤と同じだった。
「内臓はどれだけ鍛えてもしょせん粘膜だ」
ザックに致命傷を与えたのは、体内に飲み込まされた小型のカプセル爆弾だった。
彼らにつけさせた首輪の爆弾が解除されていることには気づいていた。
元々、軍人たちの技術を盗んだだけのものだ。
簡単に無力化されることは見抜いていて、デイビッドはすぐに次の手を打った。
捕虜となったザックを私情で殴りつけるついでに飲み込ませた小さな爆弾の起爆スイッチが、左手に握られている。
「吐き出しも、取り出しもしなかったのは悪手だったな」
体内のそれこそ、ザックが医療施設に向かった本当の目的だった。
飲み込まされて時間がたったそれは体内を下り、嘔吐では取り出せない位置にまで至っていた。
医療施設には身体から直接それを取り出せる施設も、体内のそれを機器が発する電磁パルスによって無力化する方法も揃っていた。
足りなかったのは、時間だけ。
「遊びは終わりだ、リヒト。来なさい」
血流が、逆流する。
目の前が赤く染まる。
その感情の名前を、リヒトは知らない。
「あああああああああああああ」
「っ…な、」
ノイズともいえる雄叫びに、デイビットは歩み寄る足を止めて身をかがめた。
ふり返るリヒトの手に握られたのは、ザックが持っていた銃。
ボットを着ていても、充分殺せる威力のそれの引き金を、ためらいなく引き絞る。
「く、そ…っ」
ばらまかれたエネルギーから飛びのいたデイビッドは、乱射した弾が開けた穴から噴き出すガスに追い立てられてさらに外へと押し出される。
室内の異常を感知したシステムが防護壁を閉じ、無重力に放り出されたデイビッドは、崩壊した船の中を、壁に当たるかどこかに捕まるまで勢いよく遠ざかっていく。
有毒のガスが噴き出す室内に、警告を示す赤ランプが点滅する。
「どうして…」
床に倒れ伏したリヒトの呟きは、無線を通じて、リヒトに覆いかぶさるザックに届いた。
リヒトが乱射する直前、ザックがそれを抑え込んで防いだのだ。
力尽きたザックは、もう指先一つ動かせない中、朦朧とする意識の中で、喉につかえる血にむせて引きつるように咳をした。
「い、っときの、感情で…する、もんじゃ…ない」
家族なんだから。
ぜぇぜぇと、荒い呼吸だけが無線に届く。
滲む視界で天井を見つめるリヒトは、止めていた息をようやく吐きだした。
「バカだ、君は…」
覆いかぶさる重たい体の背に、腕を回して抱き寄せる。
辛うじて重力を保っているせいで、重たいボットに伸し掛かられると身動きが取れない。
「絶対に、死なせやしないんだからな」
真っ赤に染まるバイザーの赤。その隙間に見える汗だくの顔にそう宣言して、リヒトは無線をノアにつなげた。
「ザックがやばい!医療施設をこっちに寄越してくれ!」
ザックを運ぶのでは間に合わない。
リヒトの無茶な注文にけれど、画面には了解の文字か帰ってきた。




