走れ、生き残りたいならば
謎の微生物を打ち込まれ、三日三晩苦しんだ挙句、適合してしまったルーカスのその後は、実験体としては酷く穏やかなものだった。
「ルーカスさぁん、助けてくださぁい」
半べそをかいた研究者に縋られ、呆れながらも体を起こす。
反抗的な態度を取らないルーカスのことを、施設ではある程度の自由を許すどころかむしろ働き手の一人として数えていた。
元より、頭脳明晰だったルーカスにとって、ナノマシンによる肉体強化が加わった結果、人間離れした存在になれたことは幸運だった。
だが、上層部にとってルーカスの存在は脅威でしかなく、同時に、その脅威を己の元でコントロールできたらという願望も、捨てられないものだった。
自動扉が開いたその先は惨状だった。
散らばった書類や家具。荒らし回された内装の中心に倒れた、この施設の長でもある、リヒト博士の首からは、血、いや、血と呼ぶには黒すぎる液体が溢れ、床に溜まりを作っていた。
「今日は嫌な日か、ブラザー」
床に散らばった資料に素早く目を通す。
中でも、破り捨てられた書類の断片を繋ぎ合わせたことで、全てを察する。
「今更化物扱いされたぐらいで死ぬなよ。めんどくせえな」
吐き捨てるような言葉に、焦点を失くしていた双眸がぎろりとルーカスを捕える。
「げふ、が…」
「閉じてからしゃべれよ。何言ってるかわかんねぇ」
素っ気ない態度を取りながら、先ほど泣きついてきた研究員が欲していた資料のみを拾い集める。
倒れていたリヒトの、避けた首筋がぴったりと合わさり、傷が塞がった。
「僕をどう思おうと構わない。君を侮辱されたのが許せないんだ」
「それでなんで死ぬんんだ」
「それは…」
リヒトが言いよどむ。
本当はルーカスも彼が自害のまねごとをした理由を理解している。
要するに、罪悪感だ。
化物を作り出してしまった罪悪感。
殊勝な心得だと思うが、ルーカスにとっては酷くばかばかしくも思えた。
化物本人は喜んでいるというのに、作った方ばかりが嘆いているのだから。
「どうでもいいけど、ここ、片付けとけよ」
「あ…、えっと…」
集まった資料を片手にドアを開けると、入り口で待っていた先ほどの研究員に渡す。
泣いていた研究員は笑顔を取り戻し、何度も頭を下げて駆けていった。
「ルーカス…」
気まずそうな声に、厭味ったらしい笑顔で振り返る。
「仕方ねぇなぁ…」
ルーカスの言葉に、リヒトはぱっと表情を明るくした。
研究施設で過ごした日々のことを、ルーカスはあまり思い返さない。
あまりに穏やかなその時間を、現在と比べてしまうのが嫌いだったから。
あの時間は、ルーカスにとっては確かに特別だった。
ルーカスの中で安定したナノマシンを使って生み出した新兵器の実験体に、リヒト博士は自分自身を選んだ。
それは、彼なりのルーカスに対する贖罪だったのかもしれないし、あるいは、彼のルーカスに対する歪んだ感情の表現だったようにも思える。
ルーカスとリヒトは、お互いがお互いにとって、初めて出会う対等な存在だった。
天才として生み出されたリヒトと、天才として生まれてしまったルーカス。
違う道を歩んで出会った二人が、互いを特別な存在として認識するのにそう時間は必要なかった。
別れは、ひどく突然だった。
目を覚ますといつもの研究室ではなかった。
研究チームが移されたのだと聞いた時、真っ先にリヒトの安否が気になった。
きっとまた、自傷しているんだろうと、諦めのような感情を持った。
「ハズレユニット」を生き抜いたルーカスにとって、理不尽は日常で、無抵抗が普通で、順応が当然だった。
気が狂うような喪失感を慰めたのは、互いに簡単に死ねない体を持つという事実が、広い宇宙の中で再会する可能性を産んでいたから。
データを取るという理由で配属された、軍で最も危険な部隊、害獣駆除チームに配属になった時も、特に怒りや憎しみは感じなかった。
それをポジティブと呼ぶかはわからないが、初めて出会ったはずの新しい仲間たちが、ルーカスの信用できる直感に、好印象を与えていたせいもある。
バートレット部隊は、適度にクレイジーで適度にまともだった。
隊長であるバートレットが、信念を持つ人物だったのもあるだろう。
「くそみてぇな人生だったが、悪くねぇんだ。わかるか?」
真っ白い空間の中、目の前に佇むボットに語り掛ける。
無感情なカメラアイと、思考を表す赤いランプが、静かに点滅するだけだった。
「離れろ」
とにかく、この場から逃げろ、と周囲の者に叫ぶ。
「彼を…っ」
未だにルーカスのことをあきらめないクエンスを抱えて、ラスカは装置に背を向けた。
「いいんだ、あいつは」
機材が無くなったあたりでクエンスを降ろす。
ワームたちの関心は機械にばかり向いていて、生身となったラスカたちは、飛んでくる破片に気を配るだけで充分だった。
逃げのびてきた青年たちが集まってくる。
「ガキばっかじゃねぇか」
ボットに乗っていた時は、ボットのサイズに誤魔化されていたが、脱いでしまえばその姿は、未熟な子供たちばかりだ。
「我々は十五から十九年で編成された先行部隊だ。地上を制圧するのに我々だけで充分だと、ボスが判断した」
なんてことだ、頭を抱えたくなる。
自分が彼らと同じ年頃は、まだハイスクールでスイーツを食べて友達と課題を手分けするのに忙しかった。
「見てっ」
一人が指さす方向を一斉に見上げる。
空に向かう光の帯が二つ、三つ。
時間を空けて撃ちあがる対宙砲に、落胆の声が漏れた。
「大丈夫だ」
傍らにいたクエンスの肩を強く抱く。
「今は、てめぇが生き残ることだけを考えろ」
ラスカの視線は、ワームの群れに飲み込まれるルーカスの装置に向いていた。
傷の入った強化アクリル板の向こうに除く彼の眼は虚ろで、生きているようには見えなかったが、隙間から侵入したワームが全身に巻き付く間も、彼の口元は確かに笑っていいるように見えたから。
広大な森だった部分は、一夜にして半分以上が焼け野原となっていた。
燃え広がった火は木々を焼き、降り注いだ雨に消されて白い煙をもくもくと吐き出している。
森を居住地として選び、最低限の資源を与えられていた作業員たちは、武装したアウトサイダーズに追い立てられ、まるで被捕食生物のごとく怯えながら逃げ惑うしかなかった。
彼らが警戒するのはアウトサイダーズばかりではない。
炎に追い立てられ、住処を追われ苛立つ野生生物も、ボットのない簡易スーツのみの作業員たちにとっては天敵だった。
森に、雄叫びが響き渡る。
薄くけぶる白い景色の中、あてもなく歩く作業員のタイラーは、すでに疲労困憊でふらふらだった。
ろくに眠ることも許されず、どこに向かっているかもわからない。
支給された荷物の中、持ち出した水と食料も尽き果てた。
追われる中、重たい荷物から捨てていき、最後にはもう何も残っていない。
巨大な木の根元に倒れるように座り込む。
どこからともなく響く銃声と、小動物たちが逃げ惑い、木々が揺れる音。
燃えたのか、それとも別の何かにへし折られたのか、大木が倒れる地響きが地面を走る。
もう、限界だった。
ここであきらめてしまおう、と真っ白な空を見上げる。
空なんて見えていないけれど。
吐く息で、バイザーが曇っては晴れる。
このままこの木の根元に横たわり、植物のように長い時間をかけて溶けてしまえたら、この苦しみから解放されるのだろうか。
全てを投げ出したつもりでいたタイラーだが、すぐそばで木々が揺れる音に飛び起きてしまう。
生きるのを、あきらめられない。
それが人間の本能なのか、生物の本能なのか、タイラー自身の精神力なのか、誰にもわからない。
武器もない、身を守る術もない状況で、けれど懸命に、タイラーは身構える。
不意に、茂みの間から小さな獣が飛び出した。
ふわふわとした尻尾を揺らして、短い手足を懸命に動かし、長い胴を駆使して懸命に駆ける小さな生き物を、しかし、後から飛び出した大型の肉食獣は簡単に捕えた。
鋭い爪と大きな身体に伸し掛かられ、小動物はなすすべなく生を失う。
肉を捕食するために進化した尖った牙が、柔らかな毛皮を難なく引き裂いていく。
自身の身の丈を優に超える猛獣に、タイラーができるのはただ息を殺して身をすくめることだけだった。
わずかでも身じろぎをすれば、次にあの爪に引き裂かれるのは自分である。
タイラーに、生物に対する知識はない。
せいぜい、ハイスクール時代にデータベースで見せられた写真ぐらいだ。
四足歩行か、二足歩行か。草を食べるか、肉を食べるか。
人間を食べる生物は聞いたことが無い。当然だ、わざわざ人間を好んで食べる獣はいない。
彼らにとって、人間は地面を逃げ回る小さな動物の一つに過ぎないのだから。
咀嚼音を響かせていた獣の耳がぴん、と立つ。
人間には捕えられない音を捕えた獣が、不意にタイラーの方へと振り返った。
その目がタイラーを捕えているかはわからない。
じっと自分を見る二つの黄色い眼光に、息を止めて静止するしかできない。
と、そこへ、地響きと悲鳴が近づいてくる。
木々をなぎ倒す轟音に、獣は己の獲物をくわえて逃げ出した。
先に飛び出してきたのは、黒いボットに身を包んだアウトサイダーズ。
半狂乱で駆け抜けていく彼らの後を追っていたのは、大木と同じ高さがありそうな、巨大な二足歩行の猛獣だった。
簡易スーツの画面に表示されるアイコンに、タグ付けがされている。
コングと名付けられたそれは、かつてルーカスが苦戦した巨大生物だったが、タイラーがそのことを知るはずもなく、目の前に現れた猛獣と、それに付き従う群れにただ、絶望した。
「やめ、たすけ…ぎゃぁああ」
「うわぁあああ」
四人、いや、五人居たのだろうか。コングの左手に握られた黒い塊を含めるならば。
小隊として動いていたのだろうアウトサイダーズ達は、銃弾をまき散らしながら必死に逃げ惑っている。
木の上から飛び掛かった一頭に引き倒された一人に、他のゴリラが群がり、逞しい腕を存分に叩きつけ、大きな体で胴に乗り上げ、飛び跳ねるように押しつぶす。
悲鳴を上げて暴れまわっていた体から力が抜け、地面に染みが滲むと、群れは次の標的を探して散っていった。
コングの行進によって寄り掛かっていた大木がなぎ倒され、タイラーは無様にも地面に転がる。
緑と茶色の景色の中、突如現れた白いスーツに、ゴリラたちが気づくのにそう時間はかからなかった。
銃撃をものともせず黒いボットに襲い掛かる一団から、数頭が離れてタイラーに狙いをつける。
未だに、タイラーのことを獲物にするかどうか品定めするような視線から、震えながらなんとか後ずさった。
ボットを着て、銃を持ったやつらですら適わない敵相手に、簡易スーツの自分が生き残れるわけがない。
諦めと、けれどあきらめきれない生への執着とで、タイラーの脳は焼けつく寸前だった。
また一人、アウトサイダーズの兵を仕留めたコングが雄叫びを上げた。
呼応するように吠えたゴリラが、勢いをつけてとびかかってくる。
身をひねって初撃をかわし、這いずるように手足を動かし、何とか立ち上がった。
後ろから、殺意が迫る。
いよいよ最後だ、と直感したタイラーの前方から、エネルギー弾が突き抜け、背後に迫ったゴリラに命中した。
肩を撃ち抜かれたゴリラは一瞬怯んだものの、傷をものともせず再び構える。
とにかく逃げようとするタイラーの視線の先から、緑に紛れた中にはっきりと、グレーのボットに身を包んだ二人組が現れた。
「捕まって」
タイラーの目の前に着地した一人が、しっかりとタイラーを抱き留める。
言葉に従うまでもなく、反射的にしがみついたタイラーは、フックショットを放ったその男に抱えられて素早くその場を離脱する。
飛び込んできたもう一人は、タイラーを救った銃を構えたまま、正確に狙いを定めて目の前に居た三頭のゴリラを素早く鎮圧した。
「ディルク!」
「わかってる」
名を呼ばれたディルクは手慣れた手つきで銃を乱射モードから狙撃モードへと切り替える。
威力を上げるためエネルギーの再充填が終わると同時に、今にも黒いボットの装甲を叩き潰さんとするゴリラの頭蓋を撃ち抜いた。
轟音に気づいたゴリラの標的がディルクに移る。
ディルクは気に留めることなく、充填が完了すると同時に、次々と銃撃を放った。
一頭、また一頭と、急所を撃ち抜かれたゴリラが地面に倒れる。
襲われていた兵士たちは、困惑しながらも、ボロボロの身体を引きずって森の奥へと逃げ込んでいく。
迫りくる群れに再充填が間に合わないと察知して、再び乱射モードに切り替えた。
威力が下がった銃弾はけれど、先ほどとは違い連射が利く。
近い者から、的確に銃弾を浴びせて打ち落としながら、ゆっくりと後退する。
数の多さと、コングの存在があっては、銃一丁でどうにかなる相手ではない。
その場に居た、アウトサイダーズ含む全員の脱出が完了し、後は自分の離脱するタイミングを計っていたディルクだったが、数の多さが一瞬の隙も与えてくれない。
「お待たせ」
言いながら、飛び込んできたのは、先ほどタイラーを運んでいったリックだ。
飛び込むと同時に、迫っていたゴリラ一頭に体当たりまがいにぶつかり、衝撃で深くナイフを突き刺す。
地面に倒れ伏す衝撃をばねに飛びあがったリックは、コングの肩口を狙ってフックショットを放った。
「バカ、よせ!」
「あ、やっべ」
大型二足歩行生物に対して、頭部をナイフで狙うのに適した戦闘法ではあった。
けれど、それが上手くいく相手ではないことを、ルーカスがすでに証明している。
半円を描き、背後に回ったリックの眼前に、コングのうなじからあふれ出したワームの花が広がった。
突き立てようとしていたナイフを持った右腕に、ワームが絡みつく。
咄嗟にワイヤーのフックを緩めたリックは、力任せに身をひねって回転した。
プロペラのごとき回転に、まとわりついていたワームが引きちぎられる。
なおも迫るワームの先端を、ディルクの銃撃が阻んだ。
「あぶないなぁ!」
エネルギー弾が装甲をかすめるのを感じながらも、リックは何とかフックショットを駆使してその場から離脱する。
ディルクの援護に気を取られた隙に、目の前に迫ったゴリラに襲い掛かられた。
地面に押し倒される反動を利用して、巨躯を背後へ投げ飛ばす。
襲い掛かるもう一頭には銃撃を浴びせ、後退するよりはいっそのこと、と前方へ駆けだす。
群れを突き抜けた先には、コング。
対峙した巨大生物は、目の前に転がり込んできた獲物に歓喜の雄叫びを上げた。
小動物であれば身をすくめる咆哮も、訓練を積んだ人間には隙でしかない。
すでに再充填を終えた銃の狙いを、冷静さを失った燃える瞳孔に定める。
背後から、向きを変えたゴリラの群れが迫っているのを感じながらも、ディルクにためらいはない。
「悪いな」
放たれた圧縮されたエネルギーが、頭蓋を撃ち抜く。
背後に迫る群れは、地面に転がったアウトサイダーズの銃を回収したリックによって打倒された。
小隊があれほど苦戦した群れを屠った二人は、手早く装備を確認する。
死体を回収するほどの余裕はない。
ドッグタグと、銃の弾をなんとかかき集めるのが関の山。
「報告書ぐらい目を通せ」
「通したよ、忘れてただけ」
軽口をたたきあいながらもその手際は素早い。
各地に散らばった生き残りを、脱出ルートへ導くのが彼らの役目だった。
改めて地図を開く。
点在する赤いアイコンが、助けるべき次の相手だ。
方角を確認したディルクを、リックが突き飛ばす。
よろめくディルクの目の前で、音もなく起き上がったコングの背から湧きだしたワームが、リックの身体を飲み込んだ。




