生きる意志
ジョナスを追ったリヒトは、森の中を疾走していた。
荷物を背負っているとはいえ、ボットの運動補助機能の助けを借りたリヒトよりも彼は速い。
画面の中を這いまわる様々なセンサーの移す表示に、悪酔いしそうだった。
疲れていた。リヒトに自覚はなく、これほどまでに追いつめられなければ気づかないほどの疲労の蓄積。
生態調査部に配属されたからだけではない。
確かに、調査の日々は充分な休息も取れず、疲れた体に鞭打って歩き回る日々が続いていた。
それでも、ボットを着ているリヒトは、ジョナスよりよっぽど楽ができていたはずだった。
リヒトがこの星に降り立って以降、ずっと囚われているもの。与えられ続けているもの。
重さ。重力。寝ても覚めても、常に体に罹り続ける負荷。
宇宙で生まれ育ったリヒトにとって、重力は故意に発生させる事象に過ぎなかった。
遠心力で、装置で、引力で。
力を生み出すためにはエネルギーを消費する。
常に適度な重力を発生させ続ける環境はひどくコストのかかるもので、かげでいきてきたリヒトにとっては、重力は高価なもの、贅沢なものだと思っていた。
上流階級の特権が、今は恨めしい。
こんなものをありがたがっていたなんて馬鹿みたいだ。
確かに、重力があれば色んな道具が勝手に浮き上がるのを気にする必要はないし、いちいち壁に自分を固定しながら移動する必要もない。
宇宙空間に放り出される心配もしなくていいし、空気だってそこら中に溢れている。骨密度や血液濃度の心配だってしなくていいし、他にも、いっぱい。
それらを全て打ち消して余りあるデメリット。
足を動かさなければ移動できない。
「ジョナス、ジョナス…待って…っ」
無線で呼びかける自分の声が途切れる。息が切れていた。
心臓が破裂しそうな勢いで脈打っている。足先から脳天まで血液を送るために、強い脈動が必要なのだ。
背負った機材を固定するベルトの金具がこすれてガチャガチャとうるさい。
ジョナスの痕跡を追って草をかき分ける音とは別に、頭上で木が揺れる音がした。
先ほど目の前に現れた巨大な個体に比べたら充分小柄だが、リヒト同じくらいか、それ以上の体長を持つ獣が、木の上を飛び跳ねるように移動していた。
黒い体毛が影を錯覚させ、恐怖心をあおった。
リヒトの頭上を追い越した一頭が、進路をふさぐように立ちはだかる。
「…はっ」
咄嗟に回避して、進路歩変更する。
画面に新たな進行候補が表示された。
ジョナスの居場所を確認して、と考えようとしたところで、集中が途切れる。
脳に酸素が回っていない。
あちこちの木の上から回り込んだ黒い影が、辺りを取り囲む。
怒りを感じさせる瞳がリヒトを突き刺し、筋肉に覆われた分厚い体を更に大きく広げ、咆哮をもって威嚇してきた。
常に思考によって己の行動を決めてきたリヒトは、野生の本能が放つ勢いに簡単に敗北する。
元より、リヒトは自分のことを弱い存在だと認識している。
小さな体、筋力の弱さ、意思疎通の不得手。ボットの補助があってようやく平均の能力を手に入れる自分が、常に自然という驚異と向き合って生きている目の前の野生生物に勝てるわけがない。
難しい思考は必要なかった。いうなれば、リヒトの本能が、死を直感した。
リヒトにもう少しの筋肉があれば、あるいは酸素が万全であったなら、あるいは体力があれば。とにかく、あともう少し、余裕があれば、何とかして生き残ろうともがく努力をしていたかもしれない。
けれどリヒトは、リヒト・テイラーはここに存在しない。
常に深い思考と生き残る努力を重ねる不屈の男は、リヒト・テイラーは、ハル・サティが作り上げた理想の男だ。
リヒトであれば、リヒトだったなら、どんな思考をしていただろうか。どんな行動をとっていただろうか。これまでの人生で繰り返してきた思考の鎧は全て剥がれ落ちてしまった。
ハルに生きる意思はない。ハルに本能はない。ハル・サティという人物は、あの日、小惑星が襲撃された日、脱出ポットで宇宙に投げ出された日、消滅してしまったのだから。
黒い影に囲まれながらハルはとうとう膝をついた。
ぜぇぜぇと自分の呼吸音がうるさい。
じっとりと滲んだ汗が額に、首筋に、肌にまとわりついて気持ち悪い。
虚ろな瞳で宙を見上げる。
木々の間から見える遠い、遠い宇宙。
空が青いなんて、星に降りて初めて知った。
きっとあれは、舞い上がった水分が星の色を写しているのだろう。
全く根拠もなければ、見当はずれな推測を最後に、リヒトは命を投げ捨てた。
「ああああああああああああ」
汚い悲鳴。
閉じかけていた瞼を開けて顔を上げる。
こちらを取り囲んで見下ろしていた影たちの視線が、一様に別の場所に向いている。
声の正体は考えなくてもわかった。ジョナスだ。
高い、とか低い、とかではなく、濁って聞き取れない濁音。
ささくれた木と木をこすり合わせた中に、ガラスを鋭利な鉄でひっかいたような、とにかく人を不快にさせる音。
やつらは明らかに動揺していた。
しかし、相手がジョナス一人だと気づくと、警戒するものの、逃げ出すほどではない。
標的をジョナスに変え、影たちはゆっくりとジョナスを取り囲む。
「ひぃ…」
ジョナスは完全に腰を抜かして地面に座り込んだ。
充分だ。息を整えるのにも、思考を整えるのにも充分すぎるほどの時間稼ぎだった。
リヒトは地図に印をつけ、背負っていた機材を地面に下した。
フックショットを放ち、地面を這うようにジョナスの元へ移動する。
自然ではありえない動きに、影達は虚をつかれて動けなかった。
「捕まって」
「…っ」
抱えたジョナスから手を離すと、ほとんど反射的にしがみついてくる。
両手のフックショットを構えたリヒトは、狙いを少し先の大木に定めた。
我に返った影達が襲い掛かってくるのを、ジョナスはリヒトの肩越しに確認する。
と、不意に強力な重力がジョナスをリヒトの身体に押し付けた。
身体が宙に浮く。
リヒトがフックショットを使って飛んだのだと理解するころには、地面にたたきつけられていた。
「着地のことぐらい考えてから飛べよ!」
「ごめん」
幸いにも、着地地点ではリヒトの腕の中に居て怪我はなかったものの、勢い余って地面を転がる時に、あろうことかリヒトはジョナスを放り出した。
土塗れのスーツを軽くはたくジョナスの耳に、木々のざわめきが聞こえる。やつらが追ってきているのは明白だった。
それほど距離を稼いだわけじゃない。
「走ろう」
「言われなくても…っ」
「そっちじゃない、あっち」
「は?集合場所は…」
「このままあいつらを引き連れて集合場所には行けない」
「…っ、あぁあああくそっ」
ジョナスが走り出す。リヒトはその背中を静かに追いかけた。
足にまとわりつくワームを横薙ぎに切り払う。
取り出したのは、リヒトに突き立てたあのサバイバルナイフだ。
すぐさま身をひるがえし、逃げをはかるが、さらに伸びてきたワームがそれを許さなかった。
身体にワームがまとわりつく。
ルーカスは、苦々しく「くそっ」と吐き捨てた。
ワームの研究で指揮を執ったのは主にルーカスだった。
やつらが観測するエネルギー量、生息地域、行動パターン。
熟知しているからこそ、今の状況がどれほど厄介かわかる。
そして、やつらに絡めとられたが最後、抜け出す方法が無いことも、ルーカス自身が誰よりも理解していた。
足に巻き付いたワームの上から這いよった別の個体が、太ももを、腰を、身体全体を拘束していく。
掻きむしるようにして振り払う抵抗も、難なく制された。
ルーカスを完全に拘束したワームは、引き寄せるようにゆっくりと持ち上げる。
地面をはいずることすら許されなくなったルーカスは、されるがままにコングと向き合う。
「…っ?」
コングは、完全に白目を剥いて意識を失っているように見えた。
意識が無いとしたら、ルーカスを拘束しているのはワーム自身の意思だというのだろうか。
ルーカスは思考をフル回転させる。
ワームの習性。ゴリラの習性。今まで集めた情報をかき集め、再処理。
みし、と嫌な音がして、左足に激痛が走る。
じわじわと強くなった締め付けに、スーツが耐え切れなくなってきていた。
改造を施した分、弱くなった部分から悲鳴を上げていく。
コングが手招きをすると、ワームが引き寄せられ、ルーカスはコングの眼前へと身を寄せた。
上向いていた眼球が戻ってくる。
思いのほか澄んだ両眼に、ルーカスが映し出された。
気を失っていたわけではない。奴は完全にワームと同調して、ワームの器官によってルーカスを捕えていたのだ。
怒りが伝わる。けれど、何に怒っているのか、ルーカスには見当もつかなかった。
縄張りを荒らされたにしては、こうまでしつこいのも気にかかる。
いや、それよりも。
奴は完全にワームを自分のものとして扱っている。
やはりこの個体を生かして残していたのは正解だったと、ルーカスは胸中でほくそ笑んだ。
よくぞここまで育ってくれた。
みしみしと、体のあちこちが悲鳴を上げる。
圧迫された血流が頭に集まってきて、鼻から漏れた。
息もできない苦しみの中で、けれどルーカスは、口の端をゆがめて笑っていた。
風が、吹き抜ける。
ルーカスとコングの間を、風がよぎって、二人を切り離した。
瞬間、お互いに見つめあったまま、無の時間が過ぎる。
互いに、何が起きたか理解するのに、それだけの時間が過ぎた。
ルーカスの身体が、拘束されたまま重力に従って地面に向かう。
しかし、身体が地面にたどり着く前に、全身を剣閃が這う。
不意に拘束が緩み、身体が軽くなった。
そのまま落ちるに任せたルーカスは、けれど、地面に激突することも無く抱き留められる。
高周波ブレードの立てる独特の起動音が、空気を震わせていた。
「遅えじゃねぇか」
「申し訳ありません」
独特の電子音が生真面目に返す。
ルーカスを抱き留めたノアは、飛びのくようにコングから距離をとった。
直後、身を切られたワームは叫ぶように体を飛び散らす。
まるで花が咲いたような光景に、ルーカスはいつもの皮肉を利かせる余裕はない。
「ころすなよ」
うわごとのようにこぼす命令。
フレームの歪んだ改造スーツでは、まっすぐに立つこともままならないと、ノアは瞬時に判断する。
怒りに任せたコングは、何故か錯乱したように周囲を攻撃していた。
完全に正気を失っているように見える。
ルーカスを抱きかかえたままでは何もできないと、とりあえずノアは近くの木の根元へルーカスを預けた。
殺さずにこの場から逃げ切るためには、やつからの注意を断たなければならない。
起動したまま背負っていた高周波ブレードを構えなおす。
ノアの視界カメラには、コング本体は緑、ワームは赤く表示されている。
ワームとコングの接点は背中側のうなじ近くに集中していた。
元々この個体は、ネコ科の大型動物と縄張り争いをした結果、頚椎をへし折られて絶命したはずだった。
それをワームが寄生して、神経に擬態した結果、生きながらえていただけだ。
ノアは滑るように地面すれすれを進むと、コングを守るように伸びていたワームを切り刻む。
足元へもぐりこむと、一足飛びに跳躍して頭上を飛び越えた。
身をひねって、落下の勢いを利用して、うなじから伸びるワームの付け根を両断した。
支えを失ったワームは、動くに任せて四散する。
地面でびちびちと跳ね回るもの。かろうじて体に引っかかり、なんとかコングの元へ戻っロうとするもの。どれも、先ほどまでの一体化した一つの器官から、個別の小さな個体へと戻っている。統率を失ったワームは、それほど脅威ではない。
地面へと着地したノアは、息注ぐ間もなく、いや、そもそもノアは息をしないが、わずかの間も開けず再び地面を蹴った。
狙ったのは、コングの左足。
ザックに撃ち抜かれ、ルーカスのフックに掬われた足は傷だらけで弱っていた。
このまま放っておけば、傷口が炎症を起こし、毒となっていずれ命を落とすだろう。
それならば、切り落としてやるのが情けである。
一刀両断だった。
太ももの中央。もっとも硬い骨と言われている大腿骨を両断し、巨大な肢が宙を舞う。
コングの巨躯がぐらりと揺らいだ。
一拍遅れて、血が噴き出す。
「グォォオオオ」
絶叫が、辺りに響いた。
傷口に、ワームが殺到する。
欠損した四肢を補うために、寄生した宿主を守るために擬態するのだろう。
斬りぬいたそのままの動きで、ノアはルーカスの元へ舞い戻ると、ぐったりとしたその体を抱えなおし、木々の間へと姿を消した。
二人を追いかける余裕はなく、黒い塊となったコングとワームは、その場でしばらくのたうち回る羽目になったのだった。




