00.こんな変化は望んで無いんだが
2023年5月16日(火曜日) AM8:45
相も変わらず有楽町線の混み具合はクソだ。久しぶりの出勤だが、昔は当たり前の様に脳死状態でこの混雑した電車に乗っていたわけだ。
が、在宅勤務が当たり前になってからというもの、出社する度にこの混雑にうんざりするようになった。時代が進んで在宅勤務が定型化してきたわけじゃない。
何年か前だ。新型ウィルスが蔓延し世界保健機関、つまりWHOがパンデミックとか発表したほどだ。人類がワクチンを開発している間にウィルスも進化し、収束するまでにかなりの時間を要した。
そんなものは人類の進化の過程で当たり前の事ではあるが、現代の人類は頭の螺子が緩いのか危機感というものが乏しかったのだろう。新型ウィルスはそれを嘲笑うようにその勢力を拡大したわけだ。
という俺も当然陽性になったんだが。人間病気になるのは当たり前で、毎年のように風邪やインフルエンザは流行る。それに何かを言った言われたというのは無かった筈だ。だが、この新型ウィルスに関しては、罹患するとまるで犯罪者だと言わんばかりの扱いをされた。
馬鹿か・・・
まぁ、そんな事もあり、今ではワクチンも安くはないが受けられるようになっているし、当時の混乱は既に風化している。だが、在宅勤務という業務形態は当たり前になり、俺も家での仕事が当たり前になっていた。
これを利用しない手はない。WEB会議の時に映る範囲の身形さえ整えておけば問題ないのだから。仕事はするが、予定と結果さえ報告し、業務が滞らなければ何をしていても概ね気付かれはしない。
WEB会議の最中、見えないところでスマホのゲームをしていたっていいわけだ。常にカメラで監視されているわけでもないから、テレビを見ていようとゲームをしていようと分かりはしない。会議も無く仕事量の少ない時なんか、酒を飲む事も可能だ。
だから、たまに出社するのが酷く億劫になる。
(お、あの子いいスタイルしてるな。)
有楽町で乗って来た子に目が行く。おそらく彼女も出社だと思うが、空いた座席に座ったので、タイトスカートから見える膝から下の白い足を見ながら要らぬ妄想をしてみる。
だが残念な事に俺は、次の銀座一丁目で降りるしかない。まぁ、残念も何も、綺麗な子が居たからと言って何かあるわけじゃ無いんだが。
(まったく、契約書の作成や送付なんて出社している奴が代行でやってくれりゃいいのによ。)
自分の案件とは言え、それぐらいの融通は無いのか?そんな事を思いながら契約書の綴じ代に割り印を押していく。
「あ、酒牧さん今日出社だったんですね。」
「あぁ。これな。」
席の近くを通りかかった後輩の染谷が声を掛けて来るので、契約書を見せながら怠そうに答えておく。
「言ってくれれば私、代わりにやりましたよ?」
代わりにやりましたよ?じゃねぇ。そういう事なら最初から言っておけ。
「あ、でも社判使うのには酒牧さんの印が必要ですね。」
「机に入ってるから、今度から頼むわ。」
「はい。」
嫌そうな顔をもせずに、染谷は笑顔で頷く。今朝の女性程じゃないが、見た目は普通でもスカートから見える足は悪くない。そう思って目線を下に向けた。
「久々に、どうだ?」
なかなか出て来る機会もないので、酒を呷る仕種をしながら染谷に聞いてみる。後は適当に出社している仲のいい奴に声でも掛けりゃ、軽い飲み会くらいにはなるだろう。
「えぇ、酒牧さん酔うと目が嫌らしいですからねぇ。」
「うるせぇ。」
こっちは聖人君子じゃねぇんだよ。酔わせて同意を録音してホテルに連れ込んでやろうか。悪い事を考えながら染谷の顔を見るが、気付いていない本人は、そんな事を言っても嫌な顔もしていない。
「まぁ、私はいいですよ。」
「そうか。なかなか外に出ないから、飲みに行くのも久々だ。」
「でも程々にしてくださいよ。酒牧さんお酒に弱いから、すぐ潰れちゃうんだもん。」
「余計なお世話だ。」
俺がそう言うと、染谷はクスッと笑って自席の方へ向かって行った。
染谷が軽くあしらう様に、俺は酒に強くない。酔わせてホテルに連れ込むなんて妄想以外の何物でもないし、夢のまた夢だろう。むしろ俺が介抱される側という悲しい現実を目の当たりにするだけだ。
情けない・・・
結局、染谷以外誰も乗って来なかったので、二人で行く事になった。有楽町まで歩き、適当な店に入る事にする。
その有楽町付近に来た時だった。喧噪と悲鳴が入り混じり酷い騒音になっている。面倒ごとは勘弁して欲しいので、避けようと別の道を指さして染谷を見る。
「でも、気になりません?」
すんなよ、アホか。
「トラブルは回避が一番だ。」
「そうですけどぉ。」
残念そうにするな。自分は大丈夫とか妄想でしかないからな。トラブルに近付けば近付くほど、自分の身に降りかかる危険も増えるんだ。その辺分かってないよな。
「あ、あれ・・・」
歩き始めた俺を引き留めるように、染谷が後ろから声を出す。その声は、明らかに動揺しているように聞こえた。だから、その時点で嫌な予感はしたんだ。
人混みが割れるように開くと、その人混みも蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。それ見た瞬間、俺も此処に居てはヤバいと思って逃げる準備を始める。
だが、染谷はその人混みを割って出てきた血塗れの人間に目を奪われ、動けないでいた。
「馬鹿!逃げるぞ!」
何が起きていたのか、既に認知出来ている。血塗れで出てきた人間の後ろから、またも血塗れで飛び出してくる奴が一人。そいつはナイフを振り回しているから、それが元凶だと嫌でも分かる。
「あ・・・」
染谷の腕を掴んで走ろうとするが、その光景に恐怖しているのか、染谷は動けずに硬直したままだ。
「馬鹿、死にたいのか!」
「は、はい!」
やっと我に返ったのか、恐怖に染まった顔を俺に向けた。そこで走り出そうとしたのだが、的中して欲しくない嫌な予感は、現実となって降りかかって来た。
「走れ!」
俺は染谷を引き寄せ、背中を押して凶行に走っている奴とは反対方向に押し出してやる。
「でも・・・」
「いいから行け!直ぐに追いつく。」
「はい。」
とは言ったものの、走り出した染谷から狂人に目を向けると、時既に遅し。色の無い暗い瞳、感情の無い無表情、無造作に振り被った右腕。それはもう目の前に迫っていた。
そう認識した時には、狂人のナイフは俺の首を薙いでいた。痛いと思ったかどうかは知らない。だけど、視界は自分の首から噴き出す鮮血で朱色に染まっていくのだけは分かった。
(おいおい・・・)
程なく視界が薄れ、世界が傾き始めた。
(誰だよ、飲みに行こうとか言い出したバカは・・・)
アスファルトに打ち付けられる自分の身体の音が、耳に響いたような気がした。
(くそ、染谷をお持ち帰りする予定だったのにな・・・)
(・・・)
何処だよ此処・・・
「っ・・・くさっ!」
ぼんやりとした意識で目が覚めた俺は、鼻を突く匂いで意識がはっきりとする。椅子から起き上がって周囲を見ると、そこは部屋のようだった。
右手には本棚があり、古臭い本が隙間なく並んでいる。左手の棚には、大小様々な瓶が陳列していた。その中はどれも液体が入っているが、あまりいい色とは言えないものも多い。さらには中身が何なのか知りたくもないようなブツが浸かっている瓶まで存在する。
「気持ち悪ぃな・・・」
おそらく、匂いの正体はこの陳列された液体だろう。
「いや、そんな事より此処は何処なんだ?」
考えてみるが、俺の人生に於いてこんな場所に来た事など一度も無い。思い出そうとしたが、そもそも無いものは無いのであって、思い出す行為自体が間違いだ。
そんな事を考えながら、起きた椅子の正面にある扉の方に向かって歩き出す。その扉はどうやら外に繋がっているようだったからだ。
部屋の中だけでは何の判断も出来ない。であれば、扉の外も見てみる必要があるだろう。
「・・・」
鈴の音と共に開いた扉の外は、やはり知らない光景だった。それどころが、目の前の道は石畳で出来ていて、通行人の姿は多種多様、しかも現代では見かけない格好をしている。
コスプレ、というカテゴリであるならば、居ない事はないか。
いやいや、そういう問題じゃない。
どう見ても此処は日本じゃない事は確かだ。
いや、待てよ。太秦や日光江戸村があるくらいだ、こんなコスプレで徘徊出来る施設があっても不思議じゃない。可能性としては一番高いだろう。
「見なかった事にしよう・・・」
俺は呟くと扉を閉めて部屋の中に戻る。
そこで、ある事を思い出した。
(俺、有楽町で凶行の餌食になったよな?)
そう言えばそうだよ。結局、二人での飲みになったから、どうにか染谷をお持ち帰り出来ないか悩んでいたよな。
思い出しながら、斬られた首筋に手を当てるが何ともない。痛みがあるどころか、傷も無いようだ。もしかすると、長い事意識不明になっていて、その間に治ったのだろうか。その可能性は低くないだろう。
だが問題はこの場所だ。目が覚めるなら病院以外にはあり得ないだろう。そうじゃないとすれば、何かの陰謀か?何かの陰謀だとしてだ、何故コスプレ村・・・
考えても答えは出ないので、本棚の方に目を向ける。何かの情報が得られるかもしれない。
「な・・・んだ、これ・・・」
本、という認識しか持って無かったので気付かなかったが、よく見ると本の背表紙に書いてある文字は日本語じゃない。英語でもない。近いとすれば象形文字?何かの記号の羅列?そんな感じだ。とても一般人に読めるような・・・
「ユーレリア地方で薬として使える植物の解説。」
・・・
俺、何で読めるんだ?
いやいやいや、おかしいだろ。そう思ってとなりの本の背表紙を見る。
「メルアキア地方で薬として使える植物の解説。」
なるほど、植物は地方によって違うから、地域ごとに発行されている植物図鑑みたいなものか。
いや、そうじゃねぇっ!
問題は何故この文字が当たり前の様に読めるかだ。いや、そこでもねぇ。一体此処は何処なのかというところからだ。何故俺は病院でもなくこんな場所に居るのか。
それを考える前に、まず喉が渇いたな。起きてから混乱する事ばかりだが、少し落ち着いて状況を確認するとしよう。
俺はそう思って、起きた椅子の奥に続く扉に入ってみる。もしかすると、と思ったが当たりだ。どうやらダイニングの様で、テーブルや食器棚、流し台等も置いてある。冷蔵庫になんかあればいいんだが。
・・・
部屋の中を見渡してみるが、それらしいものは存在しない。冷蔵庫も無しでどうやって生活しろってんだよ。
無いものはしょうがないので、食器棚から木製のグラスをだして、水道から水を・・・なんだこのポンプ式は。まぁいいか、そう思って注ぎ口に流し込む。
(意外と冷たいな・・・ってか美味いなこの水。)
飲み干した後のグラスを見ながらそんな事を思った。東京の水は飲めるのは飲めるが、やはり臭いはする。が、この水はまるでペットボトルで買った天然水のようだ。
一息付いたところで、改めてダイニングの中を見渡す。テーブルの上には燭台があり蝋燭が備え付けられて・・・蝋燭?疑問に思って天井を見上げると、在るべきものが存在しない。
おいおい、まさか電気が来てないとかじゃないだろうな?いや、蝋燭にポンプ式の水道、冷蔵庫が無い。状況証拠としては十分じゃないか?そんなところまでリアルにする必要はあるのか、このコスプレ村。
一通りダイニングの中を見て回るが、それ以上の情報は出そうにない。落ち着いてそんな事を考えながら、先ほどの部屋に戻ろうとしてある事に気が付く。何故か足に布が纏わりつくような感覚と、涼しさがある。
そこで俺は初めて自分の身体を見た。
「なんじゃこりゃぁぁぁっ!!」
スカートを履いていた自分に思わず大声で叫んだ。
待て待て待て、俺にそんな趣味はない。どっちかと言えば女性のスカートの中に興味がある方だ。決して自分のではない。
何か歩きづらいと思ったらこれが原因か。何の趣味があっておっさんにスカートなんか履かせやがった。俺をここに置いた奴を見付けたらタダじゃおかん。
そう誓うと、先ほどの部屋の前に、先ず着替えが無いか探す方を優先した。ダイニングから奥に、更に部屋があったので入ってみる。
(ビンゴ。)
その部屋は寝室のようで、ベッドとクローゼットが置いてあった。誰のか知らんがさっそくクローゼットを開ける。
「こいつは・・・嫌がらせか。」
中に入っている服を見る限り、男物は一切無い。つまり、俺に女装しろって事か。俺にそんな趣味はねぇ。アホか。死ね。
内心で悪態を付きながら、クローゼットの扉に鏡を発見する。いや、女装したおっさんとか見たくねぇな。と、思いつつも怖いもの見たさで鏡を見る。
「貴女は誰?」
そこに映っていた若い子。どうみても10台半ばくらいの女の子に首を傾げて聞いてみる。
ってバカ!!
そうじゃねぇ。
これ、俺かよ!?
・・・
まさか、人体改造?
俺は嫌な予感がして、恐る恐る股間に手を持って行く。
「ねぇぇぇっ!!!」
俺の、俺の、大事なあれが、付いてねぇ!!何てこった、改造の工程で取りやがったのか!?どいつか知らんが、これは殺してもいいんじゃねぇか?
待てよ、考えようによっては、あれか。楽しめる事もあるんじゃねぇか。まずは胸からだな。女の身体になったからには、その辺試しておこうと思った。他人の胸を触った日には間違いなく手に手錠が掛かる。
・・・
無い・・・
俺はそこで愕然と肩を落とした。あろう事か、ほとんど膨らみが無い。無い事は無い。その程度だ。
ちくしょー・・・
「リアちゃん居るー?」
その時、突然鈴の音とともに女性の声が聞こえた。
「っ・・・」
俺は驚きにどうしていいか分からず、とりあえず慌てふためいて身体を動かした瞬間、ドレッサーの前に置いてあった椅子に脛をぶつけて、痛みで転倒した。
くそ・・・一体何なんだ・・・