当て猫娘の能力
(えっ。叫んじゃうの? ここで?)
イリヤが叫んだのを見てオリビアは目を丸くしつつ、そのままスッとドアを見た。
なんの変哲もないドアだが、変哲もないからこそ、外の様子は見えない。そんな中一つ彼女が分かっているのは、普通の声で会話をしていても、アリスタリフが聞き取れる程度の厚さのドアだという事だ。
(……まあ、いいか。うんうん。愛は人を幸せにするっていうし。大丈夫、大丈夫。何とかなるわ)
ここで働くメイドたちの情報網の侮れなさをチェレスリーナのおかげで知っていた為、色々と今後起こるだろうことが彼女の頭をよぎったが、あえて気づかなかったことにした。
「ガリーナ? ガリーナとは、メイド長の事か?」
「そうです。俺は彼女の事を愛しています」
「だが、俺では相応しくないと聞いたぞ? 彼女なら、身分的にも何も問題はないだろ」
製菓職人であるイリヤは勿論、メイドであるガリーナも平民だ。そもそも王族のような立場のアリスタリフでも、伴侶に対して身分はそこまで問わないと言っていた。だとすれば、彼らの間に身分によるわだかまりはない。
「それは……俺が人種だからで……」
「ガリーナも人種よね? 祖母が龍種らしいけれど。もしかして、種の違いから彼女を振ったの?!」
「えっ、何で振った事を——」
オリビアはイリヤに困惑気な顔で見られて、慌てて口に手をやった。
(しまった。まだ、その話は彼もしていなかった!)
やってしまったと、オリビアは耳を伏せた。
「種の違いが理由なのに、ふさわしくないなどと口触りよく誤魔化すのは良くないと思うが?」
しかし慌てるオリビアをよそに、アリスタリフはマイペースにイリヤに話しかけた。その言葉にイリヤはそわそわと視線を彷徨わせたが、やがて観念したように深いため息をついた。
「……彼女が龍種の血を引いているからというのは、間違ってはいない理由です。別に龍種が嫌いだからというわけではありません。そもそも最初から彼女は自分の祖を偽ったりはしていませんから、知った上で付き合っていました。問題は彼女のフェロモンが俺には分からない事です」
「フェロモンが分からない? それこそ、最初から分かっていた事だろう」
フェロモンが出ている事を隠していたわけではないのだから、祖を告白されている時に、彼はフェロモンについても知らされていたはずだ。
「フェロモンが分からない事で、勝手に不安になって一方的に別れるのは不誠実じゃないかしら?」
オリビアはムッと眉を吊り上げて、イリヤを見た。
同じくフェロモンを持つ種としては、彼の言い分は身勝手に感じたのだ。
(これが理由なら、やっぱり別れるべきね。だってフェロモンは消せないもの。それを理由に不安になるなら、これは何度でも起こる問題だわ)
猫種であるオリビアとしてはあまり面白くはない理由ではあるが、フェロモンが原因で恋が上手くいかないというのは異種間の交際ではよくある話だ。
だからムカムカはしても、オリビアもそれを咎め続ける気はない。ただ、内心こんな男とは別れてしまえと思うが。
「い、いえ。不安になったわけではなく……この間、龍種の偉い方が、ガリーナのフェロモンを良い匂いだと表現していて……彼女も口にはしませんでしたが気になっている様子でした。だったらただの菓子職人である俺ではなく、あの方と結ばれた方がガリーナは幸せだと思ったんです。俺は、彼女を愛しています。でも愛してるから……愛してるからこそ、彼女には幸せになってもらいたいんです!」
イリヤが叫んだ内容にオリビアは、一瞬固まった。
(ガリーナのフェロモンに対して良い匂いと感じる殿方がいて、そっちの方が身分が高いから身を引くって事?)
そう言う言い方をすれば確かに美談だ。
愛しているからこそ相手の事を想って身を引くのだから。しかしオリビアは次の瞬間には何とも言えない微妙な表情になった。
「そうだったのか――」
「ちょっと待って。確かに彼女の為かもしれないけれど、でも彼女に意思確認をしていない時点で、ただの自己満だわ。自分から身を引くことにして、彼女からの拒絶を避けているだけよね? 金持ちだったり、身分が高ければ幸せになれると思っているの? そう言うのは勝手な押し付けだと思うわ」
納得した様子のアリスタリフとは反対に、オリビアはイリヤへの追及を止めなかった。
「でも実際お金がないよりもあった方が生活は楽なはずです」
「そうね。私はいわゆるお金持ちな上に貴族だから、貴方のようにお金で苦労はしてないわ。そんな私が何を言っているんだと思うかもしれないわね」
「い、いえ、そんな意味では……」
一瞬貴方に何が分かるというような目をしたイリヤに意地悪くオリビアが返せば、彼は慌てて目をそらした。
もごもごと言い訳をする態度に、オリビアはため息をつく。
「でもどちらがいいかを決めるのは、ガリーナよ。貴方の価値観で一方的に理由も話さずにガリーナと別れるのはおかしいわ。私は何も別れるなとは言わないわよ。でも理由も話さず、勝手に理想を押し付けて相手を理由に別れるとか、良くないと思うわ」
君にはもっと相応しい相手がいると思うなんて、口触りのいい別れ言葉の常套句だ。だけど別れるのは変わらないのだから、それぐらいなら正直に話せとオリビアは数々のお見合い破局の末に思う。
そういう誤魔化しは相手への気づかいというよりも、自分が責められにくくするための逃げに思えてならないのだ。
(正直にそこまで言ったら喧嘩になるわね……。主人側の私が使用人の個人的な事を咎めるのはほどほどにしないと、アーリャにも迷惑をかけてしまうだろうし)
オリビアがチラッとアリスタリフを見れば、彼はぽかんと目を丸くしオリビアを見ていた。
「それと、もう一つ確認しておきたいのだけど、そのガリーナの匂いがいいとかとその龍種の偉い人が言ったのは、この屋敷の中だったんじゃないかしら? それも私が結構近い位置にいたのでは?」
「……そうですが」
「あー……、もちろん物理的距離が近いほど私の当て猫娘の能力は発動するのだけれど、この屋敷の中ならフェロモンの好感度はそれなりに上がっているのよね。全く作用されないわけではないの」
「は?」
オリビアの告白に、イリヤはとても困惑していた。それに対して、オリビアもおやっと眉を上げた。
「えーと、私が【当て猫娘】と呼ばれているのは知っているかしら?」
「いえ。初めて聞きましたが……」
嘘をついていない様子に、オリビアはアリスタリフの顔をバッと見た。しかし彼は何故自分が見られたのか分かっていない様子でオリビアを見返すばかりだ。
「……アーリャ、もしかして、私の能力の事を使用人へ説明されていないのですか?」
「あ、ああ。あまり気分のいい呼び名ではないからな。執事長とメイド長以外には特に通達はしていないが……」
何か不味かっただろうかという様子で、アリスタリフは耳を伏せた。
「いえ。私も自分から伝えなかったのがいけなかったと思いますので……。えっと、ちゃんと通達しておいていただきたいのですが、私がこの屋敷にいる限り、屋敷内ではどの龍種のフェロモンも猫種のフェロモンもいつもより良い匂いに感じると思います。距離が近ければ近いほど、効果はもっと如実に現れますが、ある程度の距離があってもそれなりに良い匂いに感じるんです」
相性がものすごく悪い場合は駄目だが、それなりに相性がいいなら、好感が持てる匂いに感じるようになる。
「ただし、それは一時的なもので、その後はちゃんと自分の力で愛を育む必要があります。そして私との距離が離れれば、当て猫娘の能力も消えます。まあ、私の能力は所謂一目ぼれを起こさせやすいという感じで、それが継続するかどうかは本人次第なのです」
そのため結局オリビアを振って、別の女性と付き合い始めても、すぐに別れることもある。
猫種も龍種もフェロモンで恋愛を始めるけれど、フェロモンで恋愛を続けることはできないのだ。オリビアの能力は心を変えてしまうものではない。
「私はフェロモンなしで恋愛を始められたガリーナの気持ちは分からないわ。でも恋愛を続けるのはフェロモンではないのは確かなの。だからちゃんと愛を育てていたなら、フェロモンなんて関係しないわ」
猫種であり、猫種の多い国で、猫種に囲まれて生きてきたオリビアは、例えフェロモンを感じなくても、恋愛はフェロモンで始まるものだという認識だ。でもだからこそ、その後はフェロモンだけではない事も知っている。もしもそれだけが恋愛の主軸だとしたら、一度も離婚しないなんてあり得なくなる。むしろ結婚なんてしてられなくなるだろう。
「すみません。失礼します」
オリビアがフェロモンについて語っていると突然扉が開いた。そしてそこには、長身の黒髪の女性――ガリーナが立っていた。相変わらず姿勢が良く凛としたたたずまいで、イリヤと色々あったというのに落ち込んだ様子は見せない。
「申し訳ございませんが、そこから先は私に話させていただけないでしょうか?」
「ええ。構わないわ」
表情を変えないガリーナの内心をはかることはできなかったが、元々オリビアは部外者なのだ。ガリーナが話すというのならば、出しゃばるつもりもない。
「貴方の浅はかで自分勝手な考えには、ほとほと呆れます。私がいつ贅沢な生活がしたいなどと言いました?」
「えっ、いや。……言ってない」
カツン、カツンとガリーナは珍しくヒールの音を立てた。いつもならば、できるだけ静かに歩いているので、相当苛立っているという事だ。
イリヤの顔が蒼白になる。
「そうです。そして私はフェロモンがある人種だがいいかと、貴方にたずねた上で、交際を開始したと認識しています」
「その通りです」
「それなのに、私のフェロモンを好ましく思う殿方が現れた程度で、最初の取り決めを忘れる程度の覚悟だったという事でしょうか?」
オリビアはガリーナの背後に猛吹雪が吹き荒れる幻覚を見た。
イリヤの身勝手さにオリビアはムッとしていたが、それでも今のガリーナは怖すぎると彼女は思った。理論的に相手を責め、確実に相手を仕留めにかかっているように見える。
「ご、ごめんなさい。……そうです。俺は、覚悟が足りなかったです」
「なら、もう私の事は好きではないという事ですね」
「違う。ごめん。覚悟が足りなかったけど、でも好きだし、愛してる。君には幸せになって欲しいんだ!」
好意を否定されかけたイリヤは慌てたように叫んだ。
その言葉はオリビアにも嘘を言っているようには聞こえなかった。
「私は呆れています。いいですか。私の幸せについて一度だけ言いますので、しっかり聞いて下さい」
ガリーナは無表情のままイリヤを見た。彼は死刑囚のように、断罪に身構える。
当事者ではないオリビアもごくりと唾を飲んだ。
「……私の幸せは、美味しいおやつを優秀な菓子職人が私だけの為に作り、代わりに私が美味しいお茶を入れて、一緒にたまの休日を楽しむことよ」
ガリーナは表情こそ変えなかったが、彼女の丸い耳は真っ赤に色づいていた。




