当て猫娘の困惑
「私の婚約者に何をしている?!」
突然部屋に飛び込むように入って来たアリスタリフを見たオリビアは、まさにキョトンという言葉が正しい様な顔をしていた。
(一体、どうしたのかしら?)
何やらアリスタリフが苛立っているのは声からも雰囲気からも感じたが、理由がさっぱり分からない。というか、そもそも今は仕事時間だ。何故ここへ彼が飛び込んできたのか、さっぱりオリビアには分からなかった。
「だ、だだだだっ……」
状況がよく分からないと困惑するばかりのオリビアだったが、彼女の前に座っていたイリヤは違った。小刻みに体を震わせ、顔面蒼白になっている。とりあえず何か言おうとしているが、言葉になっていない。そのことに少し遅れて気が付いたオリビアは慌てて自分の後ろに立つチェレスリーナを確認する。すると彼女もまた、イリヤほどではないが顔色を青くし、表情をこわばらせていた。
(威圧がかなり出ているという事?! 原因が分からないけれど、止めないとイリヤの心臓が止まってしまいそうだわ)
オリビアはガリーナとイリスが再度くっついて恋人になるのがベストとは思っていないし、場合によっては別れるのも仕方がないと思っている。しかし死に別れは想定外だし、誰も幸せになれない。
「アーリャ、落ち着いて下さい。どうしたんですか?」
オリビアは立ち上がると、アリスタリフの方へと進んだ。
アリスタリフの金の瞳を覗き込めば猫種とも違う、丸い瞳孔が開いている。
(瞳孔の形は人種に近いのねぇ。っと、観察している場合ではなかったわ)
グルグルと小さな唸り声を聞いたオリビアはアリスタリフの手を握った。オリビアよりも大きな手はいつもと同じように手袋に包まれている。
振り払われはしないが、握ったことに気が付いてもない様子にオリビアは眉をひそめた。
「アーリャ」
もう一度名を呼べば、ようやくアリスタリフがオリビアを認識した。
「えっ? お、オリビア? えっ?」
オリビアに気が付いたアリスタリフは、先ほどまでの怒りを霧散させ、オロオロと目を彷徨わせた。
「どうなさりましたか? 皆が威圧で怯えていますわ。大きく深呼吸して、何か不満があるなら話し合いませんか?」
「ああ、威圧……」
「威圧を押さえるには、確か楽しいことを思い出すのが一番でしたよね。私なら美味しいものを食べたり、楽しかった本を読んだりとかでも十分楽しいのですが、アーリャは何が楽しいですか? んー。あっ、アーリャの国はオペラとか素晴らしいのですよね? アーリャは見た事ありますか?」
「昔……親と見たことがあったと思う」
オリビアの言葉にアリスタリフはゆっくりと瞬きをした。
「羨ましいです。今度、私もつれて行って下さいね」
「えっ。ああ、も、もちろんだが。いや、その。私とでいいのか?」
「もちろん。私とチェスでは色々迷ってしまいますし、お願いしたいです。あっ……でも、アーリャは忙しいですものね。中々時間をとるのが難しいですよね」
「い、いや。是非誘いたいと思っていたんだっ!」
アリスタリフの顔がぱぁぁぁぁと喜色に変わり、尻尾もピンと立った。
獅子の顔だが、喜んでいるのが良く分かる様子に、オリビアはクスリと笑う。顔が獅子な為に大型猫な感じで少し可愛らしいなと彼女は思う。
「アーリャはオペラが好きなんですね」
「……お嬢様」
ポツリと小声でチェレスリーナに呼ばれたオリビアは軽く頭をかしげた。
(ちょっと今のは強引すぎたかしら? でも、いつまでも威圧が出ているのはお互いよくないし、切り替えって大切じゃない?)
チェレスリーナが何かを訴えたがっているのには気が付いたが、オリビアはとりあえずはこの場を乗り切るために無視をした。
「デ……いや、オペラを見に行く時は、その……手を繋いでくれるか?」
「もちろん。なんでしたら、公演が始まるまで目を閉じていて下さい。ただおしゃべりには付き合っていただきたいですけれど」
ニコニコとオリビアが話していると、イリヤの顔色が少しだけマシになってきた。今にも死にそうだった顔色が、青ざめた程度に回復しただけだが、それでも回復は回復だ。
(少しは威圧が消えたみたいね)
「それで、突然どうなさったのですか? 私は菓子職人の彼に食べたいものをリクエストしていたのですけど」
「えっ。食べたいもの?……いや、その。先ほど、好きだとか、愛しているとか、俺では相応しくないとか……その。あっ、その。盗み聞きをしようとしたわけでは——いや、結果的になってしまったが……。ただ、オリビアは、まだ正式な婚約者ではないが、その、あの——」
「ああ。すみません。もしかしてこの国だと、使用人でも女性が殿方と話すのは問題ある行動だったりします? ごめんなさい——」
「お嬢様、少々よろしいでしょうか?」
「どうしたの、チェス?」
何が悪かったのか分からぬまま謝ろうとしたオリビアの肩をチェレスリーナは叩きとめた。純粋無垢な瞳で振り返るオリビアに、チェレスリーナは深いため息をついた。
「たぶんおもいっきりすれ違っていますし、このままだと拗れそうなので、発言をさせていただきますが、先ほどお嬢様がイリヤと話されていたのはお菓子の話ではありませんでしたよね?」
「……そうね。さっきはちょっと脱線して、恋バナをしていたわね」
(脱線はわざとだけど)
一応名目はお菓子のリクエストの為だが、オリビアの目的は彼がガリーナと別れた理由の探りだ。そのため、チェレスリーナが言う通りお菓子の話はしていなかった。
「その上で、彼は主語がどうであれ、愛しているとお嬢様に向かって話していました。さらに相応しくないとも」
「そうね?」
「……つまり、アリスタリフ様はお嬢様がイリヤに告白されていると思ったのではないでしょうか」
(……言われてみると、確かに勘違いしそうな言葉な気もするわね)
何処からアリスタリフが聞いていたかは分からないが、ドア越しだと全ては聞き取りきれず、ところどころ問題ありそうな単語が彼まで届いた可能性は高い。
「アーリャ、そうだったのですか?」
「あ、いや……その……。そうだ」
「それは失礼いたしました。確かに婚約予定者が使用人と身分差の恋に落ちて、婚約が破局したなんてうわさが流れるのは良くありませんね。配慮が足りませんでした」
「こ、恋に落ちたのか?!」
ぐわっと再びアリスタリフが目を見開いた。それに対してオリビアは首を横に振る。
「いえ。違います。彼は人種だからフェロモンを感じませんし、そもそも、彼は好きな人がいるんです。そうよね?」
「えっ、は、はい。そうです」
「誰だ?」
「えっ」
「お前の好きな相手は誰だ? 本当にオリビアではないのか?」
低い声で尋ねられ、イリヤはビクッと肩を揺らした。威圧が出ているかどうかはオリビアには分からなかったが、座った目の獅子の顔というのは結構怖い。
「落ち着いて下さい。アーリャ、よく考えて下さい。彼が私なんかを好きになるはずがないじゃないですか」
「私、なんか?」
「ええ。だって、私、お見合いが上手くいった事がないどころか、当て猫娘とか結構酷い通り名がついてしまっているんですよ? ないですよ。うん、ないない」
(訳アリな私にあえて恋をするような人がいるとは思えないわ。そもそも私の事がいいなとちょっと思ったところで、すぐにもっと素敵な女性が現れるのだから、告白する前に終わる恋よね)
オリビアは目を閉じ、うんうんと頷く。
過去をどれだけ思い返しても、彼女は恋愛的に愛された事が一度もなかった。そのため、もしも好きだと言って近づいてくるような相手が居るなら、詐欺師か逆玉の輿狙いか、当て猫娘の能力狙いだと思っていた。
「そんな事ない。オリビアはこんなに可愛いんだ」
「慰めはいりません。顔はそれなりだとは思っていますが、恋は顔だけでするものではないですから」
(あえてフェロモン感知に障害がある猫種を選ぶ理由なんてないわよね。そもそも周りの子の方が気に入るフェロモンをしているのだもの)
オリビアは自分が男性から好かれる部分を見つけることはできなかった。そのため少し困ったように笑い、尻尾を力なく垂れ下げた。
しかしそんなオリビアに対して、アリスタリフは首を横に振り真っ直ぐとその目を見た。
「慰めなんかじゃない。オリビアは、見た目だけじゃなく、とても優しいじゃないか。こんな獅子顔の男との婚約なんて普通なら悲鳴を上げて逃げ出すだろ。いや、実際逃げ出していたんだ。でも君は、俺の呪いを解くために沢山助けてくれている」
「それは私が威圧も効かない体質だから——」
「違う。威圧が効かなくて俺が恐ろしくないなら、恐怖から俺の手助けをしてくれているわけじゃないという事だろ。つまり君は君の意志で俺を助けようとしてくれている。オリビアは優しくて素敵な女性だ。だから、お願いだ。私なんかなんて言わないでくれ」
悲し気な顔で請われオリビアは目を見張った。
彼女は自分を卑下することに慣れてしまっていた。見合いが上手くいかない度に、自分に自信が持てなくなって、気づけば傷つけられる前に、仕方がないよねと思うようになっていた。
(どうしよう。……こんな風に言われたのは初めてだわ)
人に好かれたくて、できるだけ人の願いは叶えてきた。見合い相手に素敵な女性が現れ、すぐに気持ちが離れてしまっても、オリビアはこれまで縋りつき、相手に迷惑をかけたりはしなかった。
ひたすら人の恋を成就させる協力をし、去る者を追わない姿勢を貫けば、人はオリビアを悪くは言わない。残念な通り名はつけられても、オリビアを利用するような事はあっても、最終的には皆同情する。
でも皆、同情するだけだった。オリビアを素敵な女性だなんて褒めることはない。
褒められ慣れないが為に、アリスタリフの言葉の意味を理解すると、彼女は瞬く間に顔を真っ赤にし、尻尾がぶわっと膨らませた。オリビアの心臓がかつてないほど早鐘を打つ。
「それで、お前は一体誰が好きなんだ? もしや、オリビアが好きだが彼女を騙して近づこうとしているのではないか?」
「ち、違います。お、俺は、ガリーナが好きなんです。愛してます!!」
オリビアが顔を赤くし心臓を押さえる中、再びアリスタリフに睨まれたイリヤは、すぐさま好きな相手の名をを叫んだのだった。