EX-77 AF「リーネが記憶喪失になりました」(前編)
前後編の前編です。ひさびさの高橋さん視点です。
VR研で私が書類作業をしていた時、突然実さんがやってきて、そんなことを言い出した。
「リーネが!?本当なの、実さん!?」
「今、病院から連絡があって…。御両親が泣きじゃくって」
御両親が救急車を呼び、搬送先の病院の通話機器を使って実さんの携帯端末に連絡してきたらしい。
「わかった、実さんと一緒に病院に行くわ!ところで、原因は?」
「風呂掃除をしている最中に足を滑らせ、頭を強く打ったようです」
「…あまり、リーネらしくない理由ね」
リーネは、おそらく人類の誰よりもしっかりしている。精神的にも、肉体的にも。最近は、須藤くん絡みで、お茶目な様子を見せることがあるが。
「須藤くんやみんなには私達から連絡するとして…世間一般向けにはどうしよう?」
「様子を確認してからにしましょう。どのような記憶喪失なのか、まだわかりませんから」
「リーネの場合、記憶構成が複雑だしね…」
まるまる失ったのか、佐藤春香としての記憶を失ったのか、リーネ・フェルンベルとしての記憶を取り戻す前に戻ったのか、それとも…。本当に、いろいろ考えられる。
もっとも、御両親が悲しんでいるということは、佐藤春香としての記憶を失ったのだろうと予想できる。とにかく、本人に会ってみるしかない。
◇
「あなたは…誰?」
「高橋美樹だけど…ダメかあ」
「私はどうですか?田中 実です」
「田中 実…実くん?」
…!
「お父様、お母様、少し席を外していただけないでしょうか?」
「え?」
「仮想世界技術に関わる機密情報が絡む話を、春香さんとしたいのです」
「私からも、お願いできませんか?」
「田中さんと高橋さんがそうおっしゃるのなら…」
パタン
「さて…あなたは、『リーネ・フェルンベル』ですね?」
「!?なぜ、私の名前を!?そ、それに、この体は…!?」
「ああ、一応、状況を把握しようとしていたのですね。では、お話しましょうか…」
かくかくしかじか
「え、本当に実くんなの?だいぶ、老けたね」
「そりゃあ、40代ですから…。で、あなたは…」
「うん、8歳だよ」
「これまた、だいぶ前まで戻ったわねえ…」
これはもう、まるまる失ったと考えるべきだろう。
「でも、それなら、私が覚えている頃から30年以上経ってるってことか」
「そうですね」
「でも、20年弱ほど経った時に、体が入れ替わるなんて…」
「ええ、信じられないと思いますが」
「フルダイブ技術だっけ?そんなの、私の頃にはなかったし…でも、可能性は否定できないか」
「え、ええ、そう思ってもらえると」
「記憶はいつか取り戻すとして…『佐藤春香』か、その名前で今後は活動する方がいいよね。記憶喪失ってことにしたとしても」
「はい…」
なんというか、なんというか…。
「ねえリーネ、あなた、本当に記憶を失ってるの?」
「その問いにどう答えたらいいかわからないけど、ひとつ言えることは、あなたのことは思い出せないということかな。…ごめんなさい」
「う、ううん、謝ることはないのよ?」
「ありがとう。高橋さん」
ペコっとお辞儀をする、リーネ。
「(ひそひそ)ねえ、8歳にしては、賢すぎない?」
「(ひそひそ)いえ、当時もこんな感じでしたよ」
「(ひそひそ)そうなの?」
「(ひそひそ)当時既に、御両親の仕事内容を完璧に説明できていましたから」
「(ひそひそ)そ、それは凄いわね…」
「(ひそひそ)日本語と英語とドイツ語で」
「(ひそひそ)日本語と英語とドイツ語で!?」
「(ひそひそ)この頃はアラビア語を学んでいた最中だったはずです」
「(ひそひそ)もはや何が凄いのかわからなくなるほど凄いわね…」
こういう言葉はわざと使ってこなかったけど、彼女は『天才』だったのか。今も昔も。体が入れ替わっても。
「よくわかったよ。…いえ、よくわかりました。そうすると、私が最優先事項として、まず行わなければならないのは…」
「「…ならないのは?」」
「お風呂掃除ですね!」
「「…はい?」」
「だって、途中で投げ出してしまったのですから!このままでは、今の両親に顔向けできません!」
「「はあ…」」
急に丁寧な言葉遣いになったけど…なんか、スイッチが入った?
◇
半ば強引に退院して、自宅のアパートに戻った、リーネ。御両親と共に、私と実さんもついていったが、早速、本当に風呂掃除を再開していた。
御両親が、風呂場の入口でオロオロしながら、掃除をしているリーネを見ている。
「しかし、確かにあの頃のリーネですね。いや、結局今も変わっていませんが」
「どういうこと?実さん」
「彼女、物心ついた時には、既に人一倍世話好きでしてね。学校の係やら神社の手伝いやら、もう、必死に」
はあ。
「言葉を覚えたのも、両親の役に立ちたいからと。各国から家に立ち寄ったお客様のお相手をしたり」
はあ…はあ?
「そういえば、美樹さんにも言ってたそうですね。今の御両親と『一緒に食事したり、買い物とかでお出かけしたりしたい』と」
「え、あれって、そういう意味だったの!?」
「美樹さんも知ってるでしょう?『スローライフのための攻略』という、彼女のスタンス」
いやそれ、ケインとしての彼女のスローライフのためっていう…えええ…。
「リーネが今の御両親と過ごしたいっていうのは、『御両親とのスローライフのために攻略したい』ってこと…?」
「しかもおそらく、『そうしないと、嫌われて捨てられる』とすら思っていますよ。本人は、それが子供っぽい発想と考えているようですが」
「そ、そこまで…」
リーネのこと、結構わかったつもりだったんだけどなあ。なんか、ショック。
「いえ、美樹さんと話をするのが楽しいのは確かでしょう。須藤くんともね。おふたりには、世話をするしない以上の想いがあると思いますよ」
「『以上』ってのが気になるわねえ。私もやっぱりお世話され…てるか、うん」
実さんとのこと、VR研のこと。お世話されっぱなしだ。その上で、対等の関係でいてくれようとしている。
そういえば、須藤くんにも甲斐甲斐しく接しているなあ。そうしないと、彼女の資格がないと言わんばかりに。…彼が、リーネをヒモにするような性格じゃなくて良かったよ。ほんっとーに、良かった。
「…私は、お世話するだけの、対等とは言えない相手ってことですよねえ、リーネにとって…」
「うわあああ!」
はー、実さんに『リーネにまだ未練が』とか簡単には言えなくなっちゃったよ。未練があって当然じゃない。
今や、全人類がひれ伏すほどの存在である、佐藤春香。しかし、そのリーネ自身は、全人類に奉仕することに存在意義を見い出すような性格だった。
もしかすると、矛盾していないかもしれない。『神様のような存在』という意味では、一致しているから。
例によって、後編はこの後13:00投稿予定です。