レンスターの英雄
レンスター城三階へ続く階段の中腹で仰向けに倒れていたのは、右腕と首が切断されたドラゴニュートの将校の亡骸だった。そいつの体は、淡い光の粒子を発しながら空気に溶け込むように姿が薄れ始めていた。黒鋼竜ヴリトラやファルランさんの時と同じだ。この現象は、竜族特有の肉体の死を意味するらしい。
このドラゴニュートの将校に勝てる剣士は、レンスターに彩葉しかいない。俺は、ドラゴニュートの亡骸を横目で見ながら、階段を駆け上って三階へ向かった。
三階の通路を真っ直ぐ進むと、王室前の広い円形のホールに出る。そのホールに、四人の衛兵と対峙するマグアート伯爵がいた。姿は見えないけど、たぶんこのホール内に彩葉もいるはずだ。
マグアート伯爵は、貴婦人を人質に取り、右手に持つ剣を彼女の喉に当てている。この期に及んで投降せず、人質を取るなんて往生際が悪い上に卑劣極まりない。また、敵はマグアート伯爵一人ではなかった。
今までどこに隠れていたのか。黒い衣装の小柄な男が、マグアート伯爵の隣で衛兵たちに拳銃を向けて構えている。この男は、エスタリアの使者として玉座の間に来ていなかった。
ホール内の二人の敵は、人質を盾にして衛兵たちと交渉しているようにも見える。こちらに背を向けている今のうちに、俺はホール内に入り、均等の間隔で並ぶ柱の陰まで移動して身を隠した。
ずっと走り続けていたため、呼吸をするのが少し苦しい。敵の死角で呼吸を整えていると、頭の中に彩葉から声が届いた。
『ハル! 敵はまだ二人いるの! マグアート伯爵の隣にいるのが、アスリンやファルランさんたちを苦しめたマグアート家の従士、『漆黒のクロウ』よ。あいつは、射撃の腕が立つから、なるべく柱から出ないように気をつけて!』
俺は、隣の柱で身を隠す彩葉を見つけた。彩葉は、床に腰を下ろした状態で、柱に背をつけながら左手で右肩を抑えていた。何だかいつもと様子が違う。ドラゴニュートの将校と剣を交えた時、どこか怪我をしたのかもしれない。
『マグアート伯爵が人質にしているのは、べレット伯爵夫人よ。敵は王室に侵入するのを諦めたみたい。そこで、たまたま居合わせた伯爵夫人を人質に取ったのだと思う。私はここでチャンスを待っていたのだけど……』
あいつが漆黒のクロウ……。マグアート親子の命を受け、この一連の事件を引き起こした主犯格の一人だ。
続けて俺に念話を送って来た彩葉に、俺は頷いて答えた。
その時、俺は彩葉の右肩を見て愕然とした。細身の黒い剣が、彩葉の右肩に刺さったままになっている。
まったく、少し様子が変だと思ったら……。
身体能力の高いドラゴニュートが、全力で走れば普通の人間よりも圧倒的に速い。少しでも早く逃走者に追いつくためとはいえ、彩葉を一人で先行させてしまったことへの罪悪感と、やり場のない怒りが同時に湧いてきた。
彩葉を傷つけた奴らを絶対に赦さない。
やり場のない怒りが憎悪に変わった時、俺の体の中から得体の知れないエネルギーが漲ってくるのがわかった。そして、俺の意思と関係なく、対象の真上からピンポイントで雷撃を落とすという呪法のイメージが頭の中に湧いてきた。
この感覚は、彩葉が機関銃で撃たれて魔力が上昇した時の感覚に良く似ている。俺の中の堕ちた天使『ラミエル』が関係しているのかもしれない。
とにかく、今は彩葉の怪我が心配だ。俺は逸る気持ちを抑えて、敵に気づかれないように彩葉がいる柱の陰へと移動した。
◆
「彩葉……、遅くなってごめん……」
俺は、彩葉に到着が遅れたことを詫びた。
「ううん、ハルが謝らないで……。ドラゴニュートのダルニエス少佐が、想像以上に手強くて……。この程度の怪我で済んで良かったくらい。本当だよ? あの人、自分で言ってたけど、ベルリンオリンピックのフェンシング選手だったんだって」
「まじかよ……。彩葉、そんな相手によく一人で……。本当に頑張ったな。かわいそうに……。痛いだろう? 無理してないか?!」
俺はコートのポケットから止血用の当て布を一枚取り出して、彩葉の頬や髪に付着した血液を拭いながら、彩葉に怪我の具合を尋ねた。
「ありがとう、ハル。さすがに、結構痛い……、かな。さっきまで動けていたのに、何だか力が入らなくなって……。思い切って、この剣を抜こうと考えたのだけど、無理して自分で抜くのは時間掛かるし、傷口を広げるのも……、嫌だし……」
彩葉は俺に答えながら、時々顔を顰めた。彩葉の肩に刺さった剣は、よく見ると彼女の鎖骨の下を貫通して背中側に突き出ていた。しかも、その黒い剣身は、脈を打つように一定の間隔で赤黒く光っている。そもそも、体を貫通した剣が刺さったままとか、普通の人間なら耐えられるような痛みではない。
彩葉の顔色は、血の気が引いたように青ざめており、いつもなら光に当たると輝く黒鋼の鱗にも光沢が全然見られない。
「この剣、不自然に赤黒く光ってるけど、魔法でも掛けられているのかな? 彩葉の顔色もすげぇ悪いし……。俺に何かできることないか?」
「心配かけて、ごめんね。竜族は生命力が高いから、このくらいなら大丈夫……。うっ……」
「お、おい……。全然大丈夫じゃないじゃないか……」
彩葉の言葉と裏腹に、彩葉の体は素直だった。俺は、彩葉の鎖骨の下に刺さる赤黒く光る剣をジッと見つめた。
何だか嫌な予感がする。この剣を彩葉の体に刺したままにしてはいけない。しかし、刺さった刃物を無理に抜けば、傷口が広がって出血が増したり、傷口周辺の組織を破壊してしまう可能性が高い。
「ちょっと、ハル……。そんなにジッと見つめられたら恥ずかしいよ……」
「こんな時に恥ずかしがっている場合かよ?! この剣、やっぱりおかしいって!」
「ドラゴニュートのダルニエス少佐は、この剣をカラドボルグと呼んでいた。竜殺しの聖剣だと……。私のティルフィングと同じ対竜族用の武器みたい。無理に肩を動かさなければ、それほど痛みはないけど……。力が抜けるせいで、竜の力が使えないかも……」
ドラゴンキラー……。きっとそのせいだ。俺は、この剣自体が彩葉の生命力を奪っているのだと確信した。
「彩葉、これが竜殺しの剣なら抜いたほうがいい……と思う。変な脱力感は、この剣のせいだろ……」
「ハルも……そう思う? やばいよね、これ……。ハル、お願い。自分じゃ手が届かないから、一気に……、抜いてもらっていいかな? 痛い時間は短い方がいいから……」
たしかに彩葉の言う通りだ。約一メートルある剣を自身で抜くには、手が届かない。剣を抜くのに時間が掛かればそれだけ苦痛も増える。
俺は黙って彩葉に頷いた。俺が黒い剣の柄に触れると、それだけで、彩葉は顔を顰めた。
「ご、ごめん、痛いか?」
俺は、慌てて剣の柄から手を離した。
「大丈夫……。ハルの合図でいいよ。一気にお願い……」
「わ、わかった……。いくぞ? せーの……」
俺は彩葉の言う通り、合図をしてから黒い剣の柄を持って一気に抜いた。抜いた際に、彩葉の体内から血が飛び散る。
「うぅーーーーーっ!」
彩葉は、声を漏らさないように自身の左手で口を抑えた。しかし、彩葉の声は微かに漏れてしまう。
「誰かそこにいるのか?!」
まずい……、マグアート伯爵に気がつかれた。
俺は、彩葉から抜いた剣を床に置き、コートの内ポケットから拳銃を取り出した。
「ごめん……」
「彩葉は悪くない……。人質がいるけど……。最悪の場合、一気に……」
「それはだめ! 絶対に人質は助けなくちゃ! ハル、私は本当にもう大丈夫だから。やっぱり、カラドボルグが原因で動けなかったみたい。これなら竜の力も使える。私が先にホールを時計回りに飛び出して囮になるから、ハルは少し遅れて反対側からお願い。そして、隙がある方の敵から狙い撃って!」
「了解だ! でも、まだ止血もしてないし無理はダメだぜ?」
黒鋼の竜の力が戻った彩葉ならではの強行策だ。彩葉は俺を見て頷いた。
「誰だか知らぬが隠れてないで出てこい! 三つ数える間に出て来なければ……、この老婆を殺す」
相変わらず手口が汚い。彩葉が俺に頷く。俺も彩葉に頷いて応えた。
「三……、二……、一……」
マグアート伯爵が数えるカウントがゼロになる直前、彩葉が勢いよく柱の陰から飛び出した。
◆
パンッパンッパンッ!
彩葉が柱の陰から飛び出すと、すぐに乾いた拳銃の音がホール内に三発響き渡った。そのうちの一発が彩葉に当たったようで、甲高い金属音が反響した。
一旦間を置いてから、更に六発の銃声が響く。漆黒のクロウが使っている拳銃は、俺が持つワルサー製のP38か、キアラが所持するルガーP08のどちらかだと思う。どちらの拳銃でも、通常の弾装なら最大で九発で弾切れだ。
行くなら今しかない!
彩葉の指示通り、俺は彩葉が飛び出した逆側の柱の陰から、拳銃を右手に構えながら飛び出した。
ホール内の敵の配置が先程と少し変わっていた。
人質を盾にしていたマグアート伯爵は、右手に片手剣を持ち、左手に火球を作り出した状態で、柱の陰から陰へと移動する彩葉を追っていた。
マグアート伯爵は、炎属性の攻撃的な呪法が使えるとロレンスさんが言っていたことを思い出した。キアラの火炎の呪法と比べれば粗末なものだけど、彩葉の黒鋼の鱗は魔法を防げないらしいので、あの程度の呪法でも油断できない。
また、拳銃を構えていた、漆黒のクロウは、怯えきった表情の人質のべレット夫人を監視しながら、弾を撃ち尽くした拳銃の弾装に弾を詰め直そうとしている。
立ち位置的に俺のターゲットは、すぐ目の前にいる漆黒のクロウだ。涙で化粧が剥がれ落ちている夫人は、もう目が虚ろだった。人質の精神状態も限界に感じる。
衛兵たちも彩葉の飛び出しに呼応し、武器を構えて人質の救出を試みようとクロウに近づいた。
拳銃を持つ俺と衛兵たちの反応に気づいたクロウは、夫人の腕を掴み拳銃を頭に突きつけた。
「衛兵ども! それから、金髪の小僧! 一歩でも動いたらベレット伯爵夫人の頭が吹っ飛ぶぞ!」
大声で叫ぶクロウ。衛兵たちは足を止めて武器を収めた。しかし、俺にはクロウの発言がハッタリだとわかる。なぜなら、クロウが夫人に突きつけている拳銃には、弾装自体が入っていない。鈍器としてなら使えても、弾がなければ銃としての機能はない。
俺が拳銃を向けたままでいると、クロウは俺の前に人質を突き出した。これでは銃が使えない。
そうだ、試してみよう……。
俺は、先程脳内に湧いたイメージを試すことにした。もしかしたら、人質も傷つけてしまう可能性があるので、威力を最低限に抑える。
雷撃に痺れたクロウが人質の手を離したら、その時が拳銃の出番だ。
俺は右手の拳銃をクロウに向けたまま、左手に雷の玉を作り出すイメージを念じた。ただし、雷の玉が発生している場所は、俺の左手ではなくクロウの二メートル程の高さの頭上だ。
俺は、クロウの頭上に作り出した雷の玉を、対象に目掛けて落とした。
「ぐあぁぁーーーーっ!!」
予想通り、クロウは夫人を掴む手を離して叫び声を上げた。
「べレット夫人、今のうちに!」
人質にされていた夫人は、泣き喚きながら床を這うようにクロウから離れた。
これでコイツは終わりだ!
パンッパンッパンッパンッ!
俺が撃った四発の拳銃の音がホールに響いた。十メートルも離れていない至近距離から撃ったため、俺が撃った弾は全てクロウに命中した。その場に立ち尽くして硬直し、目を見開く漆黒のクロウ。そして、手に持っていた拳銃を床に落とした。
「チク……ショ……ウ……」
クロウは、懐から何か小瓶のようなものを取り出した。
これは……。
たぶん竜の血だ。ファルランさんの時のように、ドラゴニュート化されたらまずい。
パンッ! パンッ!
俺はさらに続けて二発、クロウに撃ち込んだ。
クロウは仰向けに倒れ、小瓶の竜の血を飲むことなく絶命した。
この男は、たくさんの罪なき人を苦しめ、そして死に追いやってきた。俺は、ファルランさんたちや彼らの家族の無念を少しでも晴らせただろうか。
「貴様ら、動くな! 全員武器を捨てろ!」
今度は、マグアート伯爵の大きな声がホール全体に響いた。
マグアート伯爵を見た俺は、軽いパニックになった。
そこには、背後からマグアート伯爵に左腕を掴まれた彩葉が、両膝を床につけた状態で剣を突きつけられて項垂れていた。彩葉の右半身から、煙が燻っているところを見ると、マグアート伯爵の火球が命中してしまったのかもしれない。
俺は言われた通り、すぐに拳銃を捨てた。衛兵たちも渋々と武器を床に投げ捨てた。マグアート伯爵の呪法の腕が、それなりに高かったことは誤算だった……。彩葉が避けられなかったのは、竜殺しの剣の影響が残っているのかもしれない。
「貴様がクロウを……よくもやってくれたな? 貴様だけは赦さん!」
俺はマグアート伯爵に赦して貰うつもりはないし、むしろ俺の方こそ、この下衆な伯爵が赦せない。
武器はなくても呪法は使える。しかし、彩葉を盾にされていては、それもできない。金属質な鱗を持つ彩葉は、雷属性の呪法に特に弱いとヴリトラに言われている。漆黒のクロウと同じ手を使えば、一歩間違えれば取り返しがつかないことになってしまう。これでは八方塞がりだ。
『ハル、聞こえる? マグアート伯爵の火球が、正確な上に思っていたより威力が高くて……。少しだけ気を失いかけてた……。ドジでごめん……。でも、本当はもう動けるの。あと少しで竜の力も戻る。ほんの少しだけでいいから、伯爵に話しかけて時間稼ぎをして貰える? 両手は使えないままだけど、私にはまだ尾があるから。衛兵さんたちにも、このことは伝えたから大丈夫』
彩葉は意識を失っていたわけではなかった。
薄っすらと片目だけ開けて俺を見る彩葉に、俺は一度ゆっくりと瞬きをして目で答えた。尾の刃……。
俺はまだそれを見たことがないけど、見たことがあるフロルは絶賛していた。彩葉ならやれるはずだ。俺は彩葉を信じている。
「伯爵。あなたはなぜレンスターを裏切った?」
「強き者に巻かれる。いつの時代も、そうやって貴族は生きながらえるもの。この国はもうすぐ終わりだ。ヴァイマル帝国がフェルダートを制圧すれば、マグアート家がこの国を治める」
「そんなことはさせない!」
「さて、それはどうかな? くだらないお喋りは終わりだ。そこの衛兵! 武器を取れ! その小僧を始末しろ! さもなけれ……、ぐはぁ……。ゴボッ!」
雄弁に語るマグアート伯爵は、突然大声で叫び、口からゴボゴボと血を吐き出した。
彩葉は竜の力を使い、至近距離で自身の尾を黒鋼の刃に変えてマグアート伯爵の背中から喉元に向けて串刺しにしていた。
「おの……れ……。卑怯……、も……の……」
「黙れ、外道! あなたがそれを言うなっ!」
彩葉は、マグアート伯爵から尾を勢いよく抜くと、左手の手先を黒鋼の刃に変えてマグアート伯爵の喉に突き刺した。
逆賊マグアートは、喉から血飛沫を吹き上げながら仰向けに倒れた。
「「おおぉぉーーーーっ!」」
ホールの衛兵たちが、一斉に武器を突き上げて鬨の声を上げた。
衛兵たちの鬨の声に呼応して、レンスター城の塔の警鐘が勢い良く鳴り響く。やがて城内中から割れんばかりの勝利を祝う歓声が沸き起こった。
彩葉は凄い。もう、すっかりレンスターの英雄だ。だけど、その英雄は、自分で立つことができないくらいボロボロだった。俺は彩葉に駆け寄って彼女を抱きかかえた。
「衛兵さん! 至急、黒鋼のカトリのために治癒士を呼んでください!」
今の彩葉には一刻も早く治療が必要だ。俺は手近の衛兵に手配を頼んだ。
「承知した!」
俺は衛兵に頭を下げてから、コートのポケットから当て布を取り出し、まだ施せていなかった彩葉の肩の止血を始めた。
「なぁ、彩葉」
止血帯を結びながら、俺は彩葉の名前を呼んだ。
「うん?」
彩葉は、俺の肩に寄り添いながら返事をした。
「もう……、なるべく一人で飛び出したりしないで欲しい……。彩葉を信用していないわけじゃない。怖いんだ……。俺の知らないところで、彩葉がいなくなってしまうことが……」
俺は、自分の気持ちを正直に彩葉に伝えた。
「うん……。私もハルの元へ戻れないかもって感じた時、体が震えて胸の高鳴りが止まらなくなった……。ハルが来てくれて、凄く安心できた。私もなるべくハルから離れないようにするからね」
俺は彩葉の愛しさに胸が満たされ、目元が熱くなるのを感じた。彩葉の肩の怪我がなければ、このまま思い切り抱擁したいくらいだ。
「ずっと一緒だぜ、彩葉」
「ずっとは困る。トイレとかお風呂とか」
彩葉は、上目で悪戯染みた笑みを浮かべながら俺をからかう。そんな仕草も好きだった。ずっと昔から。
「あのなぁ……」
「ごめん、冗談。ずっと……、ずっと一緒だよ、ハロルド」
そう言うと彩葉は、俺の肩に左腕を回して抱きついてきた。俺の左肩に顔を埋める彩葉の横髪から、ククルスの花の香りが漂う。そして、瞑ったままの彩葉の目から一筋の涙が零れ落ちた。
「もちろんだよ、彩葉!」
俺は、傷だらけの愛しい英雄の髪を撫でながら、ひとときの幸せを噛みしめていた。
彼女が流した涙の本当の理由を知らないままに……。




