雨降りの帰り道
「あんなに天気良かったのに降り始めたかぁ。やっぱり梅雨だなぁ」
ハルが呟きながら空を見上げる。どんよりとした空から、とうとう雨が降り出してしまった。
私たちは剣道の試合会場からスクールバスで学校へ戻り、学校から松本駅に向かう途中にある望月楽器に寄っていた。ユッキーは、今朝メンテナンスに出したバイオリンを店内で確認しながら、バイオリンの演奏に必要な付属品を買っているようだ。
まだ夕方の五時を過ぎたばかりだけれど、雨雲の影響で辺りは薄暗く、街灯や店舗の看板の明かりなどがところどころで灯り始めている。朝からよく晴れていたので、私は天気予報なんて全く気にしていなかった。
「あー、最悪! 雨かぁ……」
私は溜め息交じりにそう言った後に、望月楽器の廂の下に雨宿りをするために移動した。ハルはショルダーバッグから折りたたみ傘を取り出して広げようとしている。本当にこういうところは抜け目がない。
「ほら、これ。どうせ持ってきてないんだろう?」
ハルは広げた傘を私に差し出してそう言った。
「あ……うん、持ってきてない。……でも、ハルが濡れちゃうじゃない」
「彩葉が濡れて風邪でも引いたら、来週の県大会に響くしさ。それに、俺のもあるから心配するなって」
「ありがとう……」
私はハルから傘を受け取り、ハルに礼を言った。まさか私のために傘を用意しているとは思っていなかったので驚いている。ハルは昔から気が利くところがある。私に傘を渡すと、早速自分の傘をバッグから取り出して広げている。私が傘を持ってこないのを予測してしっかりと二本持ってきた、……らしい。
「よく雨が降るってわかったわね」
「朝の天気予報で午後の降水確率が三十パーセントって言ってたからさ。念のため傘を持ってきただけだよ」
「でも二本持ってきたのは……」
「それは俺の彩葉予報」
私の言葉を遮って、笑いながらハルが言った。
「何かムカついた」
「悪い、冗談だって。天気予報を見てた俺が傘の話したら、彩葉は傘持つだろ?」
「うん、それは言われたら持つわよ」
「だからだよ。今朝は荷物多かったし、せっかく傘を持っても雨降らなければ無駄になる。そうなれば余分な荷物が増えるだけ大変かなって思ってさ」
「あ、ありがとう……」
ハルの言葉に頬が熱くなる。さり気なく突然優しいことを言われると、胸がドキドキしてハルの顔をまともに見ることができない。傘で顔を隠して俯き気味に柄の部分を見つめていると、アルファベットで、『A.I』と、イニシャルが記されていることに気がついた。この傘はアリーが使っていたものだろう。
アリーとはアリシア姉さんの愛称で、私より四歳年上のハルの実の姉だ。彼女はハルと同じ綺麗なブロンドヘアで、スタイルも良くモデルみたいな美人さんだ。実の姉のように私の面倒をいつも見てくれた彼女は、大学に進学したために東京で一人暮らしをしている。
アリーとはゴールデンウィーク以来会っていないけれど、その日にあったできごとやハルに対する愚痴をぶつけたりして、毎日のようにメールでやりとりしている。つい先程もメールで優勝報告をしたばかりだ。
「ん? どうした?」
何か心配そうにハルは傘の下から覗き込んでくる。
「ハル、こ……、これアリーの傘?」
覗き込んでくるハルから目を逸らす。
「あぁ、そうだけど。どうした?」
「別に……。妙に女性用っぽい傘だったから、誰のかな……、と思って」
今は下から覗き込むなっ! 調子が狂う……。
「父さんのオッサンくさい傘よりいいだろ?」
「それは……そうだけど。あ、ユッキーの応援で東京行ったらさ、アリーにも会いに行こうよ」
「ん? あぁ、そうだな。せっかくだから、姉貴も幸村のコンクール誘ってみるか」
「うん、そうだね。そうしよう!」
話が逸れたおかげで、妙に緊張した流れからどうにか逃れることができた。少し雨脚が強くなってきたのか、傘に当たる雨粒の音が大きくなる。
「そういえば彩葉、防具や竹刀は学校に置いてきたのか?」
「うん、明日は部活休みになったから、予備の道着とか下着類の着替えだけ持ってきたけどね」
「汗を掻く季節は大変だなぁ……」
「うん、剣道はそこが辛いかなぁ」
私はハルにそう答えたけれど、本当に辛いのは軸足となる左足の裏のパックリ割れだ。軸足となる左足は、常に爪先立ちのような状況で摺り足をしているので、足の裏が悲惨な状態になる。踏み込む右足側に大きな豆ができる剣士も多い。
私の場合、傷を拡大させないことと痛みに耐えるために、粘着力の強いテーピングを適度な大きさにカットして、それを火で炙ることで更に粘着力を増強させて貼り付けている。この方法を使うと稽古や試合をしているくらいでは、貼り付けたテーピングが剥がれることはない。
試合によっては、剣道用の足袋を履けないので、いわゆる『焼きテープ』と呼ばれるこの方法で、足の裏の傷の対策をしている剣道家たちが多いと思う。
雨脚が強まる中、ハルと雑談をしていると買い物を済ませたユッキーが店から出てきた。今朝、学校へ行くときと同じように、ユッキーはバイオリンケースを背負っていた。
「二人ともお待たせ。あー、降ってきちまったかぁ」
「うん、さっき降り始めたところ」
「ボクも一応傘持ってきたけれど、さすが二人とも用意がいいな」
「幸村も抜け目がないな」
「まぁね。湿気は楽器の敵だしさ。それより、ついでに買い物までしちゃって、長く待たせてごめん。電車まだ間に合うかな?」
「あと十分以上あるから問題なし。大丈夫だぜ」
「それなら良かった。じゃ、ここで話してても濡れるだけだし駅まで行こうか」
ユッキーも傘を広げて三人で松本駅へ向って歩き出す。駅までは目と鼻の先なのでここからなら天気が悪くても数分歩けば到着する。
「ところでユッキーは何を買ったの?」
「ん? 予備のバイオリン弓と松脂だよ」
そう言ってユッキーは、買ったばかりの二本のバイオリン弓を傘の下で広げて見せてくれた。以前にユッキーから、バイオリン弓の馬の毛の部分に松脂を塗ることで音が出ると聞かされたことがある。
「うわー、付属の物も結構高そうだね」
「まぁね……。でも付属はピンキリかな。楽器の方はとんでもなく高いから、この世界は敷居が高くてやる人が少ないんだと思うよ。おかげでライバルも少ないからありがたいんだけどね」
「ライバルが増えたって幸村は一つ抜けてるだろ」
「ハハハ、さすがにそれはどうかと思うぜ……。今年の高一の奴らレベルが高かったし、人が増えればもっと才能ある奴が増えるんじゃないかな?」
「幸村がレベル高いとか言うと相当なんだろうな……」
たしかにユッキーがそうに言うのだからライバルも相当の実力者なのだと思う。それにしても、ユッキーが素直に相手を評価するなんて珍しい。
私たちは、交差点の横断歩道を渡り松本駅に到着する。東口から階段を上り、駅の二階にある改札を通ると、大糸線の電車が停まる三番線ホームへと降りる階段がある。
階段を降りてホームに行くと、すでに信濃大町方面行の電車が停車していた。大糸線の電車は、松本駅が始発のために電車のドアは解放されている。私たちは電車に乗ってシートに腰を下ろした。
「あー、シートはやっぱり楽ねぇ」
腰を下ろした途端、私は急に眠気に襲われた。穂高駅まで電車に乗っている時間は三十分程あるので、実はうたた寝をするのに丁度いい時間だったりする。
「そうだよな。彩葉は団体戦入れて八試合もしたんだから疲れてるだろう?」
「うん、さすがに今日は疲れたから、もしかしたら帰りはちょっと寝ちゃうかも」
中学生の頃、部活が終わって一人で帰っている時に、うっかり乗り過ごしてしまったことが何度かある。私はその度に、父さんに酷く叱られた。生徒会の活動が終わるとハルが毎日のように私を迎えに来るようになったのは、私の乗り過ごしが増えた時にそれとなくハルが父さんに頼まれたらしい。
「ハハハ……。オッケー、もし寝ちまったら見張っててやるよ、なぁ幸村」
「あぁ、任せておいてよ」
「ありがたき幸せ」
私はふざけて二人に敬礼する。今日はハルだけじゃなく、ユッキーもいるのでまず乗り過ごすことはないだろう。
私は行きの電車の時と同じように、オーディオプレイヤーの電源を入れてイヤホンをつける。そしてアーティストで『エンヤ』を選択して再生ボタンを押した。疲れているときに聴く彼女の歌声は心身共に癒される。イヤホンから『Orinoco Flow』が流れ出した。
ハルとユッキーは、明日の学校で昼食をどうするかとか、私が部活休みだから放課後に近所の公園でバンドの演奏でもしようとか話している。私も久々にバンドに参加できそうなのでちょっと楽しみだったりする。
それにしてもハルとユッキーは、本当に仲がいい。楽しそうに話す二人の姿を見つめながら、私はゆっくりと目を閉じた。私は目を瞑ったまま、『Orinoco Flow』のリズムに合わせて、頭の中で一緒に歌っていたつもりだったけれど、いつの間にか意識が途絶えて眠ってしまった。
夕暮れの雨降りの帰り道。刻一刻と、私たちの人生を変える大事件が迫ってきていることを、この時の私はまだ知らなかった。