手慣れの暗殺者(上)
「マリーゼ、無理を聴いてくれて本当にありがとう」
私は陽の見湯の女将マリーゼに礼を言った。彼女は私がほぼ毎日通っている公衆浴場の経営者で、もう十五年以上の付き合いになる。
「いいのよ、アスリン。ただ、申し訳ないのだけれど、利用いただく時間は今後も約束通り、他のお客さんが来る前にお願いね。イロハさんでしたか、アスリンから色々と聞いていると思いますが、どうかこちらのわがままをお許しください」
私はレンスター入りした日の夜遅くに陽の見湯を訪れて、イロハが入浴できるようにマリーゼと交渉した。最初は意志を持つドラゴニュートの女の子の話を冗談だと思っていたらしく、マリーゼに理解してもらえるまでに随分と時間がかかった。
「陽の見湯さんに迷惑かけられませんし、わがまま言っているのは私の方ですから謝らないでください。施設を利用させて頂けるだけで感謝しています。ありがとうございました」
イロハは深々とお辞儀をして、丁寧な口調でマリーゼに礼を言った。相変わらずイロハはとても礼儀正しい。ハルが言うには、イロハが得意とするケンドーという剣術が礼節を重んじているのだとか。
「俺たちからも礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました」
「ありがとうございました」
ハルとユッキーもイロハに合わせてマリーゼに礼を言っている。私はその間に四人分の入浴代をマリーゼに支払った。もちろん、いつもより上乗せしている。いくら旧知の間柄と言っても、無理を聴き入れてくれた謝礼は当然だ。
「いえいえ、お代もいただいていますし、お礼をするのはこちらの方よ。それにアスリンとは古い付き合いなの。彼女の頼みとあれば、私に協力できることはさせて頂きます。それにしても……」
マリーゼは恐るおそるイロハを見つめた。初対面の時ほどではないけど、マリーゼはイロハを見てまだ怯えているように感じる。一般的に、『竜の血を飲んだ欲深い人間が成り果てた残虐な怪物』という先入観しかないドラゴニュートが目の前にいるのだから自然な反応だと思う。
かくいう私もイロハを初めて見た時、トロルと同じくらい彼女のことが怖かった。外見的な特徴である角と首筋に見えた鱗を見た時、血の気が引けたことを思い出す。
「えぇ、よく言われます。驚かせてしまってすみません。でも、この通り、私は大丈夫ですから安心してください」
イロハはマリーゼの質問を察したのか、マリーゼが言い終わらないうちに笑顔でそう答えた。でもイロハがドラゴニュートになった本当の経緯を知らない限り、彼女に対する根本的な先入観は変わらないと気がする。
だからと言って、噂が広ってジュダ教徒に知られるわけにもいかない。本当に歯痒い思いだ。きっと、ハルとユッキーも同じ思いをしているのだと思う。
「本当に驚きました。こんなに礼儀正しくて可愛らしいのに……。また陽の見湯にいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございます! 毎日でも通いたいくらいです!」
「是非、喜んで」
イロハは元気な声でマリーゼに言った。気がつくと表情が強張っていたマリーゼも笑顔でイロハに返事をしている。イロハは剣術だけでなく本当に心も強い女の子だ。
入浴時にわかったことだけど、彩葉の体の黒鋼の鱗は、正面から見た限りそれ程目立たなかった。逆に目立つ箇所は、側胸部や大腿部。それから全体が鱗に覆われた尻尾と尾骶骨から肩にかけての背中だ。また、四肢の先の部位に進むに連れて、全体が鱗に覆われてゆく感じだった。
彩葉を知らない人が公衆浴場でばったり出会ってしまったら、間違いなく彼女を見て悲鳴を上げてしまうと思う。だから、彩葉には申し訳ないけど、他のお客さんがいない営業時間前に来て正解だった。
私たちはマリーゼに別れを告げて、陽の見湯を後にして西風亭を目指して歩き始めた。
第二の太陽ウルグは既に沈み、第一の太陽リギルも間もなく地平に沈もうとしている。大通りに面する露店や建物に明かりが灯り始め、巡回中の憲兵も夕焼けに染まる大通りの街灯に、光のオーブを灯し始めていた。
空を見上げると渡り鳥の群れが、夕焼けに染まるレンスターの街の上空を優雅に列を成して飛んでいる。もうじき訪れる雨季の前に、遥か北西のアルカンドへ向けて旅立つ準備をしているのだろう。
◆
「そうだ、アスリン。魔法関係のことで少しだけ寄りたい場所があるんだけど……。ちょっと付き合ってもらっていいかな?」
イロハと並んで歩く私の背後からハルが呼びかけてきた。衣装を購入していた時に、イロハに内緒でイロハの誕生日プレゼントを買いたいから、アクセサリーを売る店を紹介して欲しいとハルから頼まれたことを思い出す。まだ夜になっていないから装身具を売る露店は営業しているはずだ。
「うん、いいけど……。前に言っていた魔具のこと?」
私はハルの意図がわかったので、イロハに気付かれないようにさり気なく返事をした。
「そう、それ。用件はすぐ済むと思うから、彩葉と幸村は先に戻ってもらっててもいいかな?」
「時間に追われているわけじゃないんでしょう? 私も一緒に行くわよ」
「まぁまぁ、彩葉。ボクたちは先に戻って今日のライブの準備をして待ってようぜ。魔法のことはよくわからないし、アスリンに任せておけば安心だって」
ユッキーはハルの意見に同意し、不満そうな顔つきのイロハに一緒に帰るよう促している。もちろんユッキーもグルだ。恋人に内緒でプレゼントを用意しようだなんてハルも可愛いところがある。
「うーん……、でも……」
「魔法のことは魔力を持たない人に負担を掛けてしまうこともあるし、ハルが言うように先に戻った方がいいかも。私たちもすぐ戻るから大丈夫よ、イロハ」
「う、うん……。わかったわ。それじゃ、ユッキーと先に戻ってるね」
イロハは予想に反してあっさりと納得してくれた。別に魔力を持っていない人が魔具を売る店を訪れても何の問題もない。あまりに素直な彼女を見ると嘘をついてしまったことに罪悪感が湧いてくる。
ごめんね、イロハ……。誕生日が来たら謝るからね。
「じゃ、彩葉。先に戻ってようぜ。ハルとアスリン、また後でな」
「あぁ、すぐに西風亭に戻るから」
「うん。また後でね、ハル」
ユッキーの言葉にハルが応え、そしてイロハが頷く。珍しくユッキーがイロハをエスコートするように彼女の前に立ち、人通りが多くなった夕暮れの大通りを進んでゆく。やがて二人の姿は人混みに紛れて見えなくなった。
「嘘をついた時、素直なイロハの顔を見たら胸が締め付けられたよ……」
「付き合わせちまって悪いな、アスリン。急かすようで申しわけないけど、早速案内してもらっていいかな?」
「うん、任せて。アクセサリーを売る露店があるのはこっちよ。ここからそれほど離れていないわ」
私はハルを連れて旧市街へ続く夕陽通りと呼ばれる通りを進んでゆく。もう少し進んだ旧市街の入り口付近に、良質な装身具を売る露店が何店舗か集まる場所がある。ただ、アリゼオのような都会と違うレンスターでは、高価な宝石や装身具が一般階級層まで浸透していないので需要は多くない。
「ねぇ、ハル。イロハの誕生日っていつなの?」
「六月十七日だ。今日が地球の暦で言うと六月十日だから、あと七日なんだ」
「七日後ならもうすぐね。私も何かプレゼント用意しなくちゃ。ハルは毎年イロハに内緒でプレゼントをこうして内緒で用意していたの?」
「いや、毎年彩葉から欲しい物をそれとなくリクエストされていたよ。ただ、今年はそんなこと言える状況じゃないから……。たぶん、彩葉なりに遠慮していると思う」
「そっか。結構気を遣う子だよね、イロハ」
「昔からそうなんだよ。大事なことはいつも黙ってるし、素直じゃないからさ」
そう言うハルもイロハのことを言えないと私は思う。大事なことを一人で抱え込んだり、まっすぐなところや素直じゃないところなんて本当に二人ともそっくりだ。私はおかしくなって声に出して笑ってしまう。
「アハハッ。……ごめん、ハル。笑うつもりはなかったの」
「何だよ、いきなり……」
「ハルとイロハって似た者同士のカップルだなって思ったらおかしくなっちゃって」
バルザとナターシャもそうだった。きっとハルとイロハもナターシャたちのようないい夫婦になるのだろうと思うと微笑ましく思える。そして何だか羨ましい。
「そんなに似てるかぁ……?」
ハルが眉を顰めて私に質問してくる。
「少なくとも私にはそう感じるけど……。あ、ほら露店が見えて来たわよ」
「案外、閑散としているんだなぁ……。それに武器を持った腕っ節が強そうなオッサンが随分と多い気がするけど」
「あの屈強そうな男たちは、強盗対策に雇われている傭兵団よ。いつでも憲兵が巡回しているわけじゃないから、装飾職人が結託して共同で傭兵を雇っているの。それに閉店間際だし、元々装身具なんて気軽に買える品物ではないから人も少ないのよ」
「なるほどなぁ。貴金属は高価だから悪党に狙われやすそうで大変だな」
奥のベンチに座る傭兵の一人が私に手を振ってきたので私も彼に手を振り返す。傭兵時代に何度かパートナーを組んだことのあるファルランだ。その奥にはリカルドやマーカスの姿も見える。
「良く見るとレンスターを拠点とする顔馴染みの傭兵もいるわ」
「さすがアスリン。傭兵をしていたと言うだけあって色んな知り合いがいるんだな」
「そうね。私も生きるために色々な出会いをして色々なことをしてきたから……」
厳しいアルザルの人間社会で生きるためとはいえ、傭兵になってナターシャたちと知り合う以前の私は、人には言えないようなことをたくさんしてきた。窃盗団に協力したり、色掛けで賞金首を殺めて賞金稼ぎをしていた頃のことを思い出す。
「ん? アスリンどうした?」
「あ……ううん、何でもないの。気にしないで。それより帰りが遅くなるとイロハに叱られるわよ? 早くプレゼントを選びましょ」
私はハルに悟られないよう慌てて誤魔化し、露店に並ぶ商品を眺めた。




