勝利のお守り
中信地区予選の試合が行われている体育館内にアナウンスが流れる。
『これより第二試合会場で、中信地区予選剣道大会女子個人の部の決勝戦が行われます。赤、祥鳳学園高校二年、香取彩葉選手。白、県立諏訪野高校三年、佐藤美紗子選手』
一斉に拍手と歓声が沸き起こり、審判団は会場に一礼して所定の位置に向かって歩み始める。団体戦と男子個人の部は全試合が終了しているため、事実上この試合が本日最後の試合だ。
私は祥鳳学園の横断幕が掲げられている二階席に目を移す。試合が終わった剣道部員が集まる一団から、少し離れた上の通路で、立ったままこちらを見ているハルとユッキーを見つけた。背が高く奇麗なブロンドの髪のハルは、遠くからでもよく目立つ。
ハルは私の視線に気づいたのか『いって来い!』と言わんばかりに、左手の拳をグッと前に突き出した。私は小さく頷いて彼のサインに応える。そして、その場で小さなジャンプを二回してから竹刀を両手で突き上げて一振りし、体の力を抜いて大きく深呼吸する。これは私が試合前に行う、おまじない的なルーティーンだ。
最初の一回戦は、どんな相手でも緊張してしまう。しかし、決勝戦まで来ると胸が高まってワクワクする気持ちの方が強い。団体戦は男女共に、また、男子の個人戦も早々に敗退してしまったので、最終予選となる県大会への出場権を得ているのは、祥鳳学園で私だけだ。
だからこそ、共に部活で汗水流した仲間のためにも、私は祥鳳学園の威信にかけてこの決勝戦に挑むつもりだ。もちろん、勝つ自信はある。
「正面に、礼!」
主審の宣告で、審判長をはじめとする主賓席に一礼した。それから対戦相手の佐藤さんに対して一礼し、左手で竹刀を帯刀して開始線を目指し大きく三歩進む。
よし! やってやる!
私は心の中で自分に喝を入れる。
対戦相手の佐藤さんは、学年こそ一つ上だけれど、小学生のころから県大会を含めて何度も対戦してきた相手だ。彼女の癖はわかるので試合に対するイメージはできている。彼女が着る名門の諏訪野高校の白い道着は、『不動心』という、肩に刺繍された赤く輝く文字が周囲に威圧感を与える。
私は、開始線でゆっくりと息を吐き出しながら抜刀し、蹲踞する。そして、面の隙間から彼女の目をじっと見つめる。彼女も私を見つめている。互いに視線を逸らさず、睨み合うようにその場で立ち上がった。
この瞬間は会場内の応援も静まり、何とも言えない決勝戦特有の緊張した空気が辺りを包み込む。
トクントクンと、自分の鼓動がはっきりと聞こえてくるのがわかる。
「はじめ!」
主審の宣告で決勝戦は始まった。
◆
試合開始後しばらくは互いの剣先が触れるかどうかの間合いを保ちつつ、私と佐藤さんは互いに牽制し合あって一進一退の攻防が続いていた。
試合の流れを作るためにまず私から動く。
私は竹刀の先を佐藤さんの喉元を目がけ、いつでも突き刺さすことができるようなイメージでググッと間を詰めた。中途半端な動きをすれば、そのまま突きを入れて一本だ。一瞬私の動きに彼女が怯んで下がるところを見逃さず、私は面を打つような素振りを見せ、裏をかいて小手を狙った。
しかし、私のフェイント攻撃は佐藤さんにかわされてしまう。そのまま反撃を試みようとする彼女の竹刀を、私は自らの竹刀で上から抑えつけて攻撃をさせない。私はそのまま鍔迫り合いに持ち込んだ。そして、私は引き技を入れて間合いを取ると見せかけ、間髪入れずに、再び間を詰めて小手から面への連続打ちをする。
さすが、名門諏訪野高校女子剣道部の主将だ。私の連続技は見切られてかわされる。それでも、今のところ果敢に攻めつつ相手を封じることで、私が心理的に優位に立てているはずだ。その証拠に、彼女は焦っている。
そろそろ頃合いと感じた私は、一度引いてわざと佐藤さんに攻撃する機会を与えることにした。少ないチャンスを活かしたくなる相手の心理を利用して、相手に打たせてそれに打ち勝つという、私の得意な合わせ技に持ち込みたい。
私は中段の構えから上段の構えに変え、一旦引き技を入れ敢えて佐藤さんから少し離れる。私の連続攻撃に我慢をしていた彼女は、予想通り私が引いたタイミングで打ち込むために飛び込んできた。
私はこのタイミングを待っていた。
私は飛び込んで来る佐藤さんに合わせて少し下がり、彼女に空を斬らせて彼女の攻撃をかわす。そして、間髪いれずに私は思い切り面を打ち返した。
「メーン!」
私は決め手を声に出しながら残心をとる。三名の審判は揃って私の襷の色である赤色の旗を上げた。
「面あり!」
主審の宣告に合わせて、試合会場内は『おぉーっ!』という大きな歓声と拍手に包まれた。
よし、まずは一本。いい感じ!
私は自分に言い聞かせるように心の中で呟き、ゆっくりと開始線へと戻った。
再び佐藤さんの目を見つめると、その目からは悔しさと焦りが見て取れる。もう一本取れば私の勝ちだ。
「二本目!」
主審の宣告で試合がすぐに再開される。私は中段の構えで自分の間合いを取る。先ほどと同じように、佐藤さんの一挙手一投足を見極めつつ、ググッと彼女に詰め寄る。私の得意な間合いを嫌い、体制を立て直そうと大きく後退する彼女。しかし、私は彼女を逃がさずに素早く間を詰め、自分の特異な間合いを維持した。
このまま更に下がれば、白線を越えて場外の反則になる。私は更に追い討ちを掛けるように低めに構え、剣先を動かして佐藤さんの小手を狙う素振りを見せた。焦りが生じたのか、彼女の方から私の面を打つために飛び込んできた。
今だ!
私は自分の頭上で佐藤さんの面を竹刀で払うと、そのまま左斜め四十五度から返し胴を打ち込んだ。
「ドォーッ!」
私が佐藤さんの胴に竹刀を叩きつける、バチンという音と私の声が会場に響いた。再び大きな歓声が沸き起こる。
「胴あり!」
赤色の旗が三本上がり、私は決勝戦を制した。嬉しい気持ちより正直なところ安堵感の方が大きい。
開始線に戻り主審から勝利を告げられ、蹲踞して竹刀を収める。それから試合開始の時のように帯刀してから正面に礼をする。
『女子個人の部、優勝は祥鳳学園高校、香取彩葉選手でした』
武道館内に勝者のアナウンスが流れて拍手が鳴り響く。試合会場から退場する際、試合相手の佐藤さんと向き合って互いに礼をする。佐藤さんの肩は震えていた。泣いているのだろう。試合に負けた時の悔しさは私にだってわかる。でもこれは勝負の世界。私なら同情なんてされたくない。きっと佐藤さんもそれは望まないはず。
ただ、三年生の佐藤さんとの公式試合は、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。これまでライバルとして、何度も佐藤さんと真剣に試合ができたことに私は感謝している。
「ありがとうございました!」
私は佐藤さんに感謝を告げて、顧問の萩原先生のところへ向かった。
「香取おめでとう! よくやったな。来週はいよいよ最終予選だ。香取なら問題ないだろうけど油断せずに頑張ろう」
「はい!」
私は萩原先生の労いの言葉に答え、それから萩原先生と共に、改めて佐藤さんと佐藤さんの顧問の先生に一礼した。そして近くの邪魔にならないところで正座をして、籠手を外してから面の紐を解きゆっくりと面を外した。
面を外した時の解放感は何とも例えようのない清々しい気持ちになる。まず水分を補給してから、頭に巻いていた面タオルで額の汗を拭い、前髪を留めているお守り代わりの髪留めをそっと外した。
今日もありがとう。
私は心の中でお守りに礼を述べて、化粧ポーチにそれを収めて、防具バックのサイドポケットにポーチごとしまった。お守りの髪留めに薄く加工された奇麗な青色の石は、ラピスラズリという魔除けの効果があるパワーストーンらしい。
中学一年生の時に、私が試合に負けて酷く落ち込んでいた時、『目に見えない悪魔の仕業だ』と、ハルが変な慰めの言葉付きでプレゼントしてくれたものだ。それ以来、私は試合で必ずこの髪留めを勝利のお守りとして身に着け、絶対に負けないという気持ちを持って勝負に挑むようにしている。
それでも全国まで行くと、強い相手が大勢いる。あと一歩のところで勝てないこともあったけれど、試合内容で悔いが残ったことは一度もない。
まだ試合の余韻が残っている体育館内は、閉会式の準備に追われた運営役員が慌ただしく動いている。外した面と籠手を整理しながら、祥鳳学園の横断幕がある二階席の方へ目を移すと、他校の女子生徒たちと笑顔で話をしているハルとユッキーの姿を見つけた。
ハルは照れているのか後頭部に片手を当てながら満面の笑みだ。
まったく、他校の女子とへらへらして……。
何だか無性に腹立たしくなり、私はさっさと竹刀と外した防具を収めて、そのまま荷物を持って二階の応援席へと向かった。