堕天使の幻影
私と私の大切な人たちの人生が、大きく変わってしまったあの日……。
私たちは、始発電車に乗る前に、穂高駅のホームで監視者ラグエルに会っていた。忘れもしない、不気味な赤い目をした初老の異国人の男性。薄気味悪く感じていたけれど、まさか、人間ではなくアヌンナキだったなんて……。
徐々に、あの時の光景が蘇ってくる。ラグエルは、私たちが乗った始発電車に乗ることなく、ホームのベンチに腰掛けたまま、三日先の日付という奇妙な新聞を読み続けていた。そして、出発した電車の車窓越しに彼と目が合うと、白い歯を見せてほくそ笑んだ。
そう、丁度、私の目の前にいる監視者ラグエルの幻影と同じように……。
何がおかしいのだろう。ラグエルは、私を見つめたまま笑みを浮かべている。笑えることなんて何一つないのに。
三日先の未来から現在という過去に、幻影を送って干渉するラグエル。監視者の異名を持つこの天使は、私たちがあの日の夕方に迎える運命を知っていたはず。私にとって未来のことでも、監視者からすれば過去のできごとでしかないのだから。
高校総体中信地区予選大会で、私が個人戦で優勝したこと。大会の帰り道、ハルが傘を貸してくれたおかげで、私が雨に濡れずに済んだこと。いつもの神社で暗紫色の霧に包まれ、第四帝国を称する軍人たちに襲われたこと。そして、父さんにサヨナラも言えず、地球から遠く離れたアルザルへ来てしまったこと……。
監視者ラグエルは、大天使ラファエルたちの仲間だ。つまり、背後でヴァイマル帝国の将校を操っていた黒幕は、監視者ラグエルに他ならない。全ての元凶は、コイツだ……。
何もできなかった悔しさ。やり場のない怒り。身勝手な天使に対する憎悪と嫌悪。次から次に湧いてくる負の感情を、私は抑えられなかった。自分の意志と関係なく、体がガクガクと震えている。
「……葉! おい、彩葉? 落ちつけって!」
耳元で私の名前を呼ぶユッキーの声に気がついて、私は我に返った。
ユッキーは、いつの間にか私のすぐ左隣に移動しており、私の右手に彼の温かい両手が添えられていた。息遣いが聞こえてくるほど、ユッキーの顔が近い。たとえ相手がユッキーだとしても、突然目の前に男子が現れたら、誰だってドキドキする。
「ちょ、ちょっと……」
こんな時だというのに、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「本当に大丈夫か? 気持ちはわかるけど、今は剣を収めようぜ、彩葉」
ユッキーは、いつものふざけた調子ではなく、落ちついた声のトーンでラグエルを睨みながら私にそう言った。その時、私は気がついた。無意識のうちに右手で聖剣ティルフィングの柄を掴み、鞘から刃を半身抜いていたことに……。
「え……? あ……」
動揺した私は、それ以上言葉を出せない。監視者ラグエルの幻影は、そんな私を見つめたまま、口元に笑みを浮かべている。本当に薄気味が悪い奴。
「彩葉、気が落ちついたならソイツをしまいな」
「は、はいっ!」
アナーヒターに窘められた私は、ティルフィングを鞘に収めてからユッキーの手を慌てて振り解いた。そして、深く頭を下げて、監視者ラグエルと慌てふためくサガン大主教に謝罪した。
「取り乱して……、本当に申し訳ありませんでした……」
深く頭を下げた時に、私の目から涙が床に零れ落ちた。私は、泣いていたらしい。
この場は、アナーヒターとラグエルの話し合いの場。アナーヒターの付き人である私が取り乱していては、彼女がラグエルから情報を聞き出せない。私は、服の袖で涙を拭ってから体を起こした。
『ユッキー、迷惑掛けてごめん。私を呼び醒ましてくれてありがとう』
私は、ユッキーにだけ届くように念話を送って謝罪と礼を伝えた。ユッキーは、私を見て笑顔で頷いてくれた。
「フン……。貴様にしては、珍しく人間の僕を連れてきたかと思えば……。そのドラゴニュートの娘は、意思を保てずアニマの根幹が崩壊しているのではないか?」
私を見て鼻で笑うラグエル。コイツを見ていると、アスリンが天使を嫌う理由がよくわかる。シェムハザやアナーヒターが異例なだけで、天使は全体的にこういうタイプが多いのかもしれない。
「彩葉のアニマが崩壊しているだって? 笑わせないでおくれ、ラグエル。普段のこの子は、沈着冷静で温厚な性格さ。それに、近接戦の能力は、ラファエルやアズラエルにだって劣らないだろうね。アタシの護衛がそんな風に見えるなら、アンタの目が節穴ってことさ」
ラグエルの揶揄に、アナーヒターが棘のある言葉で言い返した。私を庇ってくれたのか、それとも、アナーヒターの自尊心に触れたことで発せられた言葉なのか、それはわからない。
「フンッ! そう言うことは、ドラゴニュートを満足に飼い慣らしてから言うがよい!」
ラグエルの顔から笑みが消え、すごい剣幕でアナーヒターを睨んで怒鳴りつけた。
「まぁ、そう怒りなさんな。理由はともあれ、彩葉がアンタに刃を向けたことは、悪かったと思っているさ。アンタたちの様子を見た限り、初対面じゃないね? 彩葉、ラグエルに会ったのはいつだい?」
アナーヒターは、ラグエルを見つめたまま私に質問した。
「私たちが、アルザルへ来ることになった日の朝です……」
どうしても、車窓越しに目が合った時のラグエルの不敵な笑みが脳裏に蘇る。私は、左手で右腕をしっかりと抑えながらアナーヒターに答えた。また無意識のうちに聖剣の柄を掴んでしまわないように。
「つまり、彩葉とユッキーは、テルースでラグエルに会っている。アンタは、この子たちを監視して何を企んでいたんだい?」
アナーヒターは、言葉巧みに会話の主導権を握っていた。
「それを踏まえて、貴様に直接伝えねばならぬ。その前に、サガンよ。貴様は公務に戻れ。ここから先は、ジュダの訓えにあらず。深入りするものではない」
「し、しかし……、ラグエル猊下の身に、もしものことが……」
「我のことは心配無用! 急ぎ下がるがよい」
ラグエルは、サガン大主教の発言を制して命令した。
「御意……。それでは、談義が終わりましたら、この呼鈴でお知らせくださいませ」
サガン大主教は、渋々とした面持ちで、解放されたままのドアの前で振り返り、深く一礼してから退出した。客間の扉が閉められると、ラグエルは、アナーヒターを見つめて語り始めた。
「さて、アナーヒターよ。なるべく手短に話を済ませよう」
「わかったよ、ラグエル。この子たちがテルースでアンタを見たのは、アンタがラミエルを監視していたからだね?」
「その通りだ。ラミエルが居た場所は、大陸の東の果てに浮かぶ島だとは思わなんだ。我がラミエルを捜し当てるまでに、予想以上の年月を費やした。我がこの人間の子供らを見たのは、ラミエルがシンクホールの界隈を訪れる時期を伺っていた時だ。計画では、その日の夕刻にルーアッハを覚醒させてから、黒鋼竜ヴリトラが守護するシンクホールを使ってアルザルへ連れて帰るはずだった……。しかし、太古の竜の血欲しさに、我が用意した筋書きを無視した無能な帝国の将兵がしくじりおって……。ラミエルとヴリトラを同時に失うことになったのは、我の大きな誤算であった」
ラグエルは、首を振りながら自嘲的な笑みを浮かべてそう語った。
やっぱりラグエルは、あの時ハルを監視していたんだ……。そして、ハルをアルザルへ拉致しようと企んでいた。そこまでは、私の予想通りだ。けれど、ヴリトラの肉体の死は、ラグエルが準備したシナリオではなかったらしい。
「ちょっと待ってください! ヴリトラを討った目的は、ハルを他の属性八柱のように、ドラゴニュート化させてドラッヘリッターに迎えることではなかったんスか?!」
私も感じていた疑問を、ユッキーがラグエルに質問した。
「それは知らん。我の任務は、ラミエルをアルザルへ誘うこと。帝国にドラゴニュートの戦士を作るという入れ知恵をしたのは、我の範疇ではない。そもそも、神竜王ミドガルズオルムに忠実な黒鋼竜ヴリトラは、我らがテルースとアルザルを往来する際に、古来より協力的だった。シンクホールの守護竜の中でも、星間を瞬時に移動する生体エネルギーを持つ太古の竜は、ヴリトラを含め僅かしかおらぬ。その貴重な太古の竜を殺めた痴者は、我の従者だったドラッヘリッターを指揮する帝国の将校だ。ドラゴニュートを飼ううちに、その身体能力と不老の肉体に憧れを抱いたのであろう。貴様ら人間は、嘆かわしいまでに欲深き種族よ」
たしかにラグエルの言う通り、人間は欲望の強い種族だと思う。自らの欲を満たすために、他人を犠牲にしてしまうこともある。だから、世界から犯罪や戦争がなくならない。
けれど、人間に限らず、命あるものは生きるために必要な欲望を持ち得ている。それは、ドラゴニュートになった竜族の心を持つ私だって同じだ。感情から恐怖が消えても、欲や願望は以前と変わらず残っている。
この動乱から、大切な人たちを守りたい。少しでも長く、ハルと一緒にいられる時間が欲しい。もっとハルに話を聞いてもらいたいし、一緒に喜びを分かち合いたい。おしゃれな洋服やアクセサリーだって欲しい。例を挙げ始めると、きりがないくらい湧いてくる。
アヌンナキだって私たちと同じはず。自分たちのことを棚に上げて、よくもまあそんなことが言えるものだと感心してしまう。
「ラグエル、アンタの誤算はともかく、こそこそと属性八柱を集めている目的は何だい? 厄災は、五年後に迫っている。星読みでニビルの襲来期を把握し、レプティリアンを駆逐してカタストロフを幽世に送り返す役割は、シェミーが率いるアタシらグリゴリの使命。アンタらの横槍は、ヤハウェの掟に背いている。ヤハウェの掟に背くアヌンナキを狩ることが、アンタらパワーズの使命だろうに」
アナーヒターは、落ち着いた口調でそう語りながら、鮮やかな衣装の腰帯に差した愛用の煙管を取り出した。そしていつものように、乾燥させた粉末状のカシギの香草と炎のオーブを煙管の中に塗して火を点けた。
「その通りだ。しか、この件は、ヤハウェの御言葉によるものでな」
「どういう意味だい?」
「次の厄災を祓う役目を担ったのは、我らパワーズということだ。御言葉は、ヤハウェ御身からシェムハザに伝えられているはず。つまり、貴様らグリゴリの戦士こそ、我らを妨害していることになるぞ?」
ラグエルが意味深な言い方で、アナーヒターに言葉を返した。
シェムハザが言っていた話と違う。グリゴリの戦士が、厄災を祓う天使たちではないということ? 意味がわからない……。アスリンは、シェムハザの言葉に虚偽はないと言っていたのに。
私がアナーヒターを見つめると、彼女は煙管を咥えて煙を口に含み、大きく息を吸ってからそれをゆっくり吐き出した。
アナーヒターは、ラグエルの言葉に動揺することなく冷静だった。ジッと見つめ合う二柱の天使たち。
「へぇ……、ソイツは初耳だねぇ……」
「天使ラグエル! あなたが正しいなら、シェムハザがボクたちを騙していると言いたいのか?!」
ユッキーが強い口調でラグエルに問いただした。
「あのヤマネコが貴様らに何をした? 何もせず、黙って見ているだけだろう?」
焦ってはダメだ。冷静に考えればわかること。
少し上から目線で、おかしなところもあるけれど、シェムハザが私たちを騙しているように思えない。虚偽を見破るアスリンは、シェムハザとアナーヒターを信頼している。それに彼らは、コイツらと違って人間を邪険にしない。
『ユッキー、落ち着いて! 騙されてはダメ! アスリンが信用しているのだから大丈夫!』
私は、動揺しているユッキーに念話を送って宥めた。ユッキーは、私を見て頷き、すぐに冷静さを取り戻した。
「シェミーが無愛想で見ているだけなのは、今に始まったことじゃないさ。まぁ、仮にヤハウェの御言葉が真実だとして、なぜアンタらパワーズを頼ったのか知りたいねぇ」
「テルースの人間は、この数百年で急速に文明の進化を遂げ、その数を爆発的に増殖させた。そしてついに、調子に乗った奴らは、我々の存在を脅かすようになった」
「ヤハウェは、竜戦争の創痕から、テルースの地中深くに鎮座し、もう宇宙へ還れぬ身……。人間の力を脅威に感じたヤハウェは、アンタらを頼り何をするつもりでいるんだい?」
口の中に含んだ煙管の煙を吐き出しながら、アナーヒターがラグエルに質問を重ねた。
「テルースから人間を浄化する」
「なんですって?!」
私は、身勝手な天使の発言に、思わず大きな声を出してしまった。行き過ぎた力を持つものを認めない。私は、アスリンから聞いた天使の話を思い出した。
「ヤハウェは、御身が創造した我らアヌンナキよりも、限られた命ある限り探求心を求め勤勉で忠実な人間を愛しておられた。それを知ってか知らでか、テルースの人間は、神と崇めるヤハウェの恩恵に肖り、高度な技術と英知を身につけた。そして気がつけば、魔術を持たぬ癖に我らと同等の生物工学と核技術までも習得している有様だ。このままでは、我らとて人間に支配される時代が訪れよう。それは、まさに神への冒涜。ヤハウェは、それを懸念してこの度の決断に至った」
ラグエルが語ったその理由は、あまりにも身勝手な内容だった。
「やれやれ。敢えて厄災を利用して、テルースの人間を死滅に追い込むって寸法かい?」
アナーヒターは、深く溜め息を吐きながらラグエルに尋ねた。
「いかにも。これは、テルースの人間の増長に目を瞑ってきた我々の責任でもある。我らと同等の兵器を所持する相手を淘汰するには、この手しかなかろう?」
「そんなことをすれば、身動きが取れないヤハウェに危険が及ぶだろう。ヤハウェは、それを承知しているのかい?」
「それを伺う必要はない。此度の件にしろ竜戦争の発端も、全てはヤハウェ御身の行動が起因するもの。ましてや、彗星ニビルの襲来は、竜戦争の折に神竜王アジ・ダハーカが、ヤハウェに使った『呪怨』が原因だ。もし、ヤハウェが沈めば、ニビルの軌道も元に戻るだろう」
ラグエルは、満足気な表情でアナーヒターにそう告げた。彼らは、果てしなく長い年月を共にした、意思を持つ宇宙母船を沈めようとしている。涼しい顔でそんなことが言えるラグエルは、天使ではなく冷酷な悪魔そのものだ。
「意思を持つ母船ヤハウェは、あなたたちの生みの親でもあるんでしょう?! あなたたちを頼りにしているのに、そんなことをしたら本末転倒じゃない!」
私は、ラグエルを睨みつけて大声で言った。監視者は、また私を見て白い歯を見せた。馬鹿にして……。私は、本気でコイツが大嫌いだ。
「アナーヒターよ、かつて属性八柱であった貴様は、ヤハウェを恨んでいるはずだ。ルーアッハに封じられた我ら同胞の苦しみと、厄災の度に犠牲となる罪なき属性八柱の人間の絶望と嘆き。意味がわかるだろう? どうだ? 我らと手を組み、世界の秩序を共に護らぬか? 荒廃したテルースを復興するために、貴様の力がどうしても必要になる」
「な、何を言ってるんだ……、こいつ?」
ラグエルの衝撃的な発言に、ユッキーは言葉を詰まらせた。それは、私も同じだった。アナーヒターが、属性八柱だった……? その属性八柱は、厄災の犠牲になる……? どういうことなの?! 不安に駆られた私がアナーヒターを見つめると、彼女は腹を抱えて笑い始めた。
「アハハハハハハハ……」
石造りの大聖堂の客間に、アナーヒターの笑い声が響き渡る。
「侮るんじゃないよ! 地に堕ちたね、ラグエル。たしかにアタシは、ヤハウェを恨んでいた。今でもこの手で沈めてやりたい程にね……。けどね、地球で生きる人類は、アタシの可愛い子孫たちでもあるんだ! 三日後のアンタの本体は、端からこの談義が決裂することを知っていたんだろう? 交渉に合わせて帝国の軍勢に戦を仕掛けさせるだなんて、アンタも策士だね。ユッキー、この堕天使の幻影を始末しな!」
「は、はいっ!」
パンッパンッ!
アナーヒターの指示を受けたユッキーが、賺さずラグエルの幻影に向けて拳銃を発砲した。弾丸が幻影に命中すると、ラグエルの幻影は音を立てず消え去った。
「今の話はいったい……」
私がアナーヒターに問いかけると、彼女は煙管を持った手を上げて私の質問を遮った。
「彩葉、ユッキー。色々と訊きたいことがあることはわかっている。けれど、今アタシが言った通り、シェミーからアートマに連絡が届いてね。隣国のアルスターが、帝国の攻撃を受けたって話さ。今は、急いで城へ戻るよ。話はそれからだね」
私とユッキーは、真顔で話すアナーヒターに黙って頷き、駆け足で大聖堂の通路を進む彼女の後を追った。
このタイミングで、アルスターが攻撃された……?
しかし、そのことよりも、属性八柱が厄災の犠牲になるという、ラグエルが言った言葉が気になって仕方がない……。
焦りと不安から胸が裂けるように苦しい。
誰も失いたくない。ハルが犠牲になるだなんて、そんなの嫌だ……。
もし、私が人間のままでいたなら、きっと恐怖という感情に押し潰されてしまっていただろう……。