竜との契約(下)
『我ら竜族の本質は魂にある。その肉体はかりそめの姿。魂を宿す器さえあれば、肉体は滅びても我の魂まで滅びることはない。まだ死者の国へ旅立つ前の、その娘の体を器として我の魂を宿せば、その娘は死者の国へ旅立つことはない』
目の前に倒れる黒鋼の竜ヴリトラ。ヴリトラは、機関銃で撃たれ死の縁を彷徨う彩葉を救う方法を、ボクたちの脳内に直接伝えて来る。
「それであんたの魂が助かったとして、彩葉の魂や体はどうなっちまうんだ?」
ハルに代わってボクが質問する。
『心配は要らぬ。その娘の魂も体も、そして今まで生きた記憶もその娘のもの。多少変わるとすれば、人から逸脱した竜の力と我ら竜族と同じ竜の心が備わることだ。伝え方を換えるなら、その娘の体を我が魂の仮宿とするに過ぎぬ』
竜の力と竜の心……。それがどんなものであるかわからないけれど、ボクとハルは暗闇に光が差し込むような思いでお互い顔を見合わせて頷いた。怒りと悲しみに包まれていたハルの表情に、笑顔が戻った。たぶん、同じことをハルもボクの顔を見て思ったに違いない。
彩葉が助かる! そう思うだけでボクはまた涙が溢れそうになった。
「お願いします! 俺は彩葉を助けたい! そのためなら何だってする!」
ハルはヴリトラに叫ぶように言う。
「それでヴリトラ、契約の内容って何なんだ?」
ボクは気がかりだった点を竜に問う。
『時間はどれだけかけてもよい。その娘に宿した我が魂を、アルザルにおわす神竜王ミドガルズオルムの元へ届けることだ。間もなく我が肉体が滅びると同時にシンクホールが閉ざされ、そなたらは強制的にアルザルへと渡ることになる。ここへ戻る道がないわけではないが、しばらく帰ることはできぬ。取引に応じるのであれば、我の額に刺さっている聖剣を抜き取り、そこから滴る我の血液をその娘の口から体内へと注げ』
ヴリトラはそう言い終わると、ヴリトラの額に刺さった剣が、手の届く高さになるよう頭を下ろた。そしてヴリトラは、そのクランベリーのように真紅に輝く大きな目をそっと閉じた。すると竜の体は淡く光り輝き始め、光る粒子のようなものが空へと昇り始めて姿がどんどん薄れてゆく。
「もしかしたらハル、早くしないと本当にこのドラゴン消えちまうかも?」
「あ、あぁ……テルースってこの世界のことなのかな? 俺たちしばらく帰れなくなるのか……」
「時間がない、早くやろうぜ、ハル!」
「幸村、お前やり残したことや夢だってあるだろう? 俺たちのことをみんなに知らせてくれ! 俺にかまわずお前だけでも……」
「そりゃねぇだろ、ハル! ボクだけ仲間外れにしないでくれよ。ハルと彩葉の二人がいるならどんな場所だってやっていけるさ! それにこの空間からどうせ出られないんだろ?」
ボクはハルの言葉を遮って共にハルたちと異界へ行く決意を伝えた。この空間から出られないかどうかは正直わからなかったけれど、ボクは一人で戻るつもりはなかった。
「わかった。じゃ、剣を抜くぞ」
ハルはドラゴンの額から剣を抜こうとするけど堅くてなかなか抜けない。ボクも加勢するために少し竜の体をよじ登る。竜の鱗に触れると驚くほど硬く、そして冷たかった。例えるならまるで鋼鉄だ。
「硬いな、これ……。この剣、よくこんな硬い所に刺さるな」
「ボクも手を貸す」
ボクはハルとともに剣の柄を掴んで剣を抜こうとする。二人で声を出しながら全体重を掛けると、何とか剣を抜くことができた。想像以上の労力でボクとハルは息が切れていた。しかし、今は休むわけにはいかない。ヴリトラが言うように額から引き抜かれた剣からは、染み込んだ竜の血液が剣先からポタポタと滴り落ちる。
「これを飲ませれば……、いいんだよな……?」
ハルが確認するように言う。これ以上血液を溢さないように注意しながら仰向けで横になっている彩葉の元へと駆け寄った。
「ボクが剣を持ってドラゴンの血を注ぐから、ハルは彩葉の口を開けてくれ」
「わかった。竜の力とか竜の心ってのが気になるけど……今はこれしかないよな」
「ボクもそう思う」
中学生の頃に授業の一環で習った救命救急の要領で、がまぐちの財布をあけるようにハルが彩葉の口を開けた。
「いいぞ」
ハルの合図で、ボクは剣の先端を彩葉の口元へ移動させて、竜の血液を彩葉の口の中へと注ぐ。あまりの緊張で、ボクはゴクリと生唾を飲み込んだ。竜の血を注ぐと彩葉の体が眩しく光り輝いたり、大きなアクションが起こるかと思っていたけど、特に目立った反応はなかった。
『契約は成立した、人の子よ。感謝する。我もこの娘もこれで救われた。間もなく我と直接疎通ができなくなるが、我は折りを見てこの娘の意思に情報を伝えることにする……。何か必要なことがあるならこの娘に問うが良い』
「本当に彩葉は、この子は死なずに済むんですね?!」
ハルが念を押すようにヴリトラと名乗るドラゴンに伺う。
『無論だ。ただ、我とその娘を……、このような目に遭わせた、忌まわしき人の子の仲間がシンクホールを抜けた先にいるはずだ。霧が晴れたら……十分に用心せよ。奴らに遭遇したら……その娘の竜の力を頼れ……。竜の力は、……アルザルであれば存分に活かされる。そして、その後は……ヴァルハラを目指す……のだ。……どうやら……ここまでの……ようだ……頼んだぞ……人の子らよ……』
それ以降、竜の言葉は聞こえなくなった。消えてゆくヴリトラの肉体の代わりに、彩葉の胸部の傷口が淡く輝き始め、血の気がなかった彩葉の顔色がみるみると良くなってゆく様子がわかる。
「信じよう、ハル」
「あぁ」
これは僅か十五分程度のできごとだと思うけれど、ボクには何時間も経っているように感じた。本当に現実離れしたとんでもないことが起きてしまった。ヴリトラの体はやがて見えなくなり、辺りからは暗紫色の霧が消え始めて徐々に晴れた空が見えてくる。
それと同時に周囲に薄っすらと見えていた、いつもの神社の社務所や弓道場といった見慣れた景色が、更に薄れて見えなくなり、代わりに見たこともない草原地帯と、水平線まで見渡せる海のようなものが現れ始める。
周りを見ると地面に置いたボクらの荷物や二人の軍人の死体も、あの空間ごと一緒に別の世界へ転移してきたようだ。
すっかりと霧が消えて、晴れ渡る空には太陽が二つ輝いているのが見えた。一つはボクの知っている太陽とそっくりだが、もう一つの方は輝きが弱く、濃い橙色のような色合いで肉眼で見ても目が痛くならなかった。
「幸村、本当に別の世界に来てしまったみたいだ。アルザルって言ってたよな……。本当に帰れるかどうか……もうわからないな」
「そうだな……。何だかとんでもないことになってきたけど、ボクは後悔してないぜ。たぶんだけど、地球とは別の星だよな、ここ」
体が極端に重くなったり軽くなったと感じないことから重力は地球とほぼ同じなのだろう。
「太陽。二つあるし……な。別の世界なのか、別の星なのかわからないけれど、とにかく遠い所なんだと思う。ヴリトラがテルースと呼んでいたけれど、それが地球のことなのかもしれない。幸村、さっきの奴らの仲間が近くにいるってヴリトラは言ってたから気を抜かずに行こう」
「了解。でもさ、ハル」
「ん?」
「もう絶対に無茶はしないでくれよ」
「あぁ、わかった。しっかり作戦を練らないとだな」
ハルは笑顔で答える。彩葉はまだ目が覚めそうにないけど、ハルはいつものハルに戻ったように見える。正当防衛とはいえ、ハル殺めた軍人たちのことについて、しばらく触れないようにしようと思う。奴らの仲間がどれくらいいるかわからない。次はボクが奴らを殺める番かもしれない。もしその時が来たら、容赦なんてするものか。
「なぁ、幸村」
「ん?」
「俺達が帰らないことや地面に残ってる彩葉の血痕から大騒ぎになったりするかな?」
「きっとそうなると思うよ……」
「親に……心配かけちまうなぁ……」
「まぁ、そうなるな……」
ハルや彩葉は家族ととても仲がいいからきっとそうなるだろう。ボクの家は、果たしてどう思うか見当がつかない。どこまでも広がるこの知らない世界の空を見つめながら、ボクは溜め息をついた。
空を見上げると雲が浮かんでいる。目の前に広がる草原は、爽やかに吹きつける風に揺らされている。よく見ると小さな虫が飛んでいたり、空から鳥の声も聞こえてくる。ここは、地球とそれほど変わらない環境の星なのかもしれない。
これからどんな未来が待っているのか想像もつかないし、不安に押しつぶされそうな思いで一杯だ。しかし、コンクールのための練習漬けの日々や、兄と比較される両親からの重圧から解放されることは、個人的に少しだけありがたかったりする。そして当たり前だった三人でいるということが、これからも続けられることが本当に嬉しい。
それにしても、彩葉も相当素直じゃないけど、ハルはそれ以上に素直じゃない。
わかっていたことだけど、ハルの彩葉に対する想いは、ボクが彼女に対して想う気持ちとは別格だった。そもそも、彼女の想いを最初から知っているボクが、ハルに勝てるわけがなかった。
しかたがない。ボクが二人を応援してやる。二人ともよく似て素直じゃないから、後押しがないと二人の関係は遅々として進まないだろう。
始まりは最低な展開からだったけれど、ボクにとって最高の旅がここから始まろうとしていた。